目次

8 立憲体制の形成 −1885〜1890年−


政治史 藩閥政府は国会開設の勅諭で1890年の国会開設を公約したが,国会が開設されれば民権派の発言力が強まることになる。藩閥は,どのようにして藩閥による政治支配を存続・機能させようとしたのか?

1 欧米にならった諸法典の整備

(1)大日本帝国憲法の制定 国会開設の勅諭で欽定憲法の方針を示した政府は,伊藤博文を中心として国民には秘密のうちに憲法制定作業を進めた。伊藤は憲法調査のためにヨーロッパへ行き,ベルリン大学のグナイスト,ウィーン大学のシュタインからドイツ憲法の講義を受ける。1884年宮中に制度取調局を設置して憲法草案の作成に着手し,1888年枢密院を設置して初代議長に就任し,明治天皇臨席のもとで草案審議をはじめる。こうして,1889年2月11日(紀元節)大日本帝国憲法が明治天皇(睦仁)により発布された。黒田清隆内閣のときだ。

憲法草案の作成
伊藤博文が中心 協力…井上毅・金子堅太郎・伊東巳代治
        助言…ドイツ人法律顧問ロエスレル

(2)華族令 国会開設にあたって二院制を採用し,貴族院を設置するために,1884年華族令を制定。旧大名・公卿だけでなく,明治維新で活躍した人物など国家の功労者を新たに華族に追加し,公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5ランクの爵位を定めた。
(3)内閣制度の創設 1885年太政官制を廃止して内閣制度を創設する。各省の長官を国務大臣とし,彼らと内閣総理大臣(首相)とにより内閣を構成させた。
(4)宮中・府中の別 内閣制度の創設にともない,宮内大臣(宮内省の長官)を内閣の外部におき,内大臣とともに天皇家内部(宮中)の事務を担当させた。宮中のことがらを扱うセクションを,内閣(府中=行政府)という国政を担当するセクションから分離したのだ。さらに1889年皇室典範を制定し,天皇位の継承方法などを定めた。こうして天皇親政のもとでの国政と天皇家の家政との混同を避けるとともに,天皇家内部に国民の意見が及ぶことを排除していったのだ。
(5)刑法・治罪法 明治初期には,中国の律・養老律・公事方御定書を参考にした新律綱領(1870年)やその不備を補った改定律例(1873年)が制定されていたが,条約改正にそなえて西洋法を導入。1880年フランス人法律顧問ボアソナード起草により刑法・治罪法が制定された。刑法は,法律に定められていない行為は犯罪として処罰されないという罪刑法定主義を初めて導入した点が画期的。皇室への犯罪として大逆罪・不敬罪が設けられていたことにも注意。
(6)民法 ボアソナードが起草し,1890年に公布されたが,批判が噴出した。帝国大学教授穂積八束が論文「民法出て忠孝亡ぶ」でフランス流の民法は道徳を滅ぼすものだと批判して,民法典論争に発展した。そのため施行が延期され,1898年改めてドイツ流の民法が制定された。財産や婚姻などに関して戸主が強い権限をもつものとされ,家制度が法的に確立した。

2 明治憲法のもとでの政治制度

(1)天皇 憲法は,皇祖皇宗(天照大神〜歴代の天皇)に由来する統治権をその子孫の天皇が受け継ぐものと規定し,天皇がもつ統治権の源泉を神話に求めることによって人民主権や君民共治を否定し,国家のなりたちに国民の意思を介在させなかった。そして天皇は国家の元首として,官吏の任免,国防方針の決定,宣戦(戦争開始の宣言)・講和や条約の締結,緊急勅令の発令,戒厳令の布告,陸海軍の統帥などの権限をもっていた。これらの権限を天皇大権とよぶ。
 とはいえ,天皇が制約なく権限を行使できたわけではない。天皇は憲法の規定に従いながら統治権を行使したのであり,それには内閣・枢密院・帝国議会などの国家機関のサポートが不可欠だった。
(2)内閣=天皇を輔弼する(advise)行政機関
 天皇が国務をとる際には内閣の輔弼が不可欠で,逆にいえば,天皇を輔弼するという形で内閣が国政を担い,天皇に対して責任を負うことになっていた(議会に対する責任は不明確だった)。つまり,内閣が天皇のもつ権限を背景として強大な行政権を握ったのだ。
 しかし,天皇の諮詢機関として枢密院があり,陸海軍の統帥権が内閣から独立していた(統帥権の独立)ため,内閣の国政運営に制約が加えられることがあった。また,各国務大臣の単独輔弼制がとられた上に,国務大臣の任免権を首相ではなく天皇がもっていたため,閣内対立が内閣総辞職に直結しやすかった。
(3)帝国議会=天皇の立法行為を協賛する(consent)立法機関
 法律・予算を制定する権限(立法権)は天皇がもっていたが,帝国議会の審議・承認を経ることが不可欠だった。つまり,帝国議会の承認がなければ法律・予算は成立しなかった。そのため,国民の意見ができる限り国政に反映しないような仕組みが整えられていた。
 まず二院制を採用し,選挙でえらばれる議員により構成される衆議院とともに,皇族・華族・勅選・多額納税者議員で構成される貴族院を設置した。そして,衆議院が先に予算を審議できること(予算の先議権)をのぞいて両院の権限を対等とした。また,天皇大権と規定されている事項に関する予算案については,議会は政府の同意なくして削減できないと定めて帝国議会の予算審議権に制限を加え,また,予算案が不成立の場合には,内閣に前年度予算の執行権を認めた。
(4)枢密院=天皇の諮詢(諮問)に応えて重要国務を審議する
 枢密院は,条約や緊急勅令,議会の承認をえた法律案など,重要な国務を審議し,ときには内閣や帝国議会の動向を制限する面をもった。
(5)元老=天皇の最高顧問(憲法には規定されていない)
 藩閥の実力者は元老と称され,憲法には規定されていないにもかかわらず,首相の選出や重要政策の決定に関与した。明治期は伊藤博文・山県有朋・井上馨・黒田清隆・松方正義・西郷従道・大山巌の7名で,のち桂太郎・西園寺公望2名が追加された。
(6)国民の人権 国民は天皇の臣民とされ,所有権の不可侵や言論・出版・集会・結社の自由は法律の範囲内で認められ,部分的な信教の自由を与えられた。

3 地方制度の整備

 地方制度は山県有朋とドイツ人法律顧問モッセが中心となって整備され,1888年市制・町村制,1890年府県制・郡制として定められた。住民の自治が規定されたものの,内務大臣や知事の強い監督をうけた。

地方制度の変遷
1871年戸籍法=大区・小区制
→1878年三新法=郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則
→1888年市制・町村制,1890年府県制・郡制

 北海道と沖縄は特別扱い。北海道では,1886年北海道庁が設けられて植民事業が継続し,先住民族のアイヌは北海道旧土人保護法(1899年)のもと,保護地においやられていく。さらに,衆議院議員選挙法が実施されたのも1900年のことだった。沖縄では,琉球処分の後も旧制度が維持され(旧慣温存),府県制(→1909年実施)・衆議院議員選挙法(→1912年実施)が実施されなかった。そのため,謝花昇らが参政権獲得運動(1899年沖縄倶楽部)を進めたが,弾圧された。

4 学校制度の確立

 森有礼文相のもと,1886年学校令(小学校令・中学校令・師範学校令・帝国大学令の総称)が制定され,学校体系の整備も進んだ。尋常小学校3年または4年の義務教育が定められ,小中学校の教科書の検定制度がはじめられた。また,東京大学を工部大学校とあわせて帝国大学として改編し,国家の須要に応じるエリートの養成機関とした。
 1890年には教育勅語が発布され,教育の基本理念が示された。井上毅が元田永孚の協力のもとで起草し,天皇への忠誠など,忠孝の儒教道徳を強調したものだ。

学校制度の整備
学制(1872年)→教育令(1879年)→学校令(1886年)→教育勅語(1890年)


外交史 欧米諸国にならった法制度の整備をすすめながら,一方では領事裁判権の撤廃を主眼とする条約改正交渉がすすめられていた。

5 条約改正交渉

担当は井上馨外務卿(のち外相)と大隈重信外相だ。

井上外交(第1次伊藤博文内閣)
形式=関係国すべてが同席して交渉
   →外国要人接待の社交場として鹿鳴館(設計コンドル・1883年)
条件=外国人裁判官の任用・内地雑居(外国人の国内通商の自由)
反対=政府内部ではボアソナードや谷干城農商務相
   民間で三大事件建白運動(1887年)
結果=井上馨外相が辞任して交渉中止

 三大事件建白運動は,井上外相の条約改正案に反対して外交失策の挽回・言論の自由・地租の軽減を求めたもの。すでに1886年から星亨・後藤象二郎が中心となって民権各派の結集をはかる大同団結運動が進められており,鹿鳴館に象徴される表面的な欧化政策への反発やノルマントン号事件(1886年)ともあいまって,反政府運動は盛りあがった。それに対して第1次伊藤内閣は,1887年保安条例を制定して民権派の指導者を東京から追放したが,井上にかえて大隈重信を外相として入閣させたのも,それにより運動を分裂させるためだった。

大隈外交(第1次伊藤〜黒田清隆内閣)
形式=関係国と個別に交渉→アメリカ・ロシア・ドイツと交渉に成功
条件=外国人裁判官の任用を大審院に限定・内地雑居
反対=憲法違反との批判→玄洋社社員が大隈外相を襲撃
結果=黒田内閣の総辞職により交渉中止


文化史 西欧の枠組みにもとづいて新たな伝統が編成されていく。ナショナリズムの高まりだ。

6 ナショナリズムの高まり

(1)ナショナリズム思想 藩閥政府主導のもとで表面的かつ画一的に欧米の生活様式を導入していこうとする動きに対して,日本の現実に即して再検討・修正していこうとする思想がでてくる。

ナショナリズム思想
(a) 徳富蘇峰の平民主義         民友社 雑誌「国民之友」
(b) 三宅雪嶺・志賀重昂らの国粋保存主義 政教社 雑誌「日本人」
(c) 陸羯南の国民主義              新聞「日本」

 (a)徳富蘇峰は,民衆(これを平民と表現した)の生活の現実に即した下からの欧化をめざしており,(b)三宅雪嶺らは藩閥政府の極端な欧化政策のあり方に批判的で,国民としてのまとまりの基軸となる伝統的文化を新たに創出していこうとしていた。(c)陸羯南は欧化政策における国民の主導性を確立すべきことを主張していた。
(2)絵画 御雇外国人フェノロサやその弟子岡倉天心の指導のもと,狩野芳崖(『悲母観音』)・橋本雅邦らにより,西欧の手法にならいながら新しい日本画を創出する試みが現れた。そして岡倉は,1887年東京美術学校の設立を実現させて新日本画運動の拠点とした(彫刻科には伝統的な木彫の高村光雲が迎えられた)。それに対抗して,工部美術学校でフォンタネージから油絵の教授をうけた浅井忠らは,1889年明治美術会(最初の洋画団体)を結成した。
(3)文学 坪内逍遥が1885年『小説神髄』で写実主義を主唱。戯作や政治小説の荒唐無稽なストーリー展開を排し,ありのままの人間を描こうというのだ。その具体化が,二葉亭四迷『浮雲』や山田美妙『夏木立』などの,口語の文体を新たに作ろうとする言文一致の試みであり,硯友社を結成した尾崎紅葉・山田美妙らの活動だ。尾崎らは,1888年同人雑誌『我楽多文庫』を発刊し,江戸文学の伝統をうけつぎながら,写実的な風俗・人情の描写を実現させた。


経済史 1885年に銀本位制が確立して通貨の信用が安定し,銀行制度が整ったことを背景として,綿紡績業・鉄道業を中心に株式会社設立ブームがおきた。民間主導のもとで産業革命が始まったのだ。

7 産業革命の開始

 産業革命とは機械を使った工業生産が普及していく過程のことだ。その中心となったのは,軽工業(綿紡績業と製糸業)だった。
(1) 綿紡績業・製糸業 綿紡績業が機械・原料(綿花)を輸入に依存して発展し,紡績機械・綿花の輸入拡大にともなって増える貿易赤字の削減に貢献したのが,最大の輸出産業である製糸業だった。

綿紡績業(綿花を原料に綿糸を生産)
(a) 機械紡績が普及=機械・原料を輸入に依存
  →手紡やガラ紡を圧倒する→1890年綿糸国産高>輸入高
(b) 最初の民間会社=大阪紡績(1882年渋沢栄一が設立→83年操業開始)

 明治前期の輸入第1位は綿糸。そこで綿紡績業では,輸入綿糸に対抗するためイギリスの機械紡績をそっくり移植する。機械をイギリスから,原料綿花を中国やインドから輸入したのだ。その結果,1890年国産高が輸入高を上回り,国内市場を回復した。

製糸業(繭を原料に生糸を生産)
器械製糸が普及=器械・原料を国産でまかなう
→1894年器械製糸の生産高>座繰製糸の生産高

 幕末期以来の輸出第1位が生糸。国産器械が使われ,原料繭も国産を利用したため,生糸輸出はそのまま貿易黒字に結びついた。製糸業は,外貨(輸入代金の支払手段)を獲得する役割を果たしたのだった。

(2)鉄道業 産業活動の基盤である鉄道も飛躍的に発展する

鉄道業
(a) 最初の民間会社=日本鉄道(1881年華族の共同出資→東北線を経営)
  →1889年民営鉄道の営業キロ数>官営鉄道の営業キロ数
(b) 1889年官営の東海道線(東京−神戸間)が全通

(4)海運業 明治前期には,三菱会社が政府(とくに大隈重信)の保護をうけて発展した。ところが,明治14年の政変後に政府は政策を転換し,半官半民の共同運輸会社を設立して対抗させた。激しい競争の末,1885年両社は合併して日本郵船会社が設立された。日本郵船は1893年ボンベイ航路を開設し,インドからの綿花輸入に便宜をはかった。


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