目次

7 自由民権運動の高まりと転換 −1877年〜1885年−


経済史 国家づくりが本格化する寸前で,1878年大久保利通が暗殺され,伊藤博文・山県有朋・黒田清隆・大隈重信らによる集団指導体制に移行する。そのなかで,財政政策を主導したのが大隈重信大蔵卿だ。

1 大隈財政と国家財政の破綻

 大隈は,西南戦争の戦費と殖産興業のための資金が多額にのぼったため,大量の不換紙幣を発行して財源不足を補った。そのため,紙幣の信用が低下し(1円紙幣<1円銀貨という状況),物価騰貴(インフレ)が進んで政府の歳入が実質的に減少した。財政破綻の危機に直面したのだ。また,明治初期いらい輸入超過が続き,政府の正貨(金銀貨幣)保有高も減少していた。
 そのため大隈は,1880年工場払下げ概則を制定し,赤字経営だった官営事業の払下げに着手するとともに,同年横浜正金銀行を設立して貿易金融を担当させ,貿易の円滑化をはかった。
 さらに寺島宗則外務卿により関税自主権の回復をめざした条約改正交渉が進められた。国内産業の保護と政府歳入の増加をもくろんだのだ。1878年アメリカとの間で条約改正にいちおう成功したが,イギリス・ドイツの反対で失敗に終わった。


政治史  大隈財政下のインフレは国家財政を破綻の危機においやったが,景気が刺激されて豪農・豪商の活動が活発になった。

2 自由民権運動の高まり−国民的な政治運動への成長−

 西南戦争のさなか,立志社の片岡健吉らが国会開設・条約改正の実現・地租軽減を要求する建白書を政府に提出し(立志社建白),78年には,板垣の参議復帰(1875年の大阪会議)で自然消滅していた愛国社が再興された。言論を中心とする民権運動の再建がはかられたのだ。
 他方,豪農・豪商のなかから地方自治への要求が高まり,1878年三新法が制定された。郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則だ。画一的な大区・小区制にかえて地域社会の実情にあった地方行政組織が編制され,公選制の府県会が設置された。豪農・豪商が政治に参加する場が,こうして獲得されていったのだ。
 その結果,自由民権運動は士族だけではなく豪農・豪商もまき込んで国民的基盤をもつ政治運動へ成長していく(豪農民権)。人びとが国家づくりに積極的に参加しはじめたのだ。1880年愛国社は国会期成同盟へと発展し,国会開設請願運動が進められた。さらに,各地で地域住民の学習と討論をもとに憲法草案が自主作成されていった(私擬憲法)。

私擬憲法
私擬憲法案     交詢社   君民共治・二院制・議院内閣制
日本憲法見込案   立志社   人民主権・一院制
東洋大日本国国憲按 植木枝盛  天皇のもとでの連邦制・人民主権
                抵抗権と革命権を明記
日本帝国憲法    千葉卓三郎 五日市(東京)の地域住民が作成

 また,天賦人権論にもとづいて国民の権利の重要性を主張する馬場辰猪『天賦人権論』・植木枝盛『民権自由論』・中江兆民『民約訳解』(ルソーの『社会契約論』を翻訳・解説)などが著され,矢野文雄(竜渓)『経国美談』・東海散士『佳人之奇遇』など,民権思想を普及させることを目的とする政治小説が書かれた。
 こうしたなか,政府は1880年集会条例を制定して結社・演説会(集会)を届け出制とし,民権運動への規制を強化する。しかし,警官の制止をふりきりながら声高に政府批判をくりひろげる演説=パフォーマンスと興奮のなかで,自由民権運動はすそ野を広げていった。

3 明治十四年の政変

 政府内部でも参議大隈重信が国会の早期開設を主張し,国会での多数党をもとに政府を構成する議院内閣制を実現することを構想していた。これに対して危機感をいだいたのが岩倉具視や井上毅だった。彼らは天皇主権の国家体制を構想しており,君民共治のもとでの議院内閣制により天皇の地位に大幅な制約が加えられることを警戒したのだ。
 このように政府内部で権力抗争が高まっているさなか,1881年開拓使官有物払下げ事件が暴露される。開拓使長官黒田清隆が,同じ薩摩出身の政商五代友厚らに安価に官有物を払い下げようとしていたのだ。藩閥と政商の癒着に対する世論の反発が高まり,国会開設を求める運動がさらに強まった。国民の声を政治に反映させることで,藩閥の恣意的な政治運営を抑えようというのだ。大隈重信もこの動きに同調していた。
 これに対し岩倉具視・伊藤博文らは,開拓使官有物の払い下げを中止する一方,大隈重信とその系統の官僚を罷免した(明治14年の政変)。そして国会開設の勅諭を発して民権派の政府批判をかわそうとした。

国会開設の勅諭
(1)明治23(1890)年に国会を開設することを公約
(2)欽定憲法の方針(国民の承認を得ず天皇単独の意思で制定)を示す

4 政党の結成

 民権運動の高まりのなか,政党があいついで結成される。1881年国会期成同盟に参加していた人びとにより自由党が組織され,1882年大隈派を中心として立憲改進党が結成された。こうした政府批判派の政党に対し, 政府側は立憲帝政党を結成させて対抗した。

政党の結成
自由党………1881年,板垣退助・中島信行(のち初代衆議院議長),フランス流の急進的自由主義
立憲改進党…1882年,大隈重信・小野梓・矢野文雄(竜渓),イギリス流の穏健的立憲主義
立憲帝政党…1882年,福地源一郎(東京日日新聞の社長)

5 自由民権運動の分解

 明治14年の政変によって薩長藩閥が国会開設・憲法制定の主導権を握った。,そのため,自由民権運動はそれまで掲げてきた目標が見失われてしまい,手づまりになっていく。さらに,松方財政のもとでの増税と米価・生糸価格などの下落は,農村経済に深刻な不況をもたらし,豪農・豪商のなかに階層分化をひきおこした。自由民権運動の基盤が分解していったのだ。
 こうしたなか,自由党員による政府高官の暗殺計画や困窮した農民たちによる実力行使があいついでおこった(激化事件)。また,朝鮮問題をめぐる政府の外交姿勢を弱腰だと批判し,清・朝鮮に対する強硬策を主張する動き(国権論)も強くなっていった。自由民権運動が過激化していったのだ。
 それに対して自由党や立憲改進党の政党幹部たちは,急進的な党員の動きを統制することができず,しだいに民権運動が分解していく。自由党は加波山事件をきっかけとして解党し,立憲改進党は大隈重信ら幹部が脱党して活動停止状態となってしまうのだ。

激化事件
福島事件……1882年,福島県令三島通庸が県会議長河野広中ら自由党員を弾圧
加波山事件…1884年,自由党員が栃木県令三島通庸の襲撃を計画
秩父事件……1884年,養蚕地帯の没落農民が困民党(借金党)を組織して蜂起
大阪事件……1885年,大井憲太郎・景山英子らが朝鮮への渡航とその内政改革を計画


文化史 人びとによる契約を国家のなりたちの基本にすえる人民主権・君民共治の主張は,神格化された天皇による統治を国家のなりたちの基本にすえようとしていた藩閥にとって,警戒すべき動向だった。

6 教育理念の転換

 自由民権運動の高まりのなか,1879年文部大輔田中不二麿が中心となって教育令が制定され,地方自治的な教育制度が導入された。画一的だった学制にかえ,アメリカの制度にならって地方の実情にみあった教育方針を決めてよいとしたのだ。ところが翌年には改正され,教育の国家統制が強化される。実学教育にかえて修身(道徳)教育が重視され,人びとを国家のもとへ道徳面から統合していくことがめざされたのだ。

7 国家神道の形成

 政府は伊勢神宮を頂点とする神社制度を整えていたが,教部省廃止後,これらの神社は内務省の監督下におかれ,政府からの公金の支出をえて国家の祭祀をになった。これが国家神道であり,信教の自由の対象となる宗教を超えた存在とされた。一方,黒住教・金光教・天理教などの神道系の民衆宗教は,文部省の監督下におかれて教派神道として公認された。
 こうして国家神道のもと,仏教・キリスト教・教派神道をそれに従属する公認宗教として編成する体制が整えられ,諸宗教は布教活動を合法化するため,国家神道に迎合する形で教義を変質させることを余儀なくされた。


経済史 1881年に,明治14年の政変で大隈重信が政府を追放されたあと,松方正義が大蔵卿に就任し,破綻しかけていた国家財政の立て直しにとり組んだ。彼の財政政策を松方財政という。

8 松方財政と国家財政の再建

 松方財政のねらいは兌換制度の実現にあった。それにより紙幣価値を安定させることができれば,物価も安定し,地租収入の実質的な減少も防げる。松方はそのための準備として,(1)緊縮財政により黒字を確保して不換紙幣を回収し,(2)中央銀行への紙幣発行権の集中をはかった。

松方財政の内容
(1)緊縮財政 酒造税・煙草税などの増税
       軍事費以外の歳出を切りつめる
       →官営事業の払い下げを促進(工場払下げ概則を廃止)
   ↓
  紙幣整理 不換紙幣を処分(1円紙幣≒1円銀貨へ近づける)
(2)日本銀行の設立(1882年)…紙幣を発行できる唯一の銀行
       →国立銀行から紙幣発行権を取りあげる

 歳出のうち軍事費だけが例外とされたのは,壬午軍乱や甲申政変による対外的緊張の高まりを背景として陸海軍の軍拡要求が強まっていたためだ。
 また,工場払下げ概則を廃止して官営事業の払下げを促進した点に注意。工場払下げ概則は条件が厳しかったために,払下げが思うように進んでいなかったのだ。

結果・影響
(1)銀本位制が確立(1885年から日本銀行が銀兌換の銀行券を発行)
 →紙幣の信用が安定・日本銀行を中心とする銀行制度が成立
(2)デフレが発生(米価・繭価など物価が下落)
 →農民の階層分化がすすむ=自作農の没落と地主への土地集中


外交史 台湾出兵以降の日本の対アジア政策は,清と琉球・朝鮮の間の宗属関係を否認するものであり,清との間に緊張をもたらした。

9 琉球処分

 台湾出兵を清に義挙と認めさせた日本政府は,琉球内部の反発をおさえこみながら,1879年沖縄県設置を強行した(琉球処分)。これに対し,琉球と宗属関係をもっていた清が反発した。アメリカ前大統領グラントが調停をはかり,先島諸島(宮古・八重山群島)を清に分割するという先島分島案を提示したものの失敗し,最終的には,下関条約により台湾が清から日本へ割譲されたことで,沖縄の日本帰属が確定した。

10 朝鮮をめぐる清との対立

 日朝修好条規による開国は,朝鮮内部の政治紛争を激化させた。閔妃一派が日本の協力のもとで欧化政策を進めたため,大院君を中心とする攘夷派の不満が高まり,さらに貿易の拡大にともなう日本商人の朝鮮国内への進出は朝鮮民衆の生活不安と日本への反発を招いていた。こうしたなか,1882年壬午軍乱がおこる。下級兵士らが暴動をおこして朝鮮王宮や日本公使館を襲撃し,それに乗じて大院君が政府の実権を握ったのだ。しかし,清の軍事介入により鎮圧され,同年日朝間に済物浦条約が結ばれて日本は賠償金と公使館守備兵の駐留権をえた。
 これ以降,清は軍隊を駐留させ続けて内政干渉を強めた。日本の朝鮮への進出を警戒し,朝鮮に対する宗主権を強化しようとしたのだ。そのため,清との宗属関係を維持しようとする閔妃ら穏健派(事大党)と,清の内政干渉を排除してようとする金玉均ら急進開化派(独立党)との間で,対立が深まっていった。1884年6月ベトナム支配をめぐって清仏戦争が勃発し清の劣勢が伝えられると,同年12月独立党は日本公使館の支援のもとでクーデターをおこしたが,清軍により鎮圧され失敗した。甲申政変だ。
 その結果,日清間の緊張が高まり,民間では対清・朝鮮強硬論が高まった。1885年福沢諭吉が新聞「時事新報」に「脱亜論」を発表して清・朝鮮への強硬策を主張し,大井憲太郎らが大阪事件をおこした。
 それに対し,日本政府は軍事衝突の回避につとめ,1885年4月日本全権伊藤博文と清全権李鴻章の間で天津条約が締結された。両国軍の朝鮮からの相互撤兵と今後出兵する際には事前に相互に通告することが約束された。

朝鮮問題
壬午軍乱…1882年 閔妃一派=欧化政策を実施←→大院君=攘夷派
     →日朝間で済物浦条約(1882年)
甲申政変…1884年 閔妃一派=事大党←→金玉均ら=独立党
     →日清間で天津条約(1885年)


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