私はその理由を“タイミング”だと考えています。
19世紀半ば以降のアジアは西欧諸国の植民地争奪戦が繰り広げられていたと言われることが多いですが、東アジアに限定した場合、必ずしもそうは言い切れません。言い方をかえると、江戸幕末期から明治維新期の日本には西欧諸国の植民地となりかねないような危機(植民地化の危機)は存在しなかった、と私は考えているわけです。
発言によって 解釈のズレとぶれ があると思いますが(^^;、ご容赦を。
------> #3479 JAMさん
こんにちわ。
>>「日本はなぜ植民地支配から免れたんで
>>しょうか」
結局のところは タイミングかなと思います。
欧米諸国が東アジアにまで艦隊を派遣し それによる軍事的な圧迫(具体的に武力を行使するかどうかはともかく)で 東アジア諸国との交渉を行なうようになるの
は、
19世紀半ば以降の話です(欧米諸国といっても 基本的にはイギリスですが)。
その最初の大規模な出来事が イギリスと清とのアヘン戦争だと思うのですが、
そのアヘン戦争にしても 確かに清が敗北し それによって中国での自由貿易体制が形成されるようになりますけれども、
イギリスの思惑どおりに進んだわけではありません(このあたりについては 茂木敏夫『世界史リブレット41 変容する近代東アジアの国際秩序』山川出版社 が 参考になります)。
結局のところ、
イギリスにしても、アロー戦争を引き起こさなければ 自らの思惑を貫徹させることができていません。
それに太平天国の乱も起っています。
相当に「てこずって」います。
そして、中国にしても その2度にわたる戦争によって植民地(あるいは半植民地)になったわけではなく、
欧米の軍事的優位のもとで 自由貿易体制が樹立・機能していったのが 1850年代から1880年代ころだったように思います。
そういう時期に 日本では 江戸幕府にかわって明治政府が樹立されて、
中央集権体制の確立がすすんでいますし(1870年代後半には中央集権体制が整っている)、
他方、清でも 台湾やウィグルなどに対する支配が強化・確立されています。
つまり 日本は 欧米の軍事的圧迫が比較的緩やかになった時期に中央集権化・近代化に着手しています。
そのタイミングが まず一番大きいんじゃないでしょうか。
そして 西欧的な国際秩序に「不平等条約」締結という形で組み込まれたといっても、
清の場合は 「不平等条約」は 敗戦の結果結ばれたものですが、
日本の「不平等条約」は 交渉によるものです。
この相違も無視できないでしょう(このあたりについては 加藤祐三『黒船前後の世界』ちくま文芸文庫 が 参考になります)。
さらに 日清戦争に勝ったこと−−これも 植民地支配を免れた要因としては 大きいんじゃないでしょうか。
JAMさんの頭がスッキリしたかどうかはわかりませんが(^^;、
とりあえず 私が言えるのはこの程度のところです。
つかはら
------> #3500 宇波さん
>>これらの侵略意図を跳ね返したのは何か?
>>
>>答え
>>ズバリ =「武力」= です。
>>アジアにおいて 植民地争奪戦が 繰り広げられた時代、
>>江戸時代 日本には 戦艦はありませんでしたが
>>鉄砲という火力兵器で武装した 武士という 士気も高い
>>戦闘員が 数十万人いました。
西洋諸国(オランダ以外の)が日本に再接近するようになるのは 18世紀末からのことですが、
その時期の武士について「鉄砲という火力兵器で武装した」と評価できるのでしょうか?
私は、鎖国のもとで 武士たちは鉄砲を捨てて 刀の美学に生きた、と 考えていましたが(もちろん 鉄砲そのものが存在しなくなったというのではなく)、
違うんですかね?
ノエル・ペリン『鉄砲を捨てた日本人』というような本もあるんだし(書名は知っているが、読んでいない(^^;)。
それから「武士という 士気も高い戦闘員」と書かれていますが、
江戸後期の武士は どの程度 士気が高かったんでしょうね?
17世紀前半の島原の乱以降 戦さはなくなってしまっていたし、
17世紀後半に文治主義に幕政が転換して以降 武士は“民政担当の官僚”へと変質していっています。
もっとも 欧米諸国での日本のイメージがどうだったか という点を 私は度外視しています。
対外交渉を考えるうえでは 当事者が相手側に対してどのようなイメージ(先入観)を抱いているのかをも 考慮する必要があるでしょう。
しかし、私にはその知識がありません(^^;。
また、宇波さんは 江戸時代を「アジアにおいて 植民地争奪戦が 繰り広げられた時代」としていますが、
東アジア周辺という局面で考えたとき そういう判断が私には成り立たないんですが......
いつ、どこが、どこの国の植民地になったんでしょうか?
>>とくにロシアにとっては 日本は 太平洋に進出するルートを 弧の字型に
>>はばむ国、釧路という魅力的な不凍港をもつ国 に見えたことでしょう。
ロシアがそのような認識をもったのは いつ頃のことですか?
>>せめて シナ・コリアが独立国家として威信を発揮してくれれば、
>>緩衝地帯となるのですが、当時のコリアは年をとった 官僚国家で
>>「武力」を重んせず しかもいわれのない 日本に対する 優越・侮蔑意識が
>>つよかったのです。
明治維新ころの清や朝鮮が 独立国家としての威信を発揮していなかったこと、
朝鮮が「いわれのない」優越・侮蔑意識を日本に対して抱いていたことに ついて 具体的に説明していただけませんか?
茂木敏夫『世界史リブレット41 変容する近代東アジアの国際秩序』(山川出版社)とか糟屋憲一『世界史リブレット43 朝鮮の近代』(山川出版社)を読む限り、
明治維新ころの清や朝鮮が 独立国家としての威信を発揮していなかった とは 私には判断できないのです。
また、
日本が朝鮮に対して優越意識を抱いていたということは 全くないわけですか?
>>そう考えた 武士の手によって 「武力」によって
>>明治維新は 成し遂げられたわけです。
>>しかも これは 武士階級の消滅という 逆説的な犠牲を払った
江戸時代の武士とは 将軍家なり大名家なりの家中に(言い換えれば武士団に)所属することによって 武士としての社会的地位をもっていたわけですが、
江戸末期にはそれが動揺しており、
幕末の尊王攘夷運動は そのような武士の存在形態に対する異議申し立てでもあります−−脱藩という活動形態を想起して下さい−−。
また、
幕末の政治動向をみるうえで 庶民の世直しへの希求を無視することはできないでしょう。
つまり、“武士の手によって明治維新が成し遂げられた”とは 軽く言い流せません。
さらに、
ペリー来航によって 公議に基づく政治の実現をめざす試行錯誤がクローズアップされるようになったこと、
それが明治維新につながっているわけですが、
そのなかで 統治者たる武士層に 官僚への脱皮がより切実に求められたからこそ(もちろん財政的な要因が大きいが(^^;)、
秩禄の支給という武士=士族に対する特別扱いの停止が 明治政府によって実施されたんだと 私は判断しています(要するにリストラ)。
そうして“武士階級”は消滅していますが、
そのうちの一部は ちゃっかりと華族(“勲功”華族)という地位を獲得していきます。
指導者は果たして自己犠牲を払ったのでしょうか?
もちろん“明治維新は武士の手によって成し遂げられたが、武士階級の消滅という逆説的な犠牲を払った”という議論が、
明治政府により利用され・裏切られた人びとの 怨念 を 掬いあげようとする立場から 出されているのであれば、
ここでの私の議論は的外れですが....
ps
なお、武士総数についてです。
新保博ほか『数量経済史入門 −日本の前工業化社会−』(日本評論社)によれば、
1600年ころの人口は 12273千人だとのことですから(速水融氏の推計)、
山川の高校教科書に掲載されている身分別人口構成(1621年・小倉藩)での武士の比率5.3%(武家奉公人が含まれているのかどうかは不明)を そのまま全国にあてはめたとして、
武士総数は 65万人ほどになります。
もちろん それは江戸初期の話で、
同書によれば 明治初年の全国人口は 3500万人前後だとのことですから、
幕末期には武士総数もふくれあがっていたことでしょう(実数は知らないが(^^;)。
つかはら
------> #3534 宇波さん
台風による休講のおかげで レスを書けます(^^;。
>>1 武士の士気 は 高かったか 低かったか
これは 私の質問とは少しズレがあります。私の質問は
(1) 18世紀末〜19世紀前半の武士について 「鉄砲という火力兵器で武装した」との評価が成り立つのか?
(2) 江戸後期の武士は どの程度 士気が高かったのか?
の2点でした。
宇波さんが #3534で答えてくださったのは、(2)についてだけですので、
(1)については 私の理解のように“江戸後期の武士が 鉄砲という火力兵器で武装していた とは評価できない”という判断に 賛同していただけたものと 解しておきます。
(ちなみに、近世初期の日本が有数の軍事大国であったことについては 私もそう理解しています)
さて、武士の士気についてです。
宇波さんは“『葉隠』に代表される武士道から武士の士気が保たれていた”と判断されていますが、
『葉隠』でもって「士気の高さ」を象徴させるのは無理があるように思います。
『葉隠』では“「世間」において恥べき行為だとみなされる(身の破滅を招く!)ような行動を回避すること”が倫理的な規範として提示されているのであって、
それをもって「士気の高さ」を云々できる性質のものではありません。
つまり、
『葉隠』における「死」の意識は、
「世間」という心理的圧迫との関係のなかで意識されるものであって、
戦闘には関りがありません。
戦闘に関りがないとなると、
士気の高低についての判断材料とするには 妥当ではないように思います。
(とはいえ、私は『葉隠』そのものを読んだことはなく、山本博文氏の『殉死の構造』(弘文堂)を読んで このように考えているだけのことです)
また、幕末期について言えば、
武士一般の士気が高かったのではなく、
尊王攘夷派の志士たちの士気が高かったのではないでしょうか?(幕府のなかにも士気の高い武士がいたことでしょうが)
そして それは武士だけには限りません。
「民族的」という形容句が用いられることもありますが、
豪農商やそれ以外の民衆をも含めた、階層的区別を超えた動きだったわけです。
そもそも、
幕府・諸藩の枠組みのままで 武士たちだけの士気が高かったのであれば、
幕府が倒壊する理由がわからなくなります。
(宇波さんは、幕末期を 反幕府=反政府勢力の視点から見ておられるようですね)
ちなみに #3518にも書きましたが、
日本内部での主体的努力(宇波さんが「気概」と表現されているもの)は私も評価します。
ただし、それが「武士だけによって担われた」という評価を下す気はありません。
>>2 西欧諸国の東アジアにたいする 圧迫はいつごろか
西洋諸国の東アジアへの接近・軍事的圧迫が江戸時代に始まっていることを 私が否定しているかのように判断して下さったようですが、
いくら何でも そんな無茶な判断は持っていません。
しかし、
東アジア周辺で考えたとき、日清戦争以後とそれ以前の状況とでは事態が大きく異なります。
19世紀半ばのイギリスにおいては、
自由貿易主義のもとで商品の力で支配することに主眼がおかれ、
軍事力はその補助的な手段として位置づけられていた、
と私は判断しています。
そして、
イギリスは 日本に対しては内政干渉に強く出ることをせず、
国内勢力の自主性を保障しつつ 諸勢力間の調整に 主たる関心を注いでいます。
これなど、
中国での太平天国の乱の経験をふまえずには 判断できない事態でしょう(駐日公使パークスの前任地は中国)。
また、(宇波さんが強く意識しておられる)ロシアにしても、
クリミア戦争での敗北を考えれば、その脅威を過大に評価することはできません。
さらに、
清仏戦争でフランスが“勝てない戦争”を経験して以降は、
イギリスによる巨文島占拠事件を除いて、
東アジアでの西洋諸国の積極的な行動は少ないと言えます。
ですから、
「植民地争奪戦」とか「アジア分割」などの表現を使って、
中国分割競争が繰り広げられた日清戦争以後とそれ以前の状況との違いを意識させなくしてしまうことに、
私は抵抗感を感じるのです。
そして、
西洋諸国の圧迫が後退したのは 中国が関わるできごとが主たる要因であって、
日本のみの主体的努力ではない、と 考えざるをえないわけです。
なお、
西洋諸国の圧迫が比較的後退した時期に、
日本は明治維新から立憲体制の形成へと進み、
清は海軍力の強化をはかるとともに 周辺諸国との宗属関係を植民地的な支配関係へ転化させることを試みて その国家体制の再編成を図っています。
>>何か どうしても アジア侵略の悪玉に 日本を加えたい意図があるのでしょうか?
おっしゃっていることが うまく飲み込めていないのですが、
(a) 日本は東アジア分割に参加・加担したとはいえない
(b) 日本は東アジア分割に参加・加担したが、その事実は伏せておくべきだ
のいずれなのでしょうか?
もし前者なのでしたら、
もう少し事実を冷静に判断される方がよいと思います。
日露戦後(1905〜1910年ころ)に 日本が東アジアを分割する側(列強)に立っていたことは、
否定できない事実です。
日本は韓国を植民地として領有し、
南満洲に権益を保持していましたし(さらに東部内蒙古にまで権益を拡大)、
アメリカのフィリピン支配、イギリスのインド支配、ロシアの外蒙古における特殊権益などを認知・承認していました。
>>3 ロシアの南下意識 日本という国への認識
>>ロシアの誰かに 何年何月何日にできたとは 同定できません。
>>地図を ロシアが手にしたとき としましょうか。
ということは、宇波さんの勝手な臆測ですか。
江戸時代にロシア船が来航したところといえば、厚岸、根室、長崎がありますが、
釧路については看聞にして知らなかったので、
ロシアが釧路港に着目するようになったのはいつなのだろうか?と 疑問に思ったのです。
さらに、
ロシアが極東露領を維持していくうえで 日本がどれほどの意味をもつのか、
私自身 よくわかりません(満州を確保することの方が重要だと思う)。
朝鮮にしても、日清戦前には
「朝鮮の獲得は、我々に如何なる利益も約束せぬばかりか、必ずやきわめて不利なる結果をもたらすであろう」(1888年侍従武官長・沿アムール総督コルフと外務省アジア局長ジノヴィエフとの協議、高橋秀直『日清戦争への道』p.295より再引)
との判断が下されていますし、
軍事的にも
「満州の側面にある朝鮮は、その条件から、われわれによって重要な戦略的位置に変えられうるが、その位置の有利さは、その防衛にともなう不便さ、困難さによりその意義を失う」(広瀬建夫「ロシア側から見た日清・日露戦争」『歴史評論』1994.8、p.36 より再引)
という判断がロシア側にはあります。
宇波さんが指摘されている龍岩浦獲得にしても、
韓国支配に直結するもの=第一歩としてロシア側に位置づけられていたわけではありません(千葉功「日英同盟締結後における日露の外交方針」『日本歴史』1996.10 を参照)。
主眼は満洲支配にあり、
朝鮮・韓国については“他の列強による支配を排除して自国への好意的中立を確保する”というスタンスをとり続けています(日清戦前において ロシアが主に警戒していたのは イギリスと清です)。
ですから、
今この議論の対象になっている時期−江戸後期から日清戦前−において“ロシアが日本侵略の意図をもっていた”という判断は、
私には成立しません。
ロシアの日本侵略の意図をアプリオリに設定するのは、
アジア太平洋戦争末期〜冷戦時代の米ソ(露)対立という枠内でのみ考えているからではないのでしょうか。
>>4 清・コリア の独立国家としての威信
まず朝鮮についてですが.....
朝鮮国内において独立国としての威信を保とうとする試みがなかったわけではありませんよね?
そして、
その勢力である開化派が台頭するきっかけになったのは、
確かに日本との開国後に閔氏政権が開化政策へと転換していくなかでの話です。
しかし、
日本の指導・内政干渉により独立国としての体裁を保つ(本当にもしそうだったのなら、なぜ欧米諸国との間で結んだよりも過酷な不平等条項を朝鮮に押し付けるという手段にでたのだろう)というのは、
きわめて逆説的な事態じゃないですか(ちなみに、アメリカ、イギリスやドイツが朝鮮と条約を結んで国交関係を樹立したのは清の李鴻章の手引きでして、李鴻章は条約締結を斡旋することにより朝鮮に対する指導権を国際的に認知させようとしていたのです ←成功したとは言い切れませんが)。
日本の軍事的圧迫のもとでの仁川開港・新式軍制の創設などという事態のなかでは、
壬午軍乱という反日・反政府暴動が起こるのも当然でしょうし、
そういう事態が起こったこと自体、
朝鮮の独立国としての威信を示すもの という 評価も成り立ちます(ちなみに、大院君は親清派ではありません)。
もちろん、
閔氏政権のもとでの政治が腐敗していなかったなどと 言いません。
しかし、
甲午農民戦争、日清戦後の親日派・親露派政府に対抗する義兵運動、独立協会の運動などを考える限り、
独立国としての威信が低かったとも、
判断できません。
日清戦後に強まったロシアの影響力は大韓帝国成立期に韓国政府から後退してい
ます(ロシア人軍事教官・財政顧問は帰国したし、ロシアの後退は西・ローゼン
協定の内容に反映していた)が、それは独立協会の活動の結果です。ですから、
“韓国がロシアの保護領同然になった”ということはありません。
なお、
>>これらを とうして 日本がつくづく分かったのは、
>>どれだけ 朝鮮を支援しても 最後は シナが出ばって来る。
>> =朝鮮を独立させようと思えば 結局 清との対決は避けられない=
>>と言うことでした。
ところが 甲申事変後(というより巨文島事件後)から日清戦争前における日本の対朝鮮政策は、
日清提携論に基づくもので 朝鮮における清の影響力行使を黙認するという態度をとっています(高橋秀直『日清戦争への道』p.188〜196を参照)。
>>東学党の乱がおこり これを好機とみた清が
>>朝鮮に出兵した
清が出兵したのは、朝鮮政府からの要請にもとづくものでして、
自発的な判断で出兵したのは日本です。
さらに 農民軍が政府と和議を結んだにもかかわらず、日本は撤兵しませんでした。
>>そもそも 日本vs清は なぜ 戦わなければ ならなかったのか。
>>教科書には 詳しい説明なし だったように 私は記憶します。
>>だから 「なぜ朝鮮のことで 日本と清が戦争するのか?」とても 不思議で
>>なにか理由なき 喧嘩のようで 勝った日本にも特別な「義」があったとは
>>教えてもらえませんでした。予備校では この「義」は教えるのでしょうかね。
あまり研究が進んでおらず まだまだ未解明な部分が多く残されている分野でして、
何度か参照している 高橋秀直氏の『日清戦争への道』(東京創元社,1995年)が 本格的な研究の最初のようです。
ただ、
宣戦の詔書と 清への宣戦布告の前に朝鮮王宮を軍事占拠して親日派政権を樹立させたこととは 動かない事実です。
親日派政権が着手した近代化政策が朝鮮社会の近代化にとって不可欠であったとは思いますが、
だからといって、
日本の軍事占領下でなされなければならなかった必然性はありません。
「義」の押し売りは“大きなお世話”です。
ところで、
日清戦争前における清の独立国としての威信はどうなんでしょうか。
1880年代半ば以降の清は、
海軍を中心に軍事力の強化を実現させているし(結局のところ それも 張り子の虎でしかなかったが)、
東トルキスタンや台湾に対する支配を確立させて国家体制の再編成を図っています(日露戦後にはチベットの支配も)。
そして その結果、
1880年代後半〜1890年代前半の東アジアは 清優位のもとで 比較的に平穏な国際秩序が保たれており、
イギリスなど西洋諸国もそれを認知しています。
清王朝に腐敗がなかったなどとは言いませんが、
独立国の威信をしっかりと示しているとも評価できるのではありませんか?
>>事実 この三国干渉を契機に シナは西欧諸国に生体解剖されていく。
>>ヤクザにものを頼んだと同じく きっちり 落とし前をつけられて、
日清戦争と賠償金支払いで生じた膨大な西洋諸国からの借款が、
その担保として 西洋諸国による清国の国家財政の掌握や中国分割競争を招いています。
ところで、
>>朝鮮が 日本に故なき 優越意識を 抱いていたことは かの国の悲劇の歴史
>>を語るうえで 重大な史実です。
>>しかし この当時 日本が 20年程先に 独立国家として 離陸したという
>>優越意識を 朝鮮に対して、抱いていたことは 些末なことでしょう。
日本の朝鮮に対する優越意識は たったそれだけのものだったんですか。
たとえば、
神功皇后の三韓征伐神話 は 江戸時代には人口に膾炙していたのではありませんか?
それに、
朝鮮の日本に対する優越意識も、日本の朝鮮に対する優越意識も、
ともに日朝間の外交における規定要素です。
前者だけを強調して後者を無視するようでは、
当時の外交交渉の実態がみえてくることはないでしょう。
------> #3680 宇波さん
遠隔レスです(^^;。
加藤祐三『黒船前後の世界』にも触れながら、
もう一度 日本が植民地化しなかった理由 という最初のテーマに戻ってみます。
まず前提として、
19世紀前半に東アジアに存在していた清(あるいは中国)・朝鮮・日本・琉球という国家は、
いずれも欧米諸国の植民地とはならなかった
このことを確認しておきます。
もちろん、
朝鮮と琉球は日本の領土に編入されますが、
清(あるいは中国)は19世紀末には欧米・日本の利権争いの場と化してしまいますが、
“半植民地”であり、20世紀初頭にはそれら諸国により「領土保全・主権尊重」が約される地域となっています。
つまり、中国も植民地とはなっていません。
このことからすると、
日本と中国が植民地とならなかった理由は何か と問題をたてる方が 広がりがあるように思えるのですが、
私の力量を越えていますので、
これまで通り日本に限定します。
さて、
ウェスタン・インパクトの最初の出来事といえば、
やはりイギリスと清とのアヘン戦争ですが、
イギリスは茶・陶磁器を求めて対中国貿易にでてきており、
その貿易をめぐる軋轢のなかでおこったのがアヘン戦争です。
ところが19世紀半ばには、
西欧諸国には対日貿易の魅力は低かった、
つまり西欧諸国が日本から購入すべき商品がなかったということが指摘できます−西欧諸国が販売市場を求めて東アジアにやってきたという話は 正直言って よくわからないんですよね(^^;−。
これは“タイミング”ではなく、
日本の経済力の問題です。
しかし、
イギリスが中国における自由貿易を確保したのは、
アロー戦争ならびに太平天国の乱を経てのことですから、
それ以前において他地域に軍事力を本格的に割く余裕はありません(なお、軍事を背景とする内政干渉の突出が 相手国側の内乱を招いて貿易を阻害するに至ってしまうことの認識もでてきます)。
だからこそ、
新興国アメリカがその間隙をぬって日本に対して「砲艦外交」を展開することができたわけです。
さて、その日本ですが、
日本は、アメリカの「砲艦外交」により開国−条約にもとづく西欧流国際関係への参入−を余儀なくされますが、
アメリカの目的は在外自国民の外交的保護であり、
さらに手段からいっても 軍事力に訴えるという手段をとっていません(砲艦はブラフであり、あくまでも交渉路線を貫くという姿勢)−そのことは日本とアメリカの最初のコンタクトで日本側も認識していた−。
そのため、
清のように敗戦条約ではなく、
交渉条約によって不平等条約を締結することとなったわけです。
加藤祐三氏が『黒船前後の世界』で強調しているのは、
これらの点−とりわけ日本が結んだ不平等条約と清が結んだ不平等条約とは性格が異なるという点です。
これは西欧流の国際関係への組み込まれ方を最初に規定するものである以上、
あとからくる西欧諸国の行動に枠をはめてしまうものでもあります。
ですから、
欧米からの圧力といっても 日本と中国とでは相当な違いがあります。
このように交渉条約という形で不平等条約の締結が行われたのは、
やはり“タイミングだ”としか言えません。
茶・陶磁器というイギリスの求めるものを供給する国家として中国が存在していたこと、
イギリスと中国との間でアヘン戦争という軍事衝突がすでに発生していたこと−−これらは日本にとっては偶然でしかありません。
もちろん、
アヘン戦争という経験から幕府首脳が多くのことを学び、
その教訓のうえでアメリカとの条約交渉に臨んでいること(加藤祐三氏は『黒船前後の世界』でその事情も詳述していますね)を無視することはできません。
つまり、
タイミングを生かすことのできた幕府首脳の努力ですね(また、アメリカの日本認識を形成した要因も無視することはできませんが)。
それは、横浜の開港場(居留地)建設の迅速さについても指摘できます。
おかげで欧米諸国が“先占権”を主張することができなくなるわけですから(これも『黒船前後の世界』で強調されている点)。
ところで、
>>確かに コップの中の嵐の時期はありました。しかし 安政条約以後は
>>どうなのでしょうか? 交渉・通商からはじまって 通商のトラブルや
>>内戦に乗じての 出兵・開戦という ストーリーは 他地域において
>>無かったのでしょうか。
問題になるのは 政府の条約遵守に対する態度と相手国側の外交姿勢でしょう。
とりわけ、
政府(日本では幕府ですが)が条約内容を侵害するような態度をとれば軍事衝突あるいは軍事力を背景とする内政干渉を引き起こしかねません。
ところが 江戸幕府は条約を基本的には遵守する姿勢をとっていますし、
欧米諸国も幕府を条約擁護者とみなしています。
そしてイギリスの場合、
日本に対しては極力 軍事的圧力の行使を慎むという態度をとっています(石井孝『明治維新と外圧』『明治維新の舞台裏』など)。
もちろん、
イギリス主導のもとで 攘夷派に対する軍事的な示威行為として薩英戦争・下関戦争が敢行されていますが、
その主導者であるオールコックにしても“条約関係が破壊されない以上は、政府の形態、権力の分配、または国家の内政に干渉しない”という態度で臨んでいます。
さらに薩英戦争後のイギリスは、
自由貿易確保・拡大のために、幕府を含む雄藩連合政権への平和的移行を望む姿勢へと転換しています。
つまり、
薩摩など諸藩が幕府に対抗する姿勢をとっているのは幕府による貿易独占に対する反発からであり、
内紛・内乱を回避して市場の拡大を確保するには、幕府の貿易独占放棄を軸に、
幕府・諸藩が協議する政体を実現するのがよい という判断です−公議政体論的な路線だといえる−。
そして 下関戦争後にイギリス公使がオールコックからパークスに変わってからは、
軍事力の発動という形での露骨な内政干渉は行っていません。
あくまでも 日本国内の自発的な動きを助長するという形をとっています
−第二次長州征討(幕長戦争)や戊辰戦争における中立策は、倒幕勢力への直接的な支援(内政干渉になる)という形を回避したうえで、倒幕勢力に有利な環境を保障したもの−。
薩摩が兵庫開港問題などの外交を手段として−いいかえればイギリスの力を借りて−幕府に対抗しようとする姿勢をとっていることを考えれば、
もしイギリスがこうした内政干渉回避の路線をとっていなかったとしたら、
事態はどうなったことでしょう?
これだと、
外的要因が全てだと言っているように見えますが(^^;
イギリスがこのような路線をとっていたことは、
別の角度からみれば、
攘夷派(の指導者)がいかに攘夷を手段として考えていたかの反証だとも言えます(『新論』の著者会沢正志斎にしても1862年には攘夷から開国に転換している)。
このことを攘夷派の「底の浅さ」と規定できるのかどうかについての判断は留保しますが、
彼らが西欧流国際秩序を受け入れる姿勢を取ったことも、
日本が植民地化をまぬがれるに至る要因の一つだと言えます。
こう考えると、
ウェスタン・インパクトは日本の政治動向にとって副次的なものであった という極端な解釈も成立しそうです。
そういう解釈を下すのには 私は 及び腰ですが(^^;、
浜下武志氏や川勝平太氏などの議論を援用すると行けそうですね(^^;。
なお、
安政の五か国条約で 自由貿易が居留地内にのみ限定されて欧米人の内地旅行・通商権が認められなかったこと(これは相手がアメリカであり、形態が交渉条約だったからこそ実現できたことがらでしょう)、
明治政府が 鉱山・工場などに資本を投下する自由を基本的には認めなかったこと−−この2点も指摘しておきたいですが。