目次

9 初期議会と日清戦争 −1890〜1894年−


外交史 朝鮮をめぐる日清の対立に加えて,新たな対立関係が表面化してくる。イギリスとロシアの対立だ。

1 英露対立の東アジアへの波及

 天津条約により日清間の緊張は緩和され,清の朝鮮に対する指導的地位が維持された。ところが,朝鮮が清に対抗すべくロシアへの接近をはかると,1885年イギリスが朝鮮の巨文島を一時的に占領して対抗し(巨文島事件),英露の対立が表面化した。とりわけ,1891年ロシアがシベリア鉄道建設に着手したことは,両国間の緊張を高めた。

2 条約改正交渉の成功

 英露の対立を背景に,イギリスが交渉態度を変えはじめる。ロシアの東アジア進出に対する防壁としての役割を,清だけでなく日本に対しても期待するようになったのだ。担当は青木周蔵外相と陸奥宗光外相だ。

青木外交(第1次山県有朋内閣〜第1次松方正義内閣)
内容…内地雑居を条件に領事裁判権の撤廃
結果…大津事件(1891年)で青木外相が辞任して失敗

 大津事件は,日本を親善訪問していたロシア皇太子ニコライが大津で巡査に斬りつけられた事件。これに対し,松方内閣は皇族への危害に準じて死刑に処すよう大審院院長児島惟謙に要請したが,児島はそれを退け,司法権の独立を守った。

陸奥外交(第2次伊藤博文内閣)
内容…内地雑居を条件に領事裁判権の撤廃・関税自主権の一部回復
結果…日英通商航海条約(1894年調印→1899年発効)

3 藩閥政府の対朝鮮政策

 山県有朋首相は,1890年第1回帝国議会の開催にあたり,独立確保のためには主権線(国境)を防御するだけではなく利益線(朝鮮半島)を確保することが必要だと演説し,日清提携のもとで朝鮮の独立確保をめざすこと,そのための軍備拡張を主唱した。藩閥政府は,ロシアの南下をもっとも警戒し,朝鮮の独立確保・清との勢力均衡を求めていたのだ。日朝間での穀物輸出をめぐる紛争(防穀令事件・1889〜93年)に際しても,政府は賠償を強硬に要求しつつ,清に調停を依頼して事件を解決した。


政治史 議会開設以後も藩閥の政治支配を維持することをめざして憲法が制定されたのだが,果たしてその意図は実現したのか?

4 立憲政治の実験−初期議会−

(1)藩閥の基本姿勢 憲法発布の直後,黒田清隆首相は,政策の立案・実行に関して政党には左右されないという超然主義を表明した。
(2)総選挙の実施 1890年第1回衆議院総選挙が実施された。有権者は直接国税15円以上を納める25歳以上の男子に限られ,全人口の約1%であった。
 総選挙の結果,民権派(民党)が議席の過半数を占めた。
(3)藩閥と民党の対立−軍備拡張 vs 民力休養−
 第1次山県有朋内閣は,1890年海軍拡張を含む予算案を衆議院に提出した。それに対し,民党の立憲自由党・立憲改進党は,海軍拡張に反対しないものの,支持基盤である地主の利益を代弁し,地租の軽減(民力休養)を求めて予算を削減(経費節減)しようとした。
 1891年の第2議会では民党が軍艦建造費の削減を要求。第1次松方正義内閣は,樺山資紀海相が蛮勇演説で民党を批判し,さらに議会を解散したあと,1892年の第2回総選挙では品川弥二郎内相が警察官らを動員して選挙干渉をおこなった。しかし,政府支持派(吏党)の議席は増えたものの,民党の優勢は変わらなかった。そのため,藩閥の実力者(元勲)が総出動して第2次伊藤博文内閣(元勲内閣)を組織し,1893年軍備拡張のために政府と議会は協力せよとの天皇の詔勅(建艦詔勅)を使って民党との妥協を実現させた。
(4)藩閥と対外硬派の対立−条約改正をめぐって−
 これ以降,民党のうち自由党は伊藤内閣に接近したが,立憲改進党とかつての吏党の国民協会(選挙干渉の責任をとって内相を辞した品川弥二郎らが結成)などが野党連合(対外硬派)をつくり,条約改正問題をめぐって政府を攻撃した。彼らは内地雑居(外国人の国内通商の自由)に反対して現条約励行(外国人の通商を居留地に制限している現行条約を厳格に実行すること)を主張した。また,日本に亡命していた金玉均が1894年3月上海で朝鮮政府の刺客に暗殺されたことは,伊藤内閣の対アジア外交を軟弱だとする批判を強めた。
 このように藩閥内閣が超然主義を貫くことがきわめて困難になっていた頃,朝鮮では農民戦争が激化していた。


外交史 朝鮮では,租税増徴や日本への穀物輸出の増大などによって生活不安が強まっており,人間平等と社会変革を説く民間宗教である東学が浸透していた。そして,1894年3月東学の信者を中心とする農民反乱が始まり,全国へと拡大していった(甲午農民戦争・東学党の乱)。

5 日清戦争の勃発

 同年6月朝鮮が反乱鎮圧のために清に対して出兵を要請すると,伊藤内閣は対抗してただちに出兵した。ところが日本軍が朝鮮に渡ったときには,すでに農民反乱がおさまっており,軍隊を朝鮮に駐留させる理由はなくなっていた。とはいえ,国内では対外硬派との対立により議会運営が行き詰まり,福沢諭吉の『時事新報』など新聞のほとんどは,開戦決意をうながす好戦的な主張をくりひろげていた。軍隊を撤退させれば内閣批判がそれまで以上に高まることは確実だった。
 伊藤内閣は内政危機を打開するため,陸奥宗光外相のもと強硬方針へと進む。同年7月まず朝鮮王宮を軍事占領して親日派政権を樹立させた。ちょうどそのころ,ロンドンでは日英通商航海条約が調印されていた(青木周蔵駐英公使が調印)。イギリスが条約改正に応じたのだ。こうしてイギリスの好意的中立を確保し,さらにロシアの了解も取りつけると,朝鮮の独立確保・清の宗主権排除を掲げて日清戦争に突入した。


文化史 ナショナリズム・対外硬の風潮のなかで,文化面では復古的・国粋的な傾向が強まっていく。

6 国家神道のもとでの思想統制

 1891年第一高等中学校の始業式でキリスト教徒の講師内村鑑三が教育勅語への拝礼を拒否したことから(内村鑑三教育勅語不敬事件),帝国大学教授井上哲次郎が論文「教育と宗教の衝突」で,天皇を中心とする日本の国体にはキリスト教は合わないと主張し,キリスト教排撃の論調が強まった。
 さらに翌92年歴史学者久米邦武が帝国大学教授を休職となる事件が起こる。久米が論文「神道は祭天の古俗」で日本古代の神道は本来宗教ではないと論じたことから,天皇による支配の正統性の基礎となる記紀神話などを否定したとして,非難をうけたのだ。

7 伝統の復興・創出とロマン主義

(1)文学 尾崎紅葉(『金色夜叉』)と幸田露伴(『風流仏』)が人気を博していたのが日清戦争前後。その一方でロマン主義が登場する。甘美な理想・情熱とその挫折という個人的世界を描こうとする文学潮流だ。その草分けが,軍医としてドイツ留学したのちに『舞姫』などの小説や『即興詩人』などの翻訳を著した森鴎外。さらに,1893年北村透谷・島崎藤村らが雑誌「文学界」を創刊した。
(2)演劇 1889年福地源一郎らにより歌舞伎座が完成した。江戸時代以来の見世物小屋にかわる近代的劇場が出現したのだ。そして,9代目市川団十郎・5代目尾上菊五郎・初代市川左団次らの名優により団菊左時代とよばれる明治歌舞伎の黄金時代がつくり出された。


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