目次

11 日本帝国主義の形成 −1904〜1911年−


外交史 日露戦争に勝利した日本は,イギリス・ロシアとの協調を外交政策の軸にすえ,欧米諸国と対等な国交関係をつくりあげた。

1 日露戦争後の国際情勢

 日本は特別増税と英米からの外債などで戦費を確保したが,戦闘能力の限界からロシアを降伏させることはできず,与謝野晶子(「君死にたまふことなかれ」)や大塚楠緒子(「お百度詣で」)の厭戦詩も現れていた。
 1905年桂内閣は,アメリカ大統領Th.ローズヴェルトに講和の斡旋を依頼し,その結果,アメリカのポーツマスで講和会議が開催された。日本全権は小村寿太郎外相,ロシア全権はウィッテ。

ポーツマス条約
日本の韓国に対する保護・指導権をロシアが承認する
権益の譲渡…旅順・大連の租借権,長春・旅順間の鉄道
領土の割譲…北緯50度以南の樺太
沿海州・カムチャッカ半島沿岸の漁業権
賠償金なし

(1)日比谷焼打ち事件 賠償金が獲得できなかったことは,“連戦連勝”との政府・ジャーナリズムの宣伝のもとに,増税などの負担に耐えてきた国民にとって納得できるものではなかった。1905年東京・日比谷公園で開かれた講和反対の国民大会は暴動と化した。日比谷焼打ち事件だ。
(2)韓国の植民地化 日露戦争勃発に際して韓国は中立を宣言していたが,1904年日本はこれを無視して首都漢城を軍事占領したうえで日韓議定書を調印させ,韓国内における軍事行動の自由を確保した。さらに第1次日韓協約で日本が推薦する外交・財政顧問を韓国政府におき,重要な外交事項を日本政府と協議することを認めさせた。そして日露戦争後には,1905年第2次日韓協約で韓国から外交権を奪って保護国とし,1910年韓国併合条約で韓国を廃滅させて日本領土に編入した。
 以後,韓国の名称は朝鮮と変更され,憲法が適用されないまま,1945年まで朝鮮総督府による植民地支配がおこなわれた。

韓国併合への過程
(a)欧米諸国が韓国の保護国化を承認
 ↓ アメリカ…桂・タフト協定(1905)→米のフィリピン支配を承認
 ↓ イギリス…第2次日英同盟(1905)→英のインド支配を承認
 第2次日韓協約(1905年):外交権を奪う=保護国化
   →統監府を設置(初代統監伊藤博文)
(b)ハーグ密使事件(1907年)
 ↓ オランダのハーグで万国平和会議→韓国皇帝が独立維持を訴え
 第3次日韓協約(1907年):内政権を奪う・韓国軍隊を解散
(c)義兵闘争(運動)の激化
 ↓ 安重根らによる伊藤博文の暗殺(1909年)
 韓国併合条約(1910年):韓国を日本に併合
   →朝鮮総督府を設置(初代朝鮮総督寺内正毅)

(3)アメリカとの関係悪化

日本の南満州経営
旅順・大連の租借権      →関東都督府(1906年)
長春・旅順間の鉄道と付属の利権→南満州鉄道株式会社(1906年)

 長春・旅順間の鉄道と付属の利権(撫順炭鉱など)は,当初アメリカの鉄道企業家ハリマンとの間で共同経営が計画されていたが(桂・ハリマン覚書),小村外相らの反対で取り消され,1906年半官半民の国策会社として南満州鉄道株式会社が設立された(略称満鉄・初代総裁は後藤新平)。南満州の権益を独占的に経営しようとしたのだ。それに対してアメリカが南満州市場の開放を求めたが,日本は日露協約を結んでロシアと提携することにより対抗した。  フィリピンを植民地化したアメリカにとって,日本の台湾領有・北清事変の際の厦門出兵といった南進政策は警戒すべき動きであり,そこへ南満州市場をめぐる対立が加わったのだ。アメリカ西海岸ではアジア系移民排斥の動きの一環として日本人移民の排斥運動が高まっていく。
 こうして日米間の緊張が高まるなか,1908年高平・ルート協定が結ばれ,中国の門戸開放・太平洋地域の現状維持などが約された。日米関係の安定が図られていったのだ。
(4)条約改正の達成 1911年第2次桂内閣(小村寿太郎外相)が日米新通商航海条約を結び,関税自主権の完全回復に成功した。

条約改正
岩倉具視→寺島宗則→井上馨→大隈重信→青木周蔵
→陸奥宗光:法権回復→小村:税権回復


経済史 日露戦後は,大陸経営にともなう出費がかさんだだけでなく,日露戦争の戦費の処理(外債の償還)が財政上の大きな課題となり,行財政整理・財政緊縮が進められた。そのなかで,日本経済は慢性的な不況の様相を呈しながらも,その一方で安定した発展がさまざまな面でみられた。

2 重工業の発展と独占資本の形成

(1)重工業の発展 鉄鋼・造船業が発達し,機械製作も始まるなど,重工業が欧米諸国から自立する基礎が整ったが,工業生産の中心は依然として繊維産業だった。

日露戦争前後の経済発達
(a)重工業の自立
 官営八幡製鉄所…1901年操業開始→日露戦後に生産拡大
 日本製鋼所…室蘭(北海道)・三井系とイギリス系資本の合弁→海軍向けの鉄鋼を生産
 池貝鉄工所…旋盤(工作機械)の国産化に成功
(b)綿織物業…豊田佐吉らが国産力織機を発明(1897年)→農村部にも綿織物工場が出現
(c)製糸業 生糸の輸出高が中国を抜いて世界第1位(1909年)

(2)鉄道国有法 軍事輸送や製品輸送に便宜をはかるため,第1次西園寺公望内閣は1906年日本鉄道会社など主要な民間鉄道を買収して国有とする鉄道国有法を公布した。
(3)独占資本の形成 1907年の恐慌以降,長引く不況のなか,大企業による生産と資本の集中が進んでいく。企業どうしの生産協定(カルテル)や企業合同(トラスト)が進み,政商のなかには持株会社を中心とするコンツェルン(財閥)を形成するものもでてくる。持株会社としては三井家の三井合名会社,岩崎家の三菱合資会社が有名。


政治史 日露戦争は自衛のための国民的戦争の名のもとに,国民の自発性を喚起しながら戦われた総力戦だった。そのため,国民は国家との一体感を一時的であれ経験した。ところが,戦争が終結するや,国家と国民との違和感が意識されるようになる。その最初が日比谷焼打ち事件だ。

3 桂園時代−山県閥と政友会の政権互譲−

 日比谷焼打ち事件は都市民衆が政治勢力として登場した最初の出来事だった。桂内閣は,こうした国民の不満をおさえこみながら政権基盤を確保するには政党の協力が不可欠と考え,政権の譲与を条件として西園寺公望・原敬ら政友会から内閣への支持をとりつけた。こうして桂と西園寺が交互に組閣する桂園時代が訪れる。藩閥官僚勢力と藩閥の実力者が率いる政党との提携・協力をもとに,安定した議会運営が行われた時代だ。
 とはいえ,相互に利害対立がなかったわけではない。桂は積極的な大陸政策をめざし,政友会は鉄道・港湾などの整備による党勢拡張をめざしていたから,予算規模の膨張は不可避だった。そのうえ,陸・海軍が1907年「帝国国防方針」を策定し,ロシア・アメリカを仮想敵国とする長期的な軍拡計画を示していた。ところが,当時は財政緊縮を余儀なくされており,優先順位をめぐる利害対立が生じざるをえない状況だった。

4 社会主義への弾圧

(1)労働運動・社会主義運動の広がり 日露戦争中に続いて増税が継続されたため労働者の生活は苦しく,各地で労働争議が続発した。他方,1906年堺利彦・片山潜らが日本社会党を結成し,第1次西園寺内閣から結社を承認された。最初の合法的社会主義政党だ。ところが,議会重視の議会政策派にかわって,直接行動派が勢力を拡大する。議会に頼ることなく労働者の直接行動を重視しようとする潮流で,幸徳秋水が中心。
(2)社会主義への弾圧 これに対して藩閥官僚は,社会主義運動が,日比谷焼打ち事件のような都市民衆の騒擾と結びつくことを恐れた。そこで,1907年日本社会党を結社禁止とし,さらに,第2次桂内閣は1910年明治天皇の暗殺を組織的に計画したという架空の理由で幸徳秋水らを逮捕し,翌年大逆罪で死刑などに処した(大逆事件)。そして1911年社会主義者取り締まりのために特別高等警察(特高)を設置した。

5 国民統合の再編成

 民衆勢力の脅威にさらされた藩閥官僚は,地方改良運動と社会政策の実現により,国民統合の再編成をめざした。民衆のエネルギーを国家のもとへ統合することにより帝国主義実現の基礎を固めようとしたのだ。
(1)地方改良運動 第2次桂内閣は,1908年戊申詔書を発してまじめに働き浪費を避けて貯蓄するという社会倫理を国民に訴えると共に,地方改良運動を展開した。国家財政の末端を担う町村財政の強化をめざし,産業組合設立を促進して地方産業の振興をはかる一方,青年会・在郷軍人会などを育成して地域住民の町村への統合を進めると共に,紀元節・天長節などの祝祭日を休日として徹底させ,国家意識の形成を促した。
(2)社会政策の実施 第2次桂内閣は,1911年労働者保護のために工場法を制定する。農商務省が法制化の中心を担っていた。

工場法
12歳未満の就労禁止,女性・年少者の深夜業禁止・12時間労働制
条件:15人以上の工場だけに適用
紡績会社の反対で施行は1916年まで延期


文化史 日露戦争期には小学校教育が国民のなかに定着し,さらに,漢文学など古典的な教養・文化にかわって,西欧文化が定着していった。

6 義務教育の普及

 日露戦争前後に義務教育がほぼ実現した。1907年小学校令が改正されて義務教育が6年に延長され,小学校の就学率も1911年約98%に達した。
 他方で,教育内容に対する国家統制が強まる。1903年から小学校の教科書が国定制となり,修身・日本史の2科目で忠孝の道徳が強調されていく。そして,1911年には小学校の日本史教科書で南北朝期の2つの皇統を南朝・北朝として同列に記述したことが問題となり(南北朝正閏問題),明治天皇の裁断で南朝が正統とされ,編修官喜田貞吉が処分をうけた。

7 自然主義と新劇の登場

(1)小説・詩歌 ロマン主義にかわり,自然主義文学が流行する。すでに日露戦争前に国木田独歩(『武蔵野』)が現れていたが,日露戦後には島崎藤村(『破戒』)・田山花袋(『蒲団』)・徳田秋声らが作品を発表し,人間の本能・内面や社会の現実を赤裸々に描いた。
 他方,西洋をモデルにした近代社会への批評を文学的に表現しようとする動きも出てくる。夏目漱石(『三四郎』『それから』)は知識人や学生の挫折・苦悩を描き,森鴎外はのちに乃木希典の殉死(明治45=1912年)を機に歴史小説に乗り出し,石川啄木はロマン派詩人として出発しながら社会主義思想をもりこんだ生活詩をうたった(『一握の砂』『悲しき玩具』)。さらに,彼らの倫理性に富んだ個人主義に触発され,1910年有島武郎・志賀直哉・武者小路実篤らの雑誌「白樺」,1911年平塚らいてうによる雑誌「青鞜」など,新しい文芸雑誌が創刊された。
(2)絵画・彫刻 西洋画で,藤島武二(『天平の面影』)・青木繁(『海の幸』)らの,古代への憧憬を描く歴史画など,ロマン主義絵画が登場する。他方,第1次西園寺内閣の牧野伸顕文相は,伝統美術と西洋美術の共通の発表の場として,1907年文部省美術展覧会(文展)を始めた。
 彫刻では,ヨーロッパに渡ってロダンに学んだ荻原守衛(『女』)や,朝倉文夫(『墓守』)らが活躍した。
(3)演劇 坪内逍遥・島村抱月・小山内薫らにより新劇が始まる。旧来の歌舞伎や大衆演劇として全盛期を迎えていた新派劇に満足せず,ヨーロッパ演劇の移植をめざしたのが新劇だ。坪内逍遥と島村抱月は1906年文芸協会,小山内薫は1909年自由劇場をそれぞれ結成した。
 1911年財界人たちの出資により洋風の帝国劇場が建設された。歌舞伎・新劇・オペラなどが上演され,社交界を代表する劇場となっていく。

8 明治期の自然科学

自然科学の業績
(1)細菌学
 北里柴三郎…ドイツ留学・破傷風菌を純粋培養→伝染病研究所
 志賀潔 ……赤痢菌を発見
(2)化学
 高峰譲吉……アドレナリン,タカジアスターゼを創製
 鈴木梅太郎…オリザニンを抽出
(3)物理学
 長岡半太郎…原子模型の理論を発表
 田中館愛橘…地磁気の測定
 木村栄 ……地球の緯度変化を観測→Z項を発見

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