> 倭の国書「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云
> 云」ですが、これが倭が対等外交をめざしていたことの根拠のようにいわれて
> います。
>
> しかし、山川の小説日本史研究P50、日本の歴史「大王から天皇へ」P229、
> 新体系日本史 国家史P35 日本の時代史「倭国から日本へ」P32を見ても、
> むしろ倭の国書を対等外交とするのは誤りだというように書いています。
まず『詳説日本史研究』と『新体系日本史 国家史』の記述はほぼ同じで,
「対等の外交をめざしたとまで考えるのは問題があり」(詳説日本史研究)
と説明していますが,論拠は示されていません。
論拠がない以上,判断材料とはできません。
次に『日本の時代史 倭国から日本へ』のなかの森公章氏の論文では,
「「致書」(書を致す)は君臣関係がない場合にも用いる書式とされ,
「天子」もアメタリシヒコの漢訳の可能性があるので,
必ずしも上下関係や対等姿勢を強調するものではなかったという解釈もできよう」
とあり,
対等外交の姿勢を示したものとの考え方を決定的に否定したものではなく,
一つの解釈を婉曲に示したものでしかありません。
典拠になっている森氏の『日本古代の対外認識と通交』は未見ですが,
森氏の『「白村江」以後』(講談社)では次のように書かれています。
「「致書」(書を致す)については,対等関係とともに,
上下関係などが不明な場合にも用いられる書式であると理解できる」(p.32)。
「したがって煬帝が「…(中略)…」と不快を評したのは,
「天子」号の使用にその原因があったと考えられる。…(中略)…
天孫降臨の思想にもとづく当時の君主号オホキミアメタリシヒコを漢訳すると,
「天児」となるようであるから,
「天子」の用字はここに由来していると推定される。
とすると,倭国では対等外交をおこなおうとする意図はなかったが,
自国の論理で国書を作成したため,
国際的慣行にかなっていない国書を送ったと理解できるのではないだろうか」(p.33)
倭が国際情勢,国際的慣行にうとかっただけだと論じています。
なるほどと思わせる議論なのですが,
隋の皇帝も倭の大王も同様に「天子」と記したことの説明がなく,
その意味では十分に説得的ではありません。
(もう1点問題があるのですが,それは後で書きます)
熊谷公男『日本の歴史 大王から天皇へ』では,
「国書で,倭王にも隋の皇帝(煬帝)にも同じ「天子」ということばを
使っていることから,
遣隋使の派遣は“対等外交”とよくいわれる」
と書かれたうえで,「しかし」と続いているのですが,
続く議論のなかでは倭側が「対等外交を志向したこと」は否定されていません。
「隋が倭国を対等に扱っていないのであるから,
“対等外交”が実現したといえないことはあきらかであろう」
と書かれているにすぎず,
倭の国書が対等外交を志向したものである点は否定されておらず,
先の森氏の議論とは評価の内容が異なっています。
一方,倭の国書に対等外交の姿勢をみるものとしては,
吉村武彦『集英社版日本の歴史3 古代王権の展開』p.108
『日本史史料1 古代』(岩波)p.71:執筆は仁藤敦史氏
などがありますが,
僕が持っているもののなかで最も詳しく説明してあるのは
堀敏一『中国と古代東アジア世界』(岩波書店)です。
堀氏は,
「天子」の称号や「書を致す」という形式,「恙無きや」という語が
突厥や匈奴が用いた国書の形式と同じであることを指摘し,
突厥・匈奴いずれも対等な隣敵関係の場合に用いられていることを指摘しています。
さらに,別の論者の議論をひきながら
突厥の国書が「天子,書を皇帝に致す」となっているのにたいし,
倭の国書は「天子,書を天子に致す」となっている点において一層対等な形式だ,
と論じています(p.204-205)。
なお,先の森氏の議論で欠落しているのが,
こうした突厥や匈奴の国書形式との共通性についての考察です。
僕が倭の国書をもとに「対等な立場を主張」と表現する時,
この堀氏の議論をベースにしています。
ただし,ここで注意すべきことがあります。
熊谷『日本の歴史 大王から天皇へ』も堀『中国と古代東アジア世界』も共通して,
遣隋使派遣の結果,冊封を伴わない朝貢関係ができ上がったことを指摘しています。
(僕の『東大の日本史25カ年』でも「1994年度第1問」の解説のなかで明記しておきました)
まず,結果から見た場合,あくまでも朝貢外交の枠内のものなのです。
そして,
隋側の扱いはあくまでも朝貢でしかないのですが(『隋書』はそう明記しています),
とはいえ,冊封が行われたわけではありません。
この点において,日唐関係に類似しています。
ところで,「天子」と「天子」と併記した国書で煬帝の不快を招いたあとの国書は,
『日本書紀』によれば「皇帝」と「天皇」と書き分けています。
当時,「天皇」号がすでに成立していたかどうかはともかく,
君主号を書き分けている点で先の国書からは後退しています。
ここに「対等外交」が失敗した結果を見ることができるとは思います。
つまり,後者の国書を書いた時点では対等の立場を志向していない,と言ってよいでしょう。
ただし冊封を求めていませんから,
中国皇帝とは独自の立場にあることを志向していない,との評価は成り立たないですが。
というわけで,僕は,
隋と倭の関係が対等であったことを認める論者はまずいないと思うものの,
最初の倭の国書で対等の立場を主張しようとしたことを否定する決定的な論拠もない,
と判断しています(先の堀氏の議論が否定されていれば別ですが)。
なお,八柏『日本史論述明快講義』では,
「単純な「対等外交」という理解では不十分と言っていいように思います」(p.28)
とあり,対等外交との評価は否定的です。
そして仏教などの摂取を強調していますので,
八柏氏は森氏の議論をベースにして説明を書かれているように思います。