目次

10 東アジア分割の進展 −1894〜1904年−


外交史 日清戦争は日本の圧倒的な勝利に終わった。その結果,日本は東アジアに帝国主義的な国際秩序をつくりあげる側にたつにいたった。

1 下関条約

 日本全権伊藤博文首相・陸奥宗光外相と清全権李鴻章との間で,1895年講和条約が調印された(下関条約)。

下関条約
(a)朝鮮が独立国であることを清が承認する→清・朝鮮間の宗属関係が清算された
(b)領土の割譲=遼東半島・台湾・澎湖諸島
(c)賠償金2億両(約3億円)
(d)長江流域(沙市・重慶・蘇州・杭州)の開港

(1)三国干渉 遼東半島の割譲は,満州への進出を策していたロシアを刺激し,1895年ロシア・フランス・ドイツによる三国干渉を招く。遼東半島の清への返還を要求してきたのだ。伊藤内閣は要求に応じたが,国内では臥薪嘗胆をスローガンとしてロシアへの敵対感情が高まった。
(2)朝鮮情勢の変化 清・朝鮮間の宗属関係が清算され,朝鮮では清の勢力が後退したが,日清開戦以来の日本の内政干渉に対する反発も強まっていた。とりわけ1895年駐朝公使三浦梧楼らが閔妃を殺害した事件をきっかけに日本の影響力が後退し,かわってロシアが進出してくる。
 そうしたなか,朝鮮は1897年国号を大韓帝国と改称し,自主独立を確保しようとする動きを強める。そして対立を深めていた日露間でも,韓国の主権尊重と内政不干渉が協定されるに至った(西・ローゼン協定)。
(3)台湾の植民地化 割譲に反対する漢民族によって台湾民主国が樹立され,先住民族高山族の抵抗運動もおこる。日本は軍隊を派遣してこれらの動きを抑圧し,台湾総督府を設置した。初代台湾総督は樺山資紀。

2 中国分割競争の展開

 日清戦争での敗北により清の弱体ぶりが露呈されると,中国は列国の激しい利権争いの対象となった。

中国分割競争
ドイツ……膠州湾(山東半島)の租借
ロシア……旅順・大連(遼東半島)の租借,東清鉄道の敷設
イギリス…威海衛(山東半島)・九竜半島(香港島の対岸)の租借
フランス…広州湾の租借
日本………福建省の不割譲を約束させる
アメリカ…中国の門戸開放・機会均等を主張(ヘイ国務長官)

 ヨーロッパ諸国は港湾の租借(主権を留保したうえで独占的な権益を確保)・鉄道敷設などの権利の獲得を競った。他方,1898年ハワイを併合,99年からフィリピンの植民地化に乗り出したアメリカは,1899年中国の門戸開放・機会均等を主張した。中国進出を本格化させるにあたって,自由競争の原理を掲げたのだ。

北清事変
義和団の乱(1898年〜)=「扶清滅洋」,山東省→北京・天津へ
→北清事変(1900年)=日本など8か国が共同出兵

 欧米・日本の侵略に対して中国民衆のなかから反発が起こる。秘密結社義和団が「扶清滅洋」を掲げて山東省で挙兵し,北京・天津へ移って列国の公使館を包囲したのだ。これに対して,1900年日本を主力とする8か国が共同出兵して義和団を鎮圧し(北清事変),翌年北京議定書が調印され,列国は賠償金と軍隊の北京常駐権を獲得した。
 このとき日本が最大の兵力を派遣したのは,イギリスの要請による。当時イギリスは,南アフリカでのボーア戦争に忙殺され,予想されるロシアの中国進出に対抗するだけの余裕がなかったため,日本に“極東の番犬(憲兵)”としての役割を期待したのだ。とはいえ,日本は厦門(福建省)に出兵して占領を企て,隙あらば南進政策を進めようとしていた。


文化史 日清戦争の勝利の結果,清・朝鮮への蔑視感が強まるとともに,日本の優越さを強調し,対外膨張を積極的に主唱する思想が広がる。

対外膨張を主唱する思想
徳富蘇峰…日清戦争をきっかけに平民主義から国家主義へ転向
高山樗牛…日本主義・雑誌「太陽」の主幹


政治史 三国干渉をきっかけとするロシアとの緊張,そして中国分割競争の激化に対応できるだけの軍事力・経済力を育成すべく,藩閥内閣は軍備拡張と産業振興を進めた(日清戦後経営)。それにともない,増税の決定権を握る議会の意向をさらに重視する必要が生じてきた。

3 政党の勢力伸長

 藩閥内閣は,増税を実現させるため,政党との提携を進める。第2次伊藤博文内閣は,1896年4月自由党と提携して板垣退助を内相にすえ,つづく第2次松方正義内閣は,同年9月進歩党と提携して大隈重信を外相に起用した。そして政党は,閣僚や高級官僚のポストを与えられる代わりに,軍拡予算を支持した。
 ところが,政党員の官僚への進出は藩閥官僚のなかから反発を引き起こし,さらに財政難から地租増徴案が浮上すると,藩閥内閣と政党との提携も破綻する。自由・進歩両党が地租増徴に反対の立場をとったのだ。1898年1月成立の第3次伊藤博文内閣と自由・進歩両党との提携が失敗すると,6月両党が合同して憲政党を結成し,さらに伊藤首相による新党結成計画が山県有朋ら元老の反対にあって実現しなかったため,第3次伊藤内閣は議会運営の展望を失って総辞職した。
 こうして,1898年6月末大隈重信を首相・板垣退助を内相とし,憲政党を基盤とする,いわゆる隈板内閣が成立した。陸・海相を除く閣僚をすべて政党員で占めた,初の政党内閣が出現したのだ。
 しかし,憲政党の内部では閣僚や高級官僚の分配をめぐって派閥抗争がくり広げられ,内閣の基盤は不安定だった。そうしたなか,尾崎行雄文相が政治の金権的体質を批判した演説のなかで共和政治に言及したため,天皇制を否定したとして明治天皇から罷免されたことは(共和演説事件),後任人事をめぐる憲政党への分裂へとつながり,内閣総辞職のきっかけとなった。星亨ら旧自由党が独自に憲政党を新しく組織し,それに対抗して旧進歩党が憲政本党を結成したため,隈板内閣は4か月足らずで総辞職してしまう。

4 藩閥支配の強化

(1)政党の勢力抑制 1898年11月第2次山県有朋内閣が成立し,藩閥内閣が復活した。山県内閣は,憲政党と提携して地租増徴(2.5%→3.3%)を実現させると,一転して政党の勢力を抑制するための措置を施した。どのような内閣が成立しても,官僚や陸海軍が内閣からの超然性を確保できるようにしたのだ。

第2次山県内閣の政党への対抗策
文官任用令改正…1899年高級官僚を自由任用制から試験任用制へ→政党員の進出を排除・帝国大学出身者で独占
軍部大臣現役武官制…1900年陸海軍大臣を現役大・中将に限定→内閣は陸海軍の支持がなければ成立・存続できなくなる
選挙法改正…1900年納税資格を10円以上に引き下げ→都市の実業家層を取り込むことで地主議員に対抗

(2)立憲政友会の結成 山県内閣の反政党的な動きに対して,憲政党は政府との提携を打ち切り,伊藤博文へと接近していく。憲政党は,鉄道・港湾などの整備を進めることで地方の産業振興をめざし,支持基盤の地主へ利益を誘導する方向へと転換しており,藩閥官僚勢力と提携しようとする動きが強くなるのも当然だった。
 これに対して伊藤博文は,東アジア分割競争がすすむなか,閣僚・高級官僚のポスト獲得に狂奔して党利党略を優先する既成政党のあり方に危機感を抱いていた。そして,国家目標の実現を掲げる政党をみずから組織することによって藩閥の政治力を補強し,分割競争に対応できる政治体制を確立しようとしていたのだ。
 1900年9月伊藤博文を総裁として立憲政友会が結成され,憲政党は解党してこれに参加した。この結果,藩閥の影響力が衆議院にも及ぶこととなり,藩閥官僚勢力と政友会の協力のもとでスムースな議会運営が可能となった。このことは,政党が藩閥勢力に屈服したことを意味しており(政党の藩閥化),その点を幸徳秋水が「自由党を祭る文」(『万朝報』)で批判した。しかし他面では,政党が藩閥官僚勢力の一部を取り込むことによって政策立案と政権担当の能力を獲得し,内閣組織への近道を得たことでもあった(藩閥の政党化)。実際,同年10月政友会を与党とする第4次伊藤内閣が成立した。
(3)元老の引退 こののち,山県・伊藤ら元老は政界の第一線を退き,かわって長州出身の軍人政治家桂太郎が1901年官僚・貴族院勢力を基盤として組閣し,政友会総裁も伊藤から公家出身の西園寺公望へと交代した。


経済史 日清戦争前に始まった産業革命は,軽工業中心の日本資本主義を成立させた。

5 資本主義の確立

 東アジア分割競争が激しくなるなか,それに積極的に対応できる経済力と軍事力を養成するため,政府は積極的な保護策をとった。

(1)綿紡績業

綿紡績業の発展
●明治中期:綿糸が輸入第1位
↓  1890年…綿糸国産高>綿糸輸入高
↓  1897年…綿糸輸出高>綿糸輸入高
●日清戦後:綿糸が輸出第2位・綿花が輸入第1位へ転換

 綿紡績業が輸出産業へと発展できた背景には,(a)1893年日本郵船会社がボンベイ航路を開設し,1896年政府が綿花輸入関税を撤廃したことなどにより,原料綿花にかかるコスト削減に成功したこと,(b)下関条約で長江流域に開港場を獲得し,綿糸など日本製品が有利な条件で中国市場へ輸出できるようになったこと,があった。
(2)海運業・造船業への保護 海運業の発展を促すため,政府は1896年航海奨励法・造船奨励法を制定した。その結果,日本郵船会社が欧米航路へ進出し,三菱長崎造船所など民間の造船技術が向上した。
(3)鉄鋼の国産化へ 砂鉄を原料とするたたら製鉄にかわって,幕末期から洋式高炉による製鉄技術が導入されたが,釜石製鉄所(岩手県・田中長兵衛に払い下げ)など,一部にとどまっていた。そこで政府は,鉄鋼の国産化をめざして官営八幡製鉄所(福岡県)を建設した。

官営八幡製鉄所
1901年操業開始・ドイツの技術
原料:中国大冶の鉄鉱石・燃料:筑豊の石炭

(4)金融機関の整備 産業基盤を充実させるため,各府県に農工銀行を設立し,長期資金の供給のために日本勧業銀行・日本興業銀行を設立した。
(5)貿易構造の変化 こうして日本でも資本主義経済が確立していったが,綿紡績業が原料綿花をインドなどからの輸入に依存しており,重工業がまだ未発達だったため,軍備拡張や産業発達にともなって機械・鉄鋼など重工業製品の欧米諸国からの輸入が増加した。そのため,貿易収支は大幅な輸入超過となった。
(6)金本位制への移行 産業革命のなかで欧米やインドなど金本位制地域からの輸入が増加したことは,当時は銀価が世界的に下落傾向にあったため,銀本位制の日本には不利となった。また基準貨幣が異なることは欧米からの外資導入に障害となっていた。そこで,日清戦争の賠償金をもとに,1897年第2次松方内閣が貨幣法を制定し,金本位制を確立した。

6 寄生地主制の成立

 農村では日清戦後に寄生地主制が成立した。土地を集積した地主のなかに,耕作から離れ,小作料収入をもとに,みずから企業を設立したり,公債や企業の株式に投資したりする動きが進んだのだ。

寄生地主制成立の背景
(1)地租改正……地主の土地所有権の保障,地主・小作関係の法認
(2)松方デフレ…自作農が小作農へ没落・地主に土地集中

 これに対して,小作農など下層農民は,現物納の小作料が高率なために最低限の生活費用も確保することができず,家計補充のために子女を紡績・製糸工場へ出稼ぎさせていた。
 このように資本主義経済は,寄生地主から資金を,小作農など下層農民から低賃金労働者を吸い上げていたのだ。

7 社会問題の表面化

 政府による法的な規制もなく,労働組合などによる社会的な規制もなければ,経営者は労働者を自由に酷使することが可能だし,煤煙や廃棄物が自然や人間の生活環境にどんな影響を及ぼすのかなどと配慮する必要もない。産業革命が進んでいたこの時期は,そういう状況だった。
(1)社会問題の発生 産業革命の進展とともに,東京・大阪など大都市には貧民窟(スラム)とよばれる下層社会が形成され,工場労働者だけでなく,日雇いや人力車夫・職人など,さまざまな仕事に従事する人びと(雑業層)までが劣悪な居住条件のもとで生活していた。さらに労働者は,不衛生な環境で長時間にわたって働かされ,賃金は低く抑えられていた。

労働者の実態
雑誌「日本人」…1888年三菱経営の高島炭鉱(長崎県)の惨状を報道
横山源之助…『日本之下層社会』(1899年)
農商務省……『職工事情』(1903年)
細井和喜蔵…『女工哀史』(1925年)

(2)労働運動 労働者みずからが労働条件の改善を求める動きが登場する。1886年甲府の雨宮製糸,1889年と1894年には大阪の天満紡績で労働争議が起っていたが,本格化するのは日清戦後。アメリカで労働組合運動の指導をうけた高野房太郎が,1897年片山潜らとともに労働組合期成会を組織したことがきっかけだ。しかし,第2次山県内閣が1900年治安警察法を制定し,労働組合の結成や労働争議を制限するなど弾圧を強めたため,衰退した。
(3)社会主義運動 社会的・経済的な平等を実現させようとする社会主義思想も日本に入ってくる。キリスト教徒の安部磯雄・片山潜や,中江兆民門下の幸徳秋水らが,1901年最初の社会主義政党社会民主党を結成したが,治安警察法により直後に禁止された。

社会主義運動の系譜
研究:社会主義研究会(1898年)→啓蒙:社会主義協会(1900年)
→政界進出:社会民主党(1901年)→日本社会党(1906年)

(4)足尾鉱毒事件 古河経営の足尾銅山(栃木県)から流出した鉱毒は渡良瀬川流域に被害をもたらしていた。衆議院議員田中正造(栃木県選出)が解決に尽力し,1901年には明治天皇に直訴したが,被害民の要求はほとんど受け入れられなかった。
(5)廃娼運動 政府は特定地域の特定業者に限って女性の売春を公認しており(公娼制度),貧困から身売りされて強制的に売春に従事させられた女性もいた。そのため,矢島楫子の設立した日本キリスト教婦人矯風会や山室軍平の救世軍などが,公娼制度の廃止運動に取り組んだ。
(6)普通選挙運動 納税資格を撤廃して男子普通選挙を実現させようとする運動が本格化する。1897年長野県松本で中村太八郎らが普通選挙期成同盟会が結成したの始まり,旧民権派や社会主義者が参加した。


外交史 都市の下層社会に生活する雑業層・労働者たちのなかには,社会からのドロップ・アウト感を,国家との一体感を強めることで癒していこうとする衝動がみられた。ロシアとの対決を要求する主戦論は,こうして高まりをみせることになる。

8 ロシアとの緊張激化

 北清事変をきっかけにロシアが満州を軍事占領し,独占的権益を清に認めさせた。このため,イギリス・アメリカ・日本などは警戒心を強めた。
 日本では,伊藤博文・井上馨らがロシアとの外交交渉により事態の打開に努めようとし(日露協商論),第1次桂太郎内閣はロシアの衝突を回避するためにもイギリスとの提携が必要と考えていた(日英同盟論)。両者のあいだに対立はほとんど見られず,ロシアによる満州領有に反対するものの,韓国での日本の優越権を確保する代わりに満州でのロシアの優越権を認めるという構想(満韓交換)だった。つまり日本は,日英同盟と日露協商とにより,清・韓国の独立と領土保全を確保したうえで,日露による満韓交換を実現させようとしていたのだ。こうして第1次桂内閣(外相小村寿太郎)は,1902年ロシアを仮想敵国とする軍事同盟日英同盟を結び,それを背景としてロシアとの交渉にのぞんだ。
 それに対して,ロシアはいったん満州からの撤兵を約束したが,期限の1903年になっても撤兵を完了させなかった。
 そのため,政府に開戦決意をうながす主戦論が高まる。近衛篤麿・頭山満らは対露同志会を結成して好戦的な雰囲気を煽り立て,東京帝国大学教授戸水寛人らが七博士意見書を桂内閣に提出し,桂内閣の対露姿勢を弱腰だと批判した。また,黒岩涙香を社主とする新聞「万朝報」も1903年非戦論から主戦論へと転換する。ロシアとの戦争に反対する非戦論は,万朝報社を退社して平民社を組織し,新聞「平民新聞」を発刊した幸徳秋水・堺利彦らの社会主義者,そして同じく万朝報社を退社したキリスト教徒内村鑑三ら,少数派にすぎなかった。こうして主戦論が盛り上がるなか,1904年2月日露間の交渉が決裂し,日露戦争が勃発した。

日露戦争をめぐる世論の対立
主戦論…戸水寛人ら七博士意見書,対露同志会
    新聞「万朝報」(はじめ非戦論・のち主戦論に転換)
非戦論…平民社(幸徳秋水・堺利彦ら),内村鑑三
    与謝野晶子・大塚楠緒子

 日露戦争はしばしば祖国防衛戦争と評されるが,(a)イギリス・アメリカの利害を代弁しつつ,ロシアによる独占を排して満州市場の開放をめざす戦争であり,(b)日本の韓国支配の確立をめざす戦争だった。そして,ロシアが満州の軍事占領を続けたことから,それに対抗して勢力均衡を維持するためにも韓国支配の確立が急務とされ,(b)に力点を置く形で開始されたのだ。


文化史 日清戦争前から興っていたロマン主義文学がいっそう盛んとなり,さらに外光派とよばれる明るい画風の西洋画がもたらされる。

9 ロマン主義と外光派・新派劇の登場

(1)小説・詩歌 ロマン主義文学がさかん。島崎藤村の新体詩(『若菜集』)や与謝野晶子の短歌(『みだれ髪』)など,ほのかな恋愛感情や情熱をたたえた詩歌が現れ,新詩社を設立した与謝野鉄幹・晶子らが1900年雑誌「明星」を創刊した。
 他方で,正岡子規が,写生を掲げて古典を規範とする短歌・俳句の革新運動を進め(『歌よみに与ふる書』・俳句雑誌「ホトトギス」の創刊),徳富蘆花が社会的題材をあつかった小説(『不如帰』)を発表するなど,リアリズムの風潮もさかんだった。
(2)絵画 新しい傾向の西洋画が導入される。フランスで印象派風の絵画を学んで帰国した黒田清輝・久米桂一郎らが,外光派とよばれる明るい画風をもたらしたのだ。彼らは1896年白馬会を組織し,さらに同年東京美術学校に西洋画科が新設されると教授として迎えられ,次第に絵画界の主流を形づくっていった。
 他方,東京美術学校を追放された岡倉天心は,1898年橋本雅邦・菱田春草(『落葉』『黒き猫』)・横山大観・下村観山らとともに日本美術院を結成し,新日本画創出の運動を民間で継続していった。さらに『東洋の理想』(「アジアは一つである」のフレーズで始まる)や『茶の本』を英語で執筆し,東洋文化,なかでも日本の伝統文化の優秀性を主張した。
(3)演劇 日清戦争を題材とした素人演劇が人気を博した。テレビのない,この時代,演劇がニュース報道の代役を果たしたわけだ。その素人演劇とは,自由民権運動の宣伝として登場した壮士芝居で,歌舞伎(旧派)に対して新派劇と称された。なかでも川上音二郎がオッペケペー節で名をはせ,妻川上貞奴(マダム貞奴)はアメリカやフランスで女優として注目をあびた。
(4)建築 工部大学校でコンドルから建築を学んだ辰野金吾や片山東熊が活躍した。辰野金吾は日本銀行本店・東京駅を設計し,片山東熊は赤坂離宮(現在の迎賓館)など天皇家関係の建築に携わった。


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