筑波大学 個別学力検査等試験問題【前期日程】(日本史B)
年度 1992年度(平成4年度) 設問番号 第4問
テーマ 日清戦争前後の社会・生活の変化とその背景/近代
次の文は和辻哲郎『自叙伝の試み』の一節である。「紺屋の没落」をはじめ,母親が機織りをやめたのは,社会と生活のどのような変化によってもたらされたのか,論述しなさい。(400字以内)
わたくしは明治28年の春に小学校へ上がったのであるから,この引っ越し,つまりわたくしの村での紺屋の没落は,明治27年,あるいはそれよりも少し前のことであったかも知れぬ。紺屋がなくなったからと言って,すぐに紺屋を必要としたようないろいろな活動が村から消えて行ったというわけではない。紺屋は他の村にもあったであろうし,特に一里向こうの姫路の町には遅くまでも存在し続けていた。しかしこの紺屋の没落がやがて来るべき手織り木綿の没落,紡績工場の繁栄を予示していたことは疑いがない。
わたくしの記憶のうちには,わたくしの母親たちが糸を紡ぎ,その糸を染めさせ,あるいは自ら染め,染めた糸をいろいろに組み合わせて巻き,それを機にかけて,紺がすりとかいろいろの縞物とかを織り上げていたことが,はっきりと残っている。そういう活動は明治27年以後にも続いていたであろう。わたくしの従兄の語るところでは,明治33年の3月に彼が中学へ入学した時,彼の母親は久しぶりに機に坐って袴地を織ってくれたが,それが総じてこの叔母の手織り仕事の最後であったという。だからわたくしの母親も明治27年よりも後まで機に坐っていたかも知れない。しかしわたくしの記憶に残っているのは,遅くとも27年ごろ,たぶんそれよりも前の姿らしい。明治27年にはわたくしの母親は数え年28歳であったから,そういう活動は若い母親の姿と結びついているはずであるが,そういう若さに興味を持つのは今思い出す立場でのことで,子供心にとってはそんなことは問題でなかった。だからわたくしの記憶に残っているのは,若い母親自身の姿ではなくして,若い母親が動かしていたいろいろな物象の形である。
(原文の傍点を省略)