源頼朝といえば,1180年に挙兵し,清和源氏の嫡流として,父祖以来の家来である東国武士を率いて鎌倉幕府を開いた,というのが一般的なイメージでしょう。
確かに,のちに鎌倉幕府により編纂された歴史書『吾妻鏡』には,ともに挙兵した三浦義明の「源家代々の家来である私は,幸いにも,その貴種である頼朝公の旗揚げの時にめぐりあえた。なんと嬉しいことであろうか」という発言が載せられています。
しかし頼朝は,20年以上も前,平治の乱での父源義朝の敗北を因として,伊豆に流された流人にすぎませんでした。その間に,父義朝の配下に属していた武士の多くが平氏によって編成されていました。たとえば,相模国に大庭景親という武士がいます。彼もかつて父義朝の配下でしたが,今回は平氏方として石橋山の戦で頼朝を破ります。その際,「恩こそ主よ」と言い放ったとされます。
さらに,頼朝は清和源氏の嫡流としての地位を確保できていたわけでもありません。たとえば,上野国の新田義重は,源義家の嫡孫だと主張して頼朝の挙兵に応じようとしませんでした。また,甲斐国の武田信光は,源頼義の子義家・義綱・義光の各々の系統はみな一門であり,そのなかに勝劣はない,と語ったといいます。
こうした状況ですから,頼朝の貴種としての地位は,当たり前ではなかったのです。ですから,頼朝は自らの絶対的地位を認めない人びとを粛清しながら,その地位を築き上げていったのです。
それもあってでしょうか,頼朝の死因をめぐっては異説があります。『吾妻鏡』では落馬が原因となって死去したことになっていますが,南北朝期に成立したある歴史書によれば,源義経など頼朝が滅ぼした源氏一族や安徳天皇の亡霊が現れ,それが原因で病床に倒れて死去した,というのです。
はてさて,本当かどうかは分かりませんが。
[200811.09登録]