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年度 1994年

設問番号 第1問

テーマ 倭の五王と遣隋使との外交姿勢の変化/古代


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設問の要求は,史料(1)と史料(2)の間で倭国の王の中国皇帝に対する対し方はどのように変化しているか。
史料(1)は倭王武で,史料(2)は推古朝の遣隋使。前者が中国皇帝に朝貢し冊封を求めているのに対し,後者が中国皇帝との対等の立場をとろうとしている。


設問の要求は,設問Aの変化をもたらした歴史的な背景。条件として,国内・国際両面について述べることが求められている。

(1)について。
武が封じられたのは「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」であり,これにより倭の支配権(倭王としての地位)と倭や新羅・任那など朝鮮半島南部の諸地域の軍事的支配権を中国皇帝から承認されることとなった。
このことは倭の王が倭人社会や朝鮮南部の諸地域に君臨するにあたり有効であった。倭人社会でいえば,中国皇帝からの下賜品を分与することは諸豪族を統合するための手段として機能したし,また朝鮮南部に対する軍事指揮権が認められたことは,南下政策を進める高句麗に対抗して国際的地位の向上をはかる手段として有効であった。
つまり,倭王が自らの実力のみで倭人社会の諸豪族に君臨することが実現しておらず,また自らの実力のみでは高句麗に対抗できないという状況にあったため,倭王は中国皇帝から冊封をうけることでその権威を活用しようとしたのである。

なお,この時期の倭王が,諸豪族から突出した政治的地位を確立できていなかったことは,5世紀の巨大な前方後円墳が大和・河内だけでなく吉備でも築造されていることからもわかる。

(2)について。

ところが推古朝になると,中国皇帝からの冊封を受けず,東アジアの国際秩序のなかで中国皇帝との対等な地位を確保しようとする外交姿勢に変化した。

推古朝といえば,まず冠位十二階や憲法十七条が定められ,大王の権威が強調され豪族の官僚化が進み始めていたことを思い起こそう。大王の豪族に対する優位性が確立しており,諸豪族を統合するにあたり,冊封を受けるという形で中国皇帝の権威を活用することを必要としなくなっていたのである。

では,対外関係はどうか。
大和政権と密接な関係をもっていた加羅(加耶)諸国が6世紀半ばに百済の南下・新羅の強大化のなかで滅亡し,朝鮮南部に対する影響力を大きく後退させていた。 ここまでは教科書レベルの知識である(推古朝に新羅出兵が計画されたものの失敗に終わったことを記した教科書もあるが)。ここから,冊封をうけずに中国皇帝と対等の立場をめざした背景を説明できるだろうか。
その際,“7世紀後半〜8世紀における国際認識”を想起するのがよい(1992年度第1問,名古屋大(文)1992年度第1問(1)問4を参照のこと)。そうすれば,朝鮮半島から勢力を後退させたものの,中国皇帝と対等の立場を主張することを通じて“朝鮮諸国を朝貢国と位置づけ,独自に君臨しうる立場を確保”しようとしたと考えることができる(なお,8世紀の倭=日本は唐に朝貢するものの冊封を受けることを拒否しており,唐もそれを黙認していた)。
ただこれだけでは単なる類推。教科書レベルの知識を使いながら,この枠組みに肉づけを行ってみよう。
推古朝に新羅出兵が計画されていたように,倭は新羅と対立状態にあったが,では隋はどうだったか。607年の遣隋使に対し,隋の煬帝はその対等外交の姿勢に激怒したものの,高句麗遠征計画への配慮から倭に対し答礼使裴世清を派遣している。つまり,隋は高句麗と敵対関係にあり(初代皇帝文帝のときにも高句麗遠征を実施していたが失敗に終わっていた),高句麗の背後に倭がいること・あるいは高句麗と倭が提携することを警戒していたわけである。
このことを念頭におけば,隋と高句麗との敵対状態を利用して隋との対等な立場を確保し,それを通じて新羅への優越を維持しようとしていたと説明することができる−ちなみに新羅は隋に朝貢し冊封をうけていた−。


(解答例)
A (1)では中国皇帝に朝貢し,冊封を受けているが,(2)では中国の冊封体制から離脱し,中国皇帝と対等の立場を主張している。(56字)
B (1)の頃は,中国皇帝の権威をよりどころに倭の諸豪族への優越性や朝鮮南部への軍事指揮権を確保した。しかし(2)の頃には,国内統治が安定して大王の権威が向上し,中国の冊封を受ける必要はなかった。さらに,隋と高句麗との敵対状態を利用して隋との対等な立場を主張し,朝鮮諸国に独自に君臨しうる立場を固めようとした。(149字)
別解
5世紀末以降,氏姓制度の整備が進んで国内統治が安定し,大王の権威が向上していたため,中国の冊封を受ける必要はなかった。他方,伽耶滅亡後,朝鮮での勢力回復をはかったが成果をあげることができず,隋と高句麗との敵対状態を利用して隋との対等な立場を主張することで朝鮮諸国に君臨しうる立場を確保しようとした。
この問題に対する緑本(Z会)の解答例についての質問をメールでもらい,下記のような返答メール(やや修正)を送りました(2000.2.5)。

> 平成6年の一番の解答が,緑本では,朝鮮半島から朝貢を受けていた,となっていま
> すが,どちらなんのですか?

緑本のように“朝鮮半島諸国から朝貢を受けていた”と表現するよりは,“朝鮮諸国を朝貢国として位置づけようとした”のように表現する方が適切です。

もう少し詳しく説明すると...

高句麗・百済・新羅は,隋・唐の圧迫や三国間の緊張などを背景として倭にもそれぞれ使節を送ってきていますし,一定期間,外交使節が倭に駐在している場合もあります。
倭の側では,それらを朝貢の使節,人質とみなしていますが,朝鮮諸国側も,外交政策上の戦略的配慮から,場合によっては朝貢と見なされることを許容しています。その“外交政策上の戦略的配慮”というのは,敵対している国との関係・自国の安全保障上の判断から倭とのより緊密な関係を維持することを優先させ,倭が自国を朝貢国扱いすることを容認する,というものです。ですから,8世紀の新羅のように,唐との対立関係もなくなって自国をとりまく国際情勢の緊張が緩和されてしまうと,朝貢国扱いから離れようとする動きが表面化します。
ですから,緑本のように「6世紀以降,朝鮮半島諸国から朝貢を受ける立場となり」と表現することも可能ですが,その場合,上のような外交上の微妙な現実的関係が全て無視されてしまいます。また,緑本のように単純に「朝貢を受けていた」と考えると,推古朝の新羅出兵が失敗しているにもかかわらず新羅から「朝貢」を受けていたということになり−新羅出兵が成功していたのならわかるが−,倭と新羅の関係がわかりにくくなってしまいます。
というわけで,“朝鮮諸国を朝貢国として位置づけようとした”“朝鮮諸国に対する優越的な地位を確保しようとした”のように,倭の意図・姿勢として表現する方が適切です。
[2000.2.5]


Bの解答例について,2001.3.6付けで質問メールをいただき,下記のような返答メールを送りました(2001.3.7)。

> (1)と(2)の間の背景をきい
> ているわけです。ところが,解答では(1)の背景と(2)の背景が書いてありま
> す。そもそものアプローチが間違っているのではと感じませんか。少なくとも,
> (1)の背景は聞かれていないと思います。

(1)については,私の作成した解答例ではその背景には全く触れておらず,中国皇帝から冊封をうけることで何を目指したのかを記しただけのことです(背景は,国内における大王の絶対的権威が確保できていなかったこと,朝鮮半島では高句麗との対立をかかえ,かつ劣勢にあったこと)。
それを明記したのは,それとの対比から(2)の背景としての国内・国際情勢がより明らかになると考えたからです。

> ”7世紀には,国内統治が安定し
> て〜中国のさく封を受ける必要がなかった。”とあります。しかし,そんなに簡単に
> 国内統治が安定したといってよいのでしょうか。7世紀は一貫して集権化に対する諸
> 豪族の抵抗といちづけられます。豪族の抵抗をいかにおさめるかが課題だといえま
> す。したがって,むしろ対等外交を主張した国内的理由は,朝貢をするよりも対等外
> 交を主張したほうが,豪族に権力をアピールできるからだと考えられます。(あのす
> ごい中国と日本の天皇は台頭なの。というかんじで。つまり,中央集権策。)

まず,「集権化に対する諸豪族の抵抗」という特徴づけですが,5世紀後半から6世紀についての特徴づけならば首肯できるのですが,7世紀については,大化改新以降の集権化に対して諸豪族が不満を募らせていたことであればともかく,推古朝の特徴としては了解しかねます。
もちろん,「国内統治の安定」と“簡単に”言い切ってしまうことへの疑念は,わかります。とはいえ,推古朝には旧来の氏姓制度を改めて新たに官僚制的な要素を支配組織のなかに部分的であれ導入することが可能な基盤が整っていたわけですから,5世紀後半〜6世紀段階との比較という相対的なレベルでは,そのように表現することが可能だと思います。(

次に,「対等外交を主張した国内的理由は,朝貢をするよりも対等外交を主張したほうが,豪族に権力をアピールできる」というのでは,倭の五王がなぜ中国皇帝に朝貢し,冊封を受けたのか,その国内的要因を説明することができません。倭の五王は中国皇帝から冊封を受けることで,いわば「豪族に権力をアピール」したのですから。
また,対等外交を主張した遣隋使も「朝貢」です。朝貢したかどうかではなく,冊封を受けたかどうかが,倭の五王と推古朝との外交姿勢における相違点です。

> 出題者の論文を調べたところ,そもそも対等外交を主張しよ
> うと聖徳太子が考えた理由が載っていましたので参考にしていただけるとありがたい
> です。聖徳太子が,仏教を受容,理解することで圧倒的な中華思想から脱却を図っ
> た,と出題者は主張しています。(インドの仏教という新世界からみれば,日本も中
> 国も対等だということです。)

仏教の受容と共に中華思想を超越できる世界観が受容されたことや,そうした性格をもつ仏教を基盤とすることで中国皇帝との対等意識を培うことが可能であったことについては,何の異論もありません。別解として,その点を指摘した答案もありえると思います。
とはいえ,冊封は拒んだとはいえ,中国皇帝への朝貢という形式は遣隋使でも継続しています。また,国内統治でみても,仏教だけが政治思想として活用されたわけではありませんし,大王(→天皇)の権威が仏教によって基礎づけられていたわけでもありません。憲法十七条では,仏教だけでなく儒教や法家などの思想に基づいた政治理念が示されており,大王(→天皇)と諸豪族との君臣関係については「君をば則ち天とす。臣をば則ち地とす」と述べられています。その意味では,“仏教の受容”の果たした役割をそれほど大きく評価できるのか,やや疑問です。

ところで「出題者」とはどなたでしょうか?

> オリジナル解答例を作りました。”国内要因として,
> 政治を主導した聖徳太子が仏教的世界観を身に付けて中国からの自立傾向を強めたと
> 考えられること,半島での優位を確保し集権政策を進めるにはより強い権威が求めら
> れたこと,があり,国際要因としては,高句麗遠征を控えた隋には背後に敵対勢力を
> 持つ余裕はないと日本側が判断したことがあげられる。”

まず,「半島での優位を確保」は,国際要因のなかで説明すべきです(なお,「半島」ではどこのことか分かりにくいので,「朝鮮」もしくは「朝鮮半島」と表記するのが妥当です)。また,それだけの説明では(1)の頃との違いが明確にできません。もう少し表現に工夫が必要ではないでしょうか。
また,「集権政策を進めるにはより強い権威が求められた」とあるのですが,先に述べたように,推古朝には旧来の氏姓制度を改めて新たに官僚制的要素を支配組織のなかに部分的であれ導入することが可能な基盤が整っていたのですから,“(1)の頃からの変化”という意味においては,目的ではなく,背景として“大王の権威向上”を指摘しておきたいところです。

付記
この返答に対して,まだ質問者からコメントをいただいておりませんが,(1)について全く触れない形での別解を作成してみました。なお,「出題者」については受験生としても情報を知っていて損はないのですが,出題者個人の見解・解釈を意識しなければ解答が作成できないような問題は不適切な出題といえます。[2001.5.29]


笠原一男・安田元久編『史料日本史』上巻(山川出版社,1978)の p.31 に推古朝についての次のような記述(執筆担当は笹山晴生)があることに最近になって初めて気がついた。

「欽明朝以来の政治組織の整備がいっそう推進され,権力の強化がはかられた。中央の有力豪族は大臣・大夫の政務執行機関に組織され,伴造が品部を率いて朝廷の職務を分担するという体制が形成された。王室に関することが国家の制度の中に位置づけられ,大后(皇后)や大兄(皇位継承の資格をもつ皇子),その経済的基盤としての私部や壬生部の制度が整ったのもこの時期のことと思われる」。
この評価を前提とすれば,推古朝には「国内統治が安定して大王の権威が向上し」ていた,との判断には無理がないと言える。[2001.11.22]
【添削例】

≪最初の答案≫

A1では中国皇帝に朝貢して称号・地位を得ているが,2になると朝貢は行わず,隋との対等外交を主張するようになっている。

B6世紀後半から倭国内では,国内統治が進んで大王が強大な権力を持つようになり,外交を一独立国として行えるようになった。国際面においても,5世紀は朝鮮諸国に対する優越性を得るために中国に朝貢して称号・地位を獲得していたが,6世紀になると倭国の地位が確立し,朝貢をおこなう必要がなくなった。


> 1では中国皇帝に朝貢して称号・地位を得ているが,2になると
> 朝貢は行わず,隋との対等外交を主張するようになっている。

基本的にはOKですが,推古朝についてはやや不正確。朝貢ではあるものの,冊封を拒否したところに特色があります。それゆえ,「冊封を拒み,隋との対等外交を主張する」などと表現するのが適当。


> 6世紀後半から倭国内では,国内統治が進んで大王が強大な権力を
> 持つようになり

なぜ「6世紀後半から」なのか。また,“国内統治が進む”というのはどういう事態なのか。
これらの点がやや不明確。もう少し具体的に説明しておいた方がよい。

> 外交を一独立国として行えるようになった。

推古朝になって初めて「外交を一独立国として行えるようになった」という説明は,歴史的にいって成り立たない。

そもそも,中国皇帝から冊封をうけてその藩属国となることと,独立国であることとは矛盾せず,中国南朝の宋と朝貢・冊封関係を結んでいた倭の五王の頃にしても,独立国として外交を行っている。当時の宋は,中国南部を支配していたにすぎず,朝鮮半島や日本列島に対する直接的な支配権を行使しうるだけの勢力を保持していないのだから,倭の独立国としての地位が損なわれることなどありえないし,また,冊封という行為は中国皇帝の直接支配下にない地域の首長が中国皇帝に臣従するために使節を派遣(朝貢)してきたときに,それに対応して行われる措置であり,独立国としての内実に変更を加えるものではない−もちろん,冊封をうけて藩属国となった証として,暦の下賜をうけ,外交文書には中国皇帝の定める年号を使うことになるが,だからといって独立国としての内実が失われるわけではない−。さらに言えば,中国の周辺諸国にとって,中国と朝貢・冊封関係を結ぶことは国家の安全保障のための一つの選択肢なんです。
だから,倭王武((1))の頃にしても,推古朝と同じように,一独立国として外交を行っていました。

> 国際面においても,5世紀は朝鮮諸国に対する優越性を得るために
> 中国に朝貢して称号・地位を獲得していたが,6世紀になると倭国
> の地位が確立し,朝貢をおこなう必要がなくなった。

「6世紀になると倭国の地位が確立し」とは,具体的にどういうことなのか?
緑本では「日本はこの頃,朝鮮半島の3国から朝貢を受ける立場となっていたのである」と説明されており,そのことを念頭においた説明なのかもしれないが,もしそうなのなら,その旨を明記しておきたい。

ところで,その説明は果たして“教科書の記述”と整合的なものなのだろうか。

倭王武が宋から封じられた軍政官としての官爵は
 使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍・倭王
ここでは,新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓という朝鮮半島南部の地域を含んでいる。

ところで,その地域は6世紀に入ってどうなっていったのか。
「任那・加羅」は,倭が「はやくから密接な関係をもっていた」(山川『詳説日本史』)伽耶(加羅)諸国を指すといわれているが,6世紀初めには西部地域が百済の支配領域に組み入れられ(任那四県割譲問題と称されることがらがその一部),新羅が東部地域へ徐々に勢力を拡大していく。そのなかで発生したのが磐井の乱であり−この乱後に西日本各地で国造制が実施されたともいう−,最終的には562年新羅により東部地域が併合され,伽耶諸国は消滅した。

結局,倭は朝鮮半島から勢力を大きく後退させており,推古朝でも新羅征討計画をたてたものの目的を実現させることはできなかった−「加羅における勢力の回復をはかって,朝鮮に出兵しようとしたが,じゅうぶんな成果をあげることができず」(実教『日本史B』)−。

こうした歴史的経緯と“朝鮮諸国から朝貢をうける立場にあったこと”とは整合性をもって説明できるのだろうか。

それが説明できるのであれば,「6世紀になると倭国の地位が確立し」と表現してもいいでしょうが,それを判断するにはやや説明が不足している。

≪書き直し≫

B5世紀後半から大和政権の政治基盤の整備が進み,大王を中心とする支配の確立が進むと,中国皇帝から称号・地位を得て権力を示す必要は薄れた。国際面においても,加羅の滅亡などによって朝鮮経営の必要がなくなったため,冊封を受けることはせずに,隋との対等外交によって先進的な文物・制度を得ようとした。

> 5世紀後半から大和政権の政治基盤の整備が進み,大王を中心とす
> る支配の確立が進むと,中国皇帝から称号・地位を得て権力を示す
> 必要は薄れた。

OKです。

> 国際面においても,加羅の滅亡などによって朝鮮経営の必要がなく
> なったため,冊封を受けることはせずに,隋との対等外交によって
> 先進的な文物・制度を得ようとした。

議論としては筋が通っていますので,とりあえずはいいでしょう。

ただ,問題は残ります。
では何故,推古朝は「加羅における勢力の回復をはかって,朝鮮に出兵しようとした」(実教『日本史B』)のか?
この事実を念頭におけば「朝鮮経営の必要がなくなったため」との説明はやや無理がある。