> なぜ鎌倉幕府から、幕府の首長は征夷大将軍と呼ばれるようにな
> ったのですか?もとの意味は蝦夷を征伐する軍団のトップであることからそう
> 呼ばれただけであって、鎌倉時代にはもうその名前は関係ないと思うのですが。
もともと幕府とは,近衛府の別名として用いられ,近衛大将の居館を意味したのですから,鎌倉幕府以降,近衛大将ではなく征夷大将軍が幕府の首長と意識されるようになったのは,確かに不思議な話です。
明確な解答があるわけではないのですが,以降の武家政権の先例となる鎌倉幕府の創設者・源頼朝が右近衛大将より征夷大将軍への任官を望んだこと,自らが東国を基盤として作り上げた「政権」の首長を表す地位として右近衛大将よりも征夷大将軍がふさわしいと判断したことに由来すると,私は判断しています。
では,なぜ源頼朝は征夷大将軍を望んだのか。
(右)近衛大将は天皇を守護するにすぎず,独自の軍隊を派遣する権限をもたないのですが,それに対し,(征夷)大将軍は天皇から全権を委任された軍隊の総指揮官で,いったん軍事行動に入ると絶対的な権限をふるうことのできます。
ですから,源頼朝はそれに任じられることで,朝廷からの相対的な独立性とともに部下に対する絶対的な優位性を確保することができます。治承・寿永の乱のなかで朝廷から半ば独立した武家政権を東国につくりあげた頼朝が,朝廷との協調関係を保ちつつ政権の独立性を維持・確保するのに適した地位だと言えます。
とはいえ,なぜ「征夷」大将軍なのか,という問題が残ります。
平凡社の大百科事典での解説(上横手雅敬氏)によれば,
治承・寿永の乱のなかで1184年に源義仲が征夷大将軍に任じられたことでその意味が変化したのだとされます。東北を支配する奥州藤原氏を討つためではなく,東国の源頼朝を討つための追討権を付与されたものであり,平将門の乱に際して任じられた例のある征東大将軍に通じる性格をもっており,ここに征夷大将軍は東国支配の性格をもつ職となった,というのです。
また,かつて源頼義が任じられた鎮守府将軍の伝統を継承しつつ,事実上鎮守府将軍の地位にあった奥州藤原氏を超える東国軍事支配者としての地位を象徴するものとして征夷大将軍が選ばれたのだと説明する学者もいます(川合康氏)。
なぜそこで源頼義が意識されるのかというと,頼朝が本拠地とした相模国鎌倉が,平忠常の乱後,頼義が(乱の鎮圧に失敗した)平直方の婿となって鎌倉の屋敷を譲渡されたことに始まっていること,そして頼義が私的な主従関係を結んでいた東国武士たちを率いて前九年の役を戦ったことなどによりもので,頼朝は奥州合戦を通じて源頼義の故事をなぞり,それによっ
て頼朝が頼義の正統な後継者であり,東国武士はあたかも頼義の時代から継続して源氏に仕えていたかのようなフィクション(神話)を構成していったというのです。
結局のところ,頼朝がなぜ「征夷」大将軍を望んだのかについては定説がない,というのが現状です。