まず「国人」ですが,
在地の領主たちを指すことばで,
日本史広辞典の説明にあるように,
系譜からいえば地頭や荘官などを出身とする人びとです。
彼らは鎌倉後期から南北朝期にかけての在地社会の激動のなかで−惣領制が解体するなかで各地で武士団内部に対立・抗争が生じていたし,悪党も横行していた−,
近隣どうしで一揆を結ぶなどして土地・人民に対する支配を確保していった領主でして,
“支配身分”に属する人びとです。
それに対して,“被支配身分”の百姓に属する人びとによって形成された自治村落が惣(惣村)です。
その構成員には名主,小百姓(小農民)だけでなく,
「地侍」と称された人びとも含まれますが,
彼らは領主=“支配身分”の耕地を割り当てられているという限りにおいては−名田を割当てられているか(名主や地侍),領主の直営地を請作しているか(小百姓=作人)という違いはあるにせよ−,
領主側から“百姓”として把握されています。
というわけですから,
“支配身分”の「国人」領主は,“被支配身分”である百姓たちによって形成された惣(惣村)の構成員とはなりません。
なお,
「地侍」とは15世紀半ばくらいに登場した名称と言われていて,
系譜からいえば有力名主です。
彼らは小百姓の成長という状況のなか,
小百姓ら一般の百姓に対する優位性を確保して村落における支配的地位を確保するために,
地域社会における有力名主どうしで集団を形成し,
そのなかで相互に「地侍」(百姓=凡下身分ではなく侍身分に属する存在)であることを相互に認め合い,保証し合った人びとです。
そして,彼らは守護大名や国人などの武士と主従関係を結んでいきます。
いわば“被支配身分”から“支配身分”への成り上がりをめざした人びとと言えます。
とはいえ,
彼ら「地侍」の経済基盤は,自分が割当てられ保有している名田を小百姓に請作させることで取得している加地子
でしかなく,
結局のところ,
領主側からすればやはり“百姓”=“被支配身分”でしかないのですが。
[2001.08.01]