> 鎌倉時代の守護と地頭について。
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> 山川系の教科書では並列して書いてあります(つまりこの二つが同じに置かれたかの
> ように)が、三省堂の方は地頭が先に置かれ、それに取って代わって守護が設置され
> たとかいてあります。この違いはどう解釈したらよいのでしょうか?
その違いは、1185年に設置が認められた「守護・地頭」をどのように解釈するのかによるものです。
なにしろ、後世に編纂された『吾妻鏡』には守護と地頭が登場しますが、同時代の史料である『玉葉』には出てこないことから、1185年に源頼朝が獲得した権限とはどのようなものだったかについて、さまざまな議論があるのです。
その権限内容は、(1)源義経・行家の追討権、(2)頼朝の御家人に対する西国諸国の分賜、(3)段別5升の兵粮米徴収権、(4)田地の知行権、(5)諸国在庁・荘園下司・惣押領使の支配権、などなのですが、それらの具体的な内容をどのように考えるかをめぐり、どのような考えがあるかといえば、たとえば
ア 1185年の勅許で守護と荘郷単位の地頭が朝廷公認のもとで成立したとする
イ 1185年の勅許で設置が認められたのは国地頭(一国単位に置かれた地頭)であり、それがまもなく廃止されて一国単位の守護(惣追捕使)が置かれ、地頭の称は荘郷単位の地頭に限定されることになったとする
ウ 守護について。1185年の勅許で設置が公認されたのは惣追捕使であり(平氏追討の過程で頼朝が西国に置いた軍事検察官が義経・行家追討を目的に再設置されたと考える)、1190年(もしくはその翌年)に朝廷から諸国守護権を認められたときに大犯三カ条を権限とする守護に切り替えられたとする
エ 荘郷単位の地頭について。すでに頼朝が敵方所領(謀叛人跡)に対して私的に地頭を任じていたが、1185年の勅許で敵方所領没収(地頭の補任)の全面的な実行を承認(追認)されたとする−ただし地頭の権限が謀叛人である前任者のもっていた権限に限定されたのは1186年10月段階であるとする説もある−
などの学説があります。
三省堂『日本史』や実教『日本史』はイの立場から書かれていますが、山川『詳説日本史』『新日本史』はアの立場から書かれています(『詳説日本史』の脚注は当初の守護は「惣追捕使や国地頭などともよばれた」と折衷的な説明になっているが)。
どちらが正しいのか(史料から判断して妥当なのか)というと、専門外の私には判断つきかねるところですが、ウとエの立場、つまり1185年の勅許で惣追捕使が再設置されるとともに敵方所領への地頭補任が公認(追認)されたが、それ以降、1190年に頼朝が入洛するまでの間(要するに戦時から平時への移行期)、朝幕間のさまざまな交渉のなかで守護・地頭の制度として定着したと考えるのが妥当なのだろうと考えています。
[2004.07.16]