日本では,伊藤博文・井上馨らがロシアとの外交交渉により事態の打開に努めようとし(日露協商論),第1次桂太郎内閣はロシアの衝突を回避するためにもイギリスとの提携が必要と考えていた(日英同盟論)。両者のあいだに対立はほとんど見られず(『本番で勝つ!日本近現代史』p.102)これについて,“「日露協商論」と「日英同盟論」は対立する主張ではなかったのか”との質問を直接受けました。
「日本政府の内部にはロシアと交渉して「満韓交換」を行おうとするものもあったが(「日露協商論」),多くはイギリスと同盟してロシアから韓国での権益をもまることを主張し,1902(明治35)年に日英同盟協約が締結された(日英同盟)。」(p.270)そして,「満韓交換」に注釈として
「ロシアに満州経営の自由をあたえるかわりに,日本が韓国に対する優越権を獲得しようというもので,伊藤博文らがとなえた。」(同前)との説明がなされている。
では,“ロシアと交渉する”か“イギリスと同盟する”かという,この2つの立場は相対立するものなのだろうか。
日英同盟締結後もロシアとの交渉が続けられていることを考えれば,必ずしも相対立する主張ではないことがわかるはず。
問題は満州におけるロシア権益の扱いだけであるが,日露協商論にせよ,日英同盟論にせよ,ロシアの満州占領を認めない点は共通しており,さらに日英同盟論にしてもロシア権益の存在そのものまで否定しようというわけではない。実際,第1次桂内閣は,1903年8月から開始したロシアとの交渉において,日英同盟をうしろだてとしながら,ロシアの満州における優越的地位を認めるかわりに,日本の朝鮮に対する支配権を認めさせようとした。つまり,満韓交換を交渉したのである。
結局のところ,イギリスと同盟を結ぶことが現実的に可能かどうかの判断に違いがあっただけのことだと言える(伊藤らは懐疑的であったが,第1次桂内閣は可能との判断をもっていた−『史料日本史』(山川出版社)下巻のp.237も参照のこと−)。