[テーマ/目次] 

第1次護憲運動について

メールでの質問への応答です(2006.11.15)。

> 第一次護憲運動です。桂太郎が内大臣兼侍従長の立場から、天皇の詔勅を利用
> して組閣。これに対し、犬養や尾崎らが「宮中・府中の別を乱す」として第一
> 次護憲運動が展開された。というように書かれているんですが、具体的に桂太
> 郎のどの行為が「宮中・府中の別を乱」しているのかよくわかりません。内大
> 臣兼侍従長から組閣しても、総理大臣になれば、内大臣は兼任できないですよ
> ね。それとも宮中・府中のポストを一人で二役やってたから、「宮中・府中の
> 別を乱」すことになったのでしょうか?よく理解できないので、教えてほしい
> です。
>
> 1 桂が組閣したのは、従来の内閣と同じように、天皇の任命によって組閣し
> ているんだし、問題がないように思えるんです。宮中から組閣することが問題
> なのでしょうか?
>
> 2 「宮中・府中の別」っていうのは明治憲法に記載されてません。それなの
> に、なぜ「宮中・府中の別」を乱している桂内閣を倒閣することが、憲法を護
> ること(護憲運動=憲政擁護)につながるのでしょうか?

内大臣や侍従長といった宮中官僚は宮中で天皇を補佐する立場にあり,
国務や統帥には介入しないのが原則とされていました。
したがって宮中に入った人物は内閣などの公的な役職にはつかないのが原則でした。

もちろん,
このことがらは憲法には規定されておらず,
慣習として存在していたにすぎません。 とはいえ,
法は運用されてはじめて法として機能しますので,
運用上の慣習というのは政治を大きく規定していきます。

ですから,
内大臣兼侍従長として宮中にあり,
いわば国政運営の第一線からは引いた形になってる桂太郎が首相となるのは,
「宮中と府中の別」を乱す 当時の政治的慣習上では不適切な行為と判断されます。

そのうえ,
桂太郎は天皇の詔勅を活用して海軍の抵抗を押さえつつ組閣します。
そうした天皇の政治利用も桂が批判をあびた原因のひとつです。

なお,
「憲政」という用語の定義は一義的に確定されるわけではありません。
天皇主権説のような憲法解釈がある以上,
天皇の大権をバックに恣意的な政治運営を行うことも「憲政」といえます。
ですから,
第一次護憲運動のなかで掲げられた「憲政」とは,
護憲運動陣営からの新たな位置づけを与えられた「憲政」なわけです。

ちょうど同じ年,美濃部達吉が『憲法講話』を公刊し,
天皇機関説とともに政党内閣の合憲性を解釈として提示していました。

これを前提としつつ,
新たな「憲政」が模索されはじめた第一歩が第一次護憲運動であった
と言えるのです。

[2006.11.15]