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(平安時代の)武士について

*** 前置き ***
メールでの質問への返答です(少しだけ語句を修正しました)。

ただ,以下の返答メールは,山川『詳説日本史【改訂版】』の記述を説明しようとした分だけ,わかりにくくなっているように思います(苦笑)。
そこで最初に,次の2点だけ確認しておきます。

“武士”とは≪職業的な戦士身分≫,≪朝廷や国衙から職業的な戦士身分(国の軍事警察の職能を請負う家柄)と認知された人びと≫のことです。武装しているからといって“武士”ではありません。
“公的に”武装を認められて初めて“武士”です−ヤクザは警官ではない!−。

そして,“武士”と“貴族・官人”や“富豪層・開発領主”がそれぞれ次元の異なる用語であることを意識しておく必要があります。
“貴族・官人”は位階をもっているということを表す用語で(五位以上ならば貴族で六位以下は官人),武士のなかには国司や朝廷の武官に任じられるものもいるのですから,貴族の地位をもつものもいるわけです。“武士”と対になる用語は“貴族”ではなく“文士(朝廷や国衙の文官)”です。
また,“富豪層・開発領主”は(両者に質的な違いはあれ)いわば農場経営主であることを表しているだけで,開発領主のなかには武士もいれば朝廷や国衙の文官などもいます。“開発領主=武士”ではありません。
[2000.2.9]

*************************** ここから **************************************

>武士についてなのですが
>「詳説日本史」(山川)の79〜80ページにかけて
>武士の登場についての記述があります。
>わからなくなってしまったのは
>10世紀段階の武士と、11世紀段階の武士にどんな違いがあるのか?
>ということです。
>
>教科書では
>
>「10世紀....各地に成長した豪族や『有力農民』(0)は、
>『勢力を拡大するため』(1)に武装し、弓矢を持ち、
>馬にのって戦う武士となった...(中略)...
>旧来の豪族や、『任期終了後もそのまま任地に土着した国司の子孫』(2)などが多く、
>彼らを中心に大きな『武士団』(3)が成長し始めた<p79>」
>
>「11世紀になると、『開発領主』(4)は『私領の拡大と保護を求め』(5)、
>『土着した貴族』(6)に従属したり、在庁官人になることなどにより
>地方の『武士団』(7)として成長していった。<p80>」
>(よく分からなかった語句に『』・番号付けました)
>
>となっています。
>
>
>ここで、よく分からないのは
>
>(0)の有力農民というのはいったい何者なのか。(4)の開発領主とはどういう違いがあるのか
>
>(1)の『勢力拡大』は具体的に何を指すのか...
>そのとき(5)の私領の保護拡大とは何が違ってくるのか..
>
>(2)で土着した国司を中心に武士団ができた..はずなのに
>なぜ(7)のところも再び「武士団」という言葉が出てきます。
>『有力農民』+土着国司の武士団と、『開発領主』+土着国司の武士団で何が違うのか..
>
>よろしくお願いします。

まず最初に簡単に説明してしまっておきます。
10世紀のところに登場する「有力農民」は,
租税の代納や私出挙を通じて周辺の貧農を支配下におき,
墾田永年私財法以降,その労働力をつかって墾田開発につとめ私有地を広げ,
大規模な農業経営を行って富を蓄積するようになった農民たちです。
そして彼らが10世紀には田堵に編成されていきます。
それに対して,
11世紀のところに登場する「開発領主」は,
11世紀半ばに新たに成立した≪国−郡・郷・保≫という行政区画のもとで郡司・郷司・保司に任じられた人びとで,
有力な田堵や国衙の下級官人など,その出自はさまざまです。
彼らは任された行政区画を対象に耕地の開発など勧農行為を委託され徴税を請け負うとともに,
職権−“職”−をもとに地域の土地・住民に対する領主支配を実現させた人びとです。
ですから,
10世紀の「有力農民」+土着国司の武士団と,
11世紀の「開発領主」+土着国司の武士団とでは,
武士団(軍隊)を組織・養成するための基盤−兵隊の訓練や馬の飼育のためにはそれなりの土地と財力が不可欠−が違うわけです。
後者の方がその基盤はずいぶんと安定してきています。
山川『詳説日本史【改訂版】』は,
その辺の違いを“武士団が「成長し始めた」”と“武士団として「成長していった」”との表現で区別しようとしたのかもしれません。
もっとも,
10世紀段階の武士と11世紀後半以降の武士のあいだに質的な区別をつけることができるかどうかについては,
学者のなかでも議論の対立がありますし,
“受験”というレベルでは質的な区別をつける必要はありません。

さて,少し詳しく説明しておきます(ちょっと長いですが)。

まずは10世紀の地方豪族と有力農民の話から入ります。

「各地に成長した豪族」「地方の豪族」「旧来の豪族」。
山川の『詳説日本史』ではこのような表現がでてきますが,
これらは旧来の“郡司”に任じられた人びとを指す言葉です。
彼らは−山川『詳説日本史』の表現を借りれば−「農民に対する実質的な支配力」をもつ存在で,
つまり,
地域の農民を共同体秩序へと組織づけ,彼らの農業経営を維持・保証する支配力(共同体的支配力)をもつ人びとです。
そして,
そうした支配力を活用して,
墾田永年私財法以降,荒廃している耕地や未墾地を開発して私有地を広げていきます。
それに対して「有力農民」とは,
郡司クラスの豪族たちが主導する共同体の構成員だった農民ですが,
租税の代納や私出挙を通じて周辺の貧農を支配下におき,
墾田永年私財法以降,その労働力をつかって墾田開発につとめ私有地を広げ,
大規模な農業経営を行って富を蓄積するようになった農民たちです。
こうした地方豪族や有力農民のように,墾田開発をすすめて大規模な農業経営を行っていた人びとを,
まとめて“富豪百姓”“富豪層”などと称します。
山川『詳説日本史』の9世紀〜10世紀のところに登場する「有力農民」とは,
この“富豪層”を言いかえた表現なのです−その証拠に三省堂『詳解日本史』ならば同じ文脈で“富豪百姓”との表現を使っています−。
ところで,
富豪層のなかには交通業者として活動するものもいます。
富豪層がさかんに活動するようになる9世紀といえば,
戸籍・計帳に登録された成年男子を中心に課税する律令的支配が機能しなくなっている頃です。
地方から都へと送られる租税(調庸)はもともと,負担する公民の自己負担による運脚でしたが,
当然それも機能しなくなっています。
それを背景として,富豪層の交通業での活動が展開するわけです−東国(東山・東海道)では馬を使い,瀬戸内海地域では船を使う−

こうした富豪層のなかには,
中央の皇族・有力貴族や大寺社と結びつき,
土地をそれらの所有地とするというかたち−初期荘園のひとつの形態−で国司の徴税から免れようとする連中がいますが,
集団で武装するというのも国司の収奪に対抗する手段のひとつです−「勢力を拡大するために武装」−。
そして,
武装した交通業者集団が群盗・海賊で,
9世紀末には各地で彼らによる地域的な反乱事件が続発しています−なかには,東国に強制移住させられていた俘囚(服属した蝦夷)の反乱もあったりします−。

10世紀における地方支配方式の転換−−中央の皇族・有力貴族と富豪層との個別的な結びつきを切断する(延喜の荘園整理令)とともに国司に国内支配をゆだねてその権限を強化する−−は,
こうした富豪層の動きを背景としたものです。

さて,
山川『詳説日本史』では「各地に成長した豪族や有力農民」−これまで見てきた富豪層のことですね−「は,勢力を拡大するために武装し,弓矢を持ち,馬にのって戦う武士となった」と説明されていますが,
これでは“武装”=“武士”です。
昔はそういう風に説明されたので教科書にもその記述がそのまま継承されているのですが,
果たしてそうなのでしょうか?
“弓矢”−今で言うと“拳銃”でしょうか−を持っていれば“武装”しているといえるのなら,
ヤクザも武装してます。
しかし,
山川『詳説日本史』で明記されている通り,
「武士とはもともと朝廷に武芸をもって仕える武官のことをさしていた」のです。
“武士”という呼称がもともと朝廷の武官をさすものである以上,
軍事警察という国家機能をになう人びとをさすものと考えるのが妥当です。
“武装”したから“武士”となったという風に単純に考えるわけにはいかないというわけです(教科書の記述は不正確なんです)。
じゃぁ,
どう考えるのかと言いますと,
≪国衙ごとに組織され,国司のもとで国の軍事警察をになう“兵の家”と認定された人びと≫が“武士”なんです−こうした職業戦士身分としての武士は10世紀に登場します−。
もちろん,
こうした武士のなかには,朝廷の武官−本来の武士ですね−である天皇の親衛隊の近衛府・宮城の門を警護する衛門府・天皇の身辺を警護する兵衛府などの衛府の官人に任じられる人びともいます。
つまり,
貴族・官人の地位をもつものもいるのです。[補注1

さて,
貴族・官人−位階をもつもの−といえば,
「任期終了後もそのまま任地に土着した国司の子孫」・「土着した貴族」についてです。
彼らも,富豪層と称された地方豪族や有力農民と同じように,
地方で墾田開発をすすめて大規模な農業経営を行っています。
平安初期以来,
政府がさんざん禁止しているのですが,
国司に在任しているあいだに職権を乱用して土地を確保し,
国司退任のちも,
そこに土着して生活基盤をすえる連中が少なからず存在していました。
また,
9世紀末〜10世紀初めに出てくるのですが,
軍事的な要因から土着した(もしくは・させられた)中流貴族もいます。
9世紀末に各地で続発した反乱事件,
つまり東国の群盗や俘囚,西国の海賊などを追捕・平定するために各地に派遣され,功をあげた人びとが,
そうした群盗や海賊などを私的に(軍事力として)組織し,
地域に拠点をかまえるようになる(“地域のボス”ですね)というケースです−−「武士たちは,地方の豪族を中心に連合体をつくった。とくに辺境の地方では,旧来の大豪族や,任期終了後もそのまま任地に土着した国司の子孫などが多く,彼らを中心に大きな武士団が成長しはじめた」−−。
平高望とその子孫(桓武平氏)や藤原秀郷,藤原純友などがその具体例です。
ただし,
「土着」といっても地域に籠ってしまうわけではありません。
地域に経営拠点を構えながら,
都へも出ていって中央の皇族・有力貴族とのコネクションをつくり,
国司や武官などの朝廷の官職への任官をねらって活動する連中もいるのです−完全に地域に居座ってしまう連中にいますが−。

さて,
群盗や海賊の追捕・平定に功をあげた中流貴族が地域に土着するという行為は,
国司にしてみれば,
一面では軍事警察の分野から国内支配を補完してくれるわけですから,
ありがたい行為だったと言えます。
しかし他方では,
軍事力をもつうえに,
中央の皇族・有力貴族と個別的にコネクションをもっていたりするのですから,
一筋縄では扱い切れない,なかなか難しい存在だったりもする。
どこかの段階でもめごとが起こる可能性があったわけです。
そのもっとも有名な事例が,
平将門と藤原純友による承平・天慶の乱です。
彼らは配下の・あるいは・自分たちを頼ってくる富豪層(→10世紀には負名体制のもと田堵に編成されている)と国司との対立につき動かされるかたちで挙兵しています。

こうしたなかで,
先にみた≪武士のあり方≫が整っていきます。
武芸に優れた地方豪族や土着した中流貴族たちが国衙のもとに組織され,
国司のもとで国の軍事警察をになう“兵の家”と認定されていくのです。
彼らは(先に見たように)周辺の富豪層を軍事力として組織し,武士団(軍隊)を組織してます。
そうした武士のなかには,
中央の皇族・有力貴族とのコネクションをもち,
さらに反乱鎮圧などに功をあげることで国司や朝廷の武官などの官職に任じられる連中もいます。
承平・天慶の乱で功をあげた平貞盛や藤原秀郷,源経基らがその代表格です。
彼らは地域の経営拠点を武士団を維持・養成していくためのものとして確保しつつ−これも「土着」と表現されることは先に確認しましたね−,
地域の武士を配下におさめ,
国司(受領)を歴任して財力を貯えていきます。
それが“武家の棟梁”の家柄です。
次第に,武士のなかには,
中流貴族の地位を確保する“武家の棟梁”と地域に完全に土着してしまう“地方武士”という階層差がでてくるわけです。

次は,
10世紀と11世紀の違いについてです。
最初に書いたように,10世紀と11世紀とで武士のあり方に違いはないと考えている学者もいれば,
大きく異なっていると考えている学者もあります。
武士を“軍事警察という国家機能をになう職業身分”と考えれば両者に区別をつける必要はないのですが,
10世紀の武士と11世紀後半以降の武士とに区別をつけようとする学者は,
11世紀後半以降,領主支配を実現するようになった段階になって−つまり開発領主となるにいたって−初めて“武士”との呼称を使うべきだというのです。[補注2

11世紀後半といえば,
公領の行政区画が≪国−郡−郷≫から新たに≪国−郡・郷・保≫という風にタテ割りに編成された時期です−−それを基礎として,延久などの荘園整理令が出され,郡・郷・保(国衙領)と荘(荘園)との領域的な区別がつけられるようになり,郡・郷・保・荘がそれぞれ並立する行政区画となって荘園公領制ができあがります−−。
その新たな≪国−郡・郷・保≫という行政区画のもとで,
国司から郡司・郷司・保司に任じられた人びとが「開発領主」。
彼らは郡・郷・保という行政区画を対象として,
荒廃した耕地や未墾地の開発など勧農行為を委託され,
それらの土地からの徴税を請け負うとともに,
租税面での優遇措置(一定面積の耕地に対する免税特権など)を認められました。
そして,
開発領主は郡司・郷司・保司(さらには荘官)の職権−“職”−をもとに,
地域の土地・住民に対する領主支配を実現させていきます。
つまり,
“職”を背景とした領主支配を実現させているかどうかが「開発領主」と9世紀の「有力農民」=富豪層との違いになります。
もっとも,
開発領主のすべてが武士(国衙によって兵の家と認定された人びと)とは限りません。
武士が開発領主になっているケースもあれば,国衙の下級官人や有力な田堵(大名田堵)というケースもあります。
また,
武士ではない開発領主が自らの領主支配を確保するために武士と婚姻関係や主従関係を結ぶことで武士化していくこともあります。

ところで開発領主が「私領の拡大と保護を求め」るという行為についてですが,
開発領主の「私領」=所領とは,郡司・郷司・保司職の対象となっている行政区画です。
つまり“職”にもとづいて領主支配を実現している地域が開発領主の「私領」なわけです。
すべては“職”の確保によるわけですから,
その郡司・郷司・保司“職”をめぐる競合,他の開発領主との境界をめぐる争い,国衙との対立などにより,
けっこう不安定です。
そこで開発領主は,“職”の確保のための“保険”として,
所領を中央の皇族・有力貴族や大寺社に寄進したり,
武家の棟梁や有力な地方武士と主従関係を結んだりしていたわけです。

とりあえずこんなところですが,いかがでしょうか?
[2000.1.30]

**************************** 補注 ******************************************
[補注1]
ここでは,武士を≪国衙ごとに組織され,国司のもとで国の軍事警察をになう“兵の家”と認定された人びと≫と規定していますが,都で朝廷の武官に任じられるものもいるのですから,最初に書いたように,≪朝廷や国衙から国の軍事警察をになう家柄と認定された人びと≫と規定しておく方が適切かと思います。本文に戻る
[補注2]
武士を≪職業的な戦士身分≫と規定するならば,開発領主(在地領主)となっていようがいまいが関係ありません。武士団を養成するための経済基盤が何であるかは関係のない話です。
ちなみに平安時代だけでなく鎌倉時代以降においても,戦功に対する恩賞は土地であるとは限らず,軍馬・武具・装束などの場合がありました。本文に戻る
[2000.2.9]