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年度 1997年

設問番号 第3問

テーマ 18世紀後半〜19世紀初頭の内憂外患/近世


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設問の要求は,松平定信が「政務の取り計らい違いといいながら,上を見透かしぬいたること前代未聞なり,世の衰えこの上あるべからず,誠に戦国より危うき時節と世は覚えたり」と考えたり,杉田玄白が「この時節,世まさに乱の萌し見えたる様なり」と考えた理由。
条件として,当時の国内および対外情勢から説明することが求められている。なお,「当時」とは,1768(明和5)〜1807(文化4)年ころ。

まず条件から考えていこう。その際,1768(明和5)〜1807(文化4)年ころという時期設定から思い浮かぶことがらをリストアップしてみるとよい。
≪国内情勢≫
●田沼政治
●天明の大飢饉→百姓一揆・打ちこわし(1787年天明の打ちこわしが発生)
●寛政の改革
●関東取締出役の設置(1805年)
≪対外情勢≫
●ロシア人の南下→ラックスマンやレザノフの来航
●松前・蝦夷地全域の直轄化→松前奉行の設置(1807年)

次に,問題文で与えられた史料に関して。
松平定信が「政務の取り計らい違いといいながら,上を見透かしぬいたること前代未聞なり」と評しているが,1787(天明7)年という年代から判断すれば,それが“天明の打ちこわし”に対する評価であることは推測できるだろう。
打ちこわしとは,飢饉などによる物価の上昇を原因として,都市民衆が米穀商や豪商を襲撃しその家屋・家財を破壊したもの。その主体となった人びとは,零細な長屋に住み,日用稼ぎなどに従事してわずかな貨幣収入でどうにか暮らしていた貧しい都市民衆であったが,都市下層民(貧民)が増加した背景は何か。

また,杉田玄白が「この時節,世まさに乱の萌し見えたる様なり」と書いた1807(文化4)年ころと言えば,関東取締出役が設置された直後であり,レザノフ来航をきっかけとして高まったロシアとの緊張に対処するために松前・蝦夷地が上知されたころである。
関東取締出役という関東全域にわたって警察権を担う役職が新設された背景は博徒や無宿(定職や住居をもたない人びと)の横行による治安の悪化であるが,博徒や無宿が横行するようになった社会的背景は何か。

都市貧民が増加したのも,博徒や無宿が横行するようになったのも,農村社会への商品経済の浸透を背景としている。
商品経済の浸透は本百姓経営(家族を働き手とする小農経営)を分解させ−享保改革以来の年貢増徴策と商業重視の政策がそれを助長−,質流れ地を集積して地主となるものが出る一方,土地を手放し,出稼ぎに出たり村を離れて都市へ流入するものが増えた。それに加え,商品経済の浸透は消費的な生活文化の浸透を伴い,(意識レベルでの)生活水準の向上も招いていた−必ずしも生活が豊かになったとか楽になったという話ではないが−。豊かさを夢見て都市へと流入する人びとの流れも引き起こし,また物見遊山の旅に出る人びとも増えていく。
こうして18世紀半ば以来の経済発達のなか,農村社会での住人の流動性が高まり(そこに発生した天明期の飢饉は,農村から都市に向けた人口の流出をいっきに加速させた),その結果,都市では零細な長屋に住み,日用稼ぎなどに従事してわずかな貨幣収入でどうにか暮らしていた貧しい都市民衆が増加し,家持町人を中心とする都市構成が大きく変化した。こうして人びとの社会的流動性のたかまりのなかで,村や町の共同体としての規制が弛緩する。
ところが,もともと近世身分社会の基本単位は村・町といった社会集団(共同体・自治組織)であった−さらにそれら社会集団は家によって構成され,そして人びとは家に所属,家を通じて家中や村・町に所属し,その分際(分限)に応じた権利を保証され生業(家業)を営んでいた−。したがって,村や町の共同体秩序が弛緩することは身分制の動揺を意味していた。なお,このあたりのテーマについては1993年第3問,1996年第3問も参照のこと。

対外情勢について。
1807年ころまでという時期の限定があるのだから,イギリス(フェートン号事件やアヘン戦争)やアメリカ(モリソン号事件)との関係については記述してはならない。


(解答例)
年貢増徴と商品経済の発展により本百姓経営の分解が進み,離農者の流入により都市下層民が増加し,博徒などの無宿も横行した。天明の飢饉はその動向に拍車をかけ,百姓一揆や村方騒動,打ちこわしが頻発し,村や町の共同体秩序が動揺した。また,ロシアが通商を求めて接近して対外関係が緊張し,内外の危機が深まっていた。
【添削例】

≪最初の答案≫

江戸時代,鎖国体制の影響から国内では日本型中華思想が浸透しており,諸外国を夷狄みなす風潮があった。しかし,19世紀になると外国船の往来が頻繁になり,そのような中で,日本人と外国人が接触することは敵対関係を生み出し,特に近代国家との対立は戦争を導き,日本の確実な敗戦を 招くと考えられたから。

> 江戸時代,鎖国体制の影響から国内では日本型中華思想が浸透して
> おり,諸外国を夷狄みなす風潮があった。しかし,19世紀になると
> 外国船の往来が頻繁になり,そのような中で,日本人と外国人が接
> 触することは敵対関係を生み出し,特に近代国家との対立は戦争を
> 導き,日本の確実な敗戦を 招くと考えられたから。

設問の要求にこたえていない。特に「国内情勢」についての説明が欠落しているのだが,なぜこういう解答になったのか,ちょっと判断がつかない。松平定信や杉田玄白の発言がどのような事態を念頭においているのか,をきちんと確認してほしい。松平定信の「政務の取り計らい違いといいながら,上を見透かしぬいたること前代未聞なり」という発言など,どう考えても“日本型中華思想”や“外国船の往来”とは関係ない。また,「19世紀になると」と書いているのだが,設問での対象時期は1768年〜1807年。ちゃんと対象時期を確認してますか?

ところで,「近代国家との対立は戦争を導き,日本の確実な敗戦を招くと考えた」という発想が出てくるのはアヘン戦争後のこと。アヘン戦争以前においては,「確実な敗戦を招く」という認識はなく,もしそうした認識があるのなら異国船打払令を発令するようなことはないし,常陸大津浜で上陸したイギリス人と対峙した会沢安が『新論』で攘夷を主張することもなかったはず。ところが,アヘン戦争の結果を知ることで初めてイギリスの圧倒的な軍事力の優位性を認識し,それだからこそ,1825年に発令した異国船打払令を1842年に撤回していた。

≪書き直し≫

18世紀に浸透した商業経済は,農民の階層分化を促進し,小作農や出稼ぎの増加を招いた。加えて,天明の飢饉は農村の荒廃を一層進め,農村では百姓一揆が,都市でも打ちこわしが多発した。一方,この時期,ロシアの通商要求によって鎖国制は動揺を見せており,幕藩体制は内外からの深刻な危機にさらされていた。

前の自分の答えはひどかったです。
内憂外患と聞いたら,尊王攘夷ぐらいしか思いつかなかったもんで・・・。
リード文と設問の要求を大事にしようと思います。

> 18世紀に浸透した商業経済は,農民の階層分化を促進し,小作農や
> 出稼ぎの増加を招いた。加えて,天明の飢饉は農村の荒廃を一層進
> め,農村では百姓一揆が,都市でも打ちこわしが多発した。一方,
> この時期,ロシアの通商要求によって鎖国制は動揺を見せており,
> 幕藩体制は内外からの深刻な危機にさらされていた。

都市での打ちこわしについても触れているわけだから,農民の動向だけでなく,都市民の構成における変化についても具体的に説明しておきたい。

あとは OK です。

> 内憂外患と聞いたら,尊王攘夷ぐらいしか思いつかなかったもんで・・・。

リード文を読んで「内憂外患」という言葉を思い出すのは別にいいんですが,その「内憂外患」という言葉に引きずられるんじゃなくて,まず対象時期について自分の知っていること・思いつくことをランダムに書き出すことが必要です。リード文から離れ,関連するかどうかに関わらず,まず事項を書き出すのです。そして次に,書き出した事項のチェック,絞り込みに入ります。その際,リード文で扱われている内容を再確認することを忘れないように。リード文の内容に即しながら書き出した事項のなかで関連しそうにないものをカットしていきます。そうして残った事項を素材として,設問の要求に従いながら答案を作成しましょう。

この手順のなかで大切なのは,いったん問題から離れて“対象時期について自分の知っていること・思いつくことをランダムに書き出すこと”です。そうすると,問題を解く糸口が見えてきます。

≪書き直し2回め≫

年貢増徴と商業経済は,農民の階層分化を促進し,小作農や出稼ぎによる都市下層民の増加を招いた。加えて,天明の飢饉は農村・都市の荒廃を一層進め,農村では百姓一揆が,都市でも打ちこわしが多発した。一方,この時期,ロシアの通商要求によって鎖国制は動揺を見せており,幕藩体制は内外からの深刻な危機にさらされていた。

OKです。