目次

12 大正デモクラシーの始まり −1911〜1918年−


外交史 日本が条約改正を達成し,欧米諸国と対等な国際的地位を確保した1911年,中国では辛亥革命がおこる。

1 中国での辛亥革命

 日露戦争における日本の勝利は,中国の革命運動やアジア諸地域の独立運動の指導者に大きな夢と幻想を与えた。アジアの国家が白人の強国を破ったことが衝撃だったのだ。1905年東京で中国(革命)同盟会が結成され,民族・民権・民生の三民主義を掲げた革命運動が本格化した。
 そうしたなか,1911年中国南部で軍隊の反乱により辛亥革命が始まり,翌12年1月孫文を臨時大総統とする中華民国が建国された。これに対して清は袁世凱に鎮圧を命じたが,イギリスと組んだ袁世凱は清を滅ぼし,孫文にかわって中華民国大総統に就任した。さらに袁世凱が孫文ら革命派への弾圧姿勢を強めたため,中国情勢は混乱をきわめていった。
 第2次西園寺公望内閣は,第3次日露協約で内蒙古での日本とロシアの特殊権益の境界を定めたが,革命の動向に対しては不干渉の立場をとった。しかし陸軍や民間では,革命後の中国情勢の混乱に積極的に対応しようとする動きが出る。


政治史 都市民衆の騒擾が繰り返され,政界でも立憲政治を徹底させ,民衆の政治参加と挙国一致を実現しようとする動きが強まる。そのなかで第1次護憲運動がおこり,大正デモクラシーの時代が幕を開ける。

2 第1次護憲運動

(1)二個師団増設問題 辛亥革命後の中国の混乱を権益拡大の絶好の機会と判断した陸軍は,1912年第2次西園寺公望内閣に対して,朝鮮に師団を2つ新設常置することを要求した(二個師団増設問題)。西園寺内閣が財政緊縮を理由に要求を拒否すると,上原勇作陸相が帷幄上奏をおこなったあと単独で辞職し,陸軍は後任を推薦しなかった。つまり,軍部大臣現役武官制を利用して西園寺内閣を総辞職に追い込み,陸軍主導の内閣を成立させようとしたのだ−陸軍の横暴!−。この結果,1912年12月西園寺内閣は総辞職し,内大臣兼侍従長として宮中に入っていた桂太郎が首相に推挙された−宮中と府中の別を無視!−。
(2)第1次護憲運動 こうして成立した第3次桂内閣に対して,閥族打破(藩閥の政治支配を打破)・憲政擁護(議会政治を擁護)を掲げて第1次護憲運動がおこる。桂内閣が立憲政友会との提携という従来の政治姿勢をとらなかったため政友会もまきこみ,政友会・立憲国民党と民衆運動により桂内閣打倒の運動が展開した。

第1次護憲運動
 第3次桂太郎内閣=立憲同志会を組織(←立憲国民党の分裂)
  ↓↑
 尾崎行雄(政友会)・犬養毅(国民党)を先頭とする民衆運動
 主張:閥族打破・憲政擁護

(3)大正政変 桂首相は多数派の形成をめざして政党の結成に着手する。日比谷焼打ち事件以来高まりをみせていた民衆のエネルギーを結集し,中国情勢に積極的に対応できる強力な国家体制づくりをめざしたのだ。1913年2月初,桂系官僚と国民党多数派などにより立憲同志会の結成が宣言された。ところが同志会は多数派を確保することができず,また首相在任のまま新党を結成したことが護憲運動を刺激し,政友会の反撃を招いた。桂内閣は,大正天皇(嘉仁)の詔勅を使って政友会との妥協を図ったものの成功せず,国会議事堂をとりまく数万の民衆が暴動をおこすなか,総辞職した。大正政変だ。
(4)陸軍の勢力後退 かわって海軍大将山本権兵衛が政友会を与党として内閣を組織する。政友会が薩摩閥と組むことにより再び政権にありついたのだ。そして,護憲運動の高まりを背景として軍部大臣現役武官制を改正(廃止)し,陸海軍大臣の任用資格を現役から予備役・後備役にまで拡大した。陸海軍の内閣への発言力を弱めたのだ。
 しかし,山本内閣は海軍高官の汚職事件であるシーメンス事件により,反発する民衆が暴動をおこすなか,1914年総辞職に追い込まれた。

軍部大臣現役武官制の推移
 制定:第2次山県有朋内閣(1900年)
  →陸軍が第2次西園寺公望内閣を倒閣(1912年)
 改正:第1次山本権兵衛内閣(1913年)←第1次護憲運動
 復活:広田弘毅内閣(1936年)←二・二六事件
  →陸軍が宇垣一成の組閣を阻止(1937年)
  →陸軍が米内光政内閣を倒閣(1941年)

(5)政友会の勢力後退 都市民衆の騒擾がおこるなかで内閣が倒れるという異常事態が2度続いたことをうけて,山県有朋ら元老は国民に人気のある大隈重信を担ぎだすことにより,政情の安定化をはかった。
 第2次大隈内閣は立憲同志会(総裁加藤高明)などを与党として成立し,1915年の総選挙では同志会が政友会にかわって第1党となった。それまでの政友会と藩閥官僚による政治支配にかわって,官僚勢力を含めて組織された二大政党が対抗しあいながら政権を担当する二大政党制が成立する可能性が示されたのだ。そして,与党が議会の多数派を占める状況のもとで,大隈内閣は陸軍の二個師団増設を実現させた。

3 デモクラシー思想の高まり

 立憲政治の徹底をもとめる動きを支え,促進したのが,憲法学説では東京帝大教授美濃部達吉の天皇機関説であり,政治理論では東京帝大教授吉野作造の民本主義だ。

デモクラシー思想
(1)美濃部達吉の天皇機関説:憲法学
 国家を法人とみなす(国家法人説)
  ●統治権の主体:国家
  ●天皇:国家が統治権を行使する際の最高機関
(2)吉野作造の民本主義:政治学
 主権を運用する実際的な方法を議論 ←主権の所在を問わない
  ●民衆の幸福・利益を政治の目的
  ●民衆の意向にもとづく政策の決定
 具体的な目標
  ●普通選挙・政党内閣制の実現

 美濃部達吉は,国家(天皇と国民)を法人(共同の目的をもった一つの共同体)とみなしたうえで,統治権は天皇ひとりの利益のためにあるものではなく国家の共同目的のためにあるのだ(国家が統治権の主体)と解釈していた。つまり,天皇の権力に限界があることを主張したところに,彼の憲法解釈の特色があった。さらに美濃部は,天皇の輔弼機関である内閣に行政のイニシアティブを認め,内閣がイニシアティブを発揮するためにも,党首の強力なリーダーシップと党員らの同志的結束のもとでの内閣の連帯責任を強調し,政党内閣制を支持した。これに対して,東京帝大教授上杉慎吉が天皇主権説の立場から批判したが,これ以降,天皇機関説が広がり,議会政治を実現する憲法解釈上の根拠が整った。
 吉野作造は,1916年雑誌「中央公論」に論文「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」を発表した。少数のエリートに政治を任せる代議制のもとで, 国政に一般民衆の意志を反映させようと,民本主義を提唱したのだ。吉野が democracy の訳語として民主主義を用いずに民本主義という語を用いたのは,彼が国民主権を主張せず,大日本帝国憲法の枠内での政治の民主化をめざしたからだった。


外交史 植民地支配秩序の再編成をめぐる列国間の利害対立が,ヨーロッパを主要な戦場とする第1次世界大戦につながった。

4 第1次世界大戦での日本の勢力拡大

 イギリス・フランス・ロシアの三国協商とドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟の対立を背景として,1914年サラエボ事件をきっかけに第1次世界大戦が始まった。
(1)参戦 第2次大隈内閣(外相加藤高明)は,1914年日英同盟を口実としてドイツに宣戦布告し,第1次世界大戦に参戦した。そして,東アジアにおけるドイツの拠点・中国山東省の青島とドイツ領南洋諸島を占領した。日本は日英同盟・日露協約を軸に東アジア・太平洋地域での勢力拡大をめざしたのだ。
(2)第2次大隈内閣の対中国政策 翌15年大隈内閣は中国袁世凱政権に対して二十一か条の要求をつきつける。ヨーロッパ諸国が中国情勢をかえりみる余裕がないのを利用して,権益を拡大・強化するとともに,中国に対する指導権を確保しようとねらったのだ。

二十一か条の要求
第2次大隈重信内閣(外相加藤高明)→袁世凱政権
内容…(第1号)山東省のドイツ権益の継承
   (第2号)南満州・東部内蒙古の権益の確保・強化
   (第3号)漢冶萍公司(中国最大の製鉄会社)の日中共同経営
   (第4号)中国沿岸の港湾・島嶼を他国に譲与・貸与しない
   (第5号)中国政府への日本人顧問の採用など。
結果…中国民衆の反発(国恥記念日)・アメリカとの対立激化

 このうち第5号は最終的に取り下げたが,大隈内閣は最後通諜をつきつけて要求のほとんどを認めさせた。この日本の強硬な行動は中国の反発をひきおこし,中国民衆は,要求を受諾させられた日を国恥記念日と名づけ,反日運動の出発点とした。
(3)寺内内閣の対中国政策 大隈内閣が元老山県らと対立して総辞職すると,1916年長州出身の陸軍軍人寺内正毅を首相とする内閣が成立した。野党にまわった同志会は,大隈内閣の他の与党とともに憲政会を結成して対抗したが(初代総裁加藤高明),1917年総選挙で第2党に転落した。
 寺内内閣は,イギリスにドイツ権益の継承を確認させると共に,二十一か条要求に批判的なアメリカとの関係改善をはかるため,1917年石井・ランシング協定を結び,中国の門戸開放・機会均等とともに南満州・東部内蒙古に日本が特殊な地位(特殊権益)をもつことを日米間で認めあった。さらに,西原亀三を中国に派遣し,袁世凱の後継者段祺瑞政権に対して巨額の資金を供与した(西原借款)。資金供与を通じて中国政府に対する影響力を確保しようとしたのだ。

5 ロシア革命

(1)社会主義政権の成立 1917年ロシアでは兵士や労働者たちが中心となって革命がおこって皇帝が退位に追い込まれ(二月革命),次いでレーニン率いるボルシェビキ(のちロシア共産党)のクーデターにより社会主義政権が成立した(十月革命)。そして,戦争へ動員され生活に苦しむ民衆の要求を背景に,ロシアはドイツと単独講和を結んで第1次世界大戦から離脱した。
(2)シベリア出兵 これに対してアメリカ・イギリス・フランス・日本の4か国は,1918年シベリアに軍隊を派遣した(シベリア出兵)。捕虜としてシベリア鉄道を護送されている途中に反乱をおこしたチェコスロバキア兵を救出することを名目として掲げていたが,帝政支持派を支援することでロシア革命の遂行を妨害し,社会主義政権の打倒をめざした。
 ところが,日本国内ではシベリア出兵宣言にともなって米騒動が発生し,それが原因で寺内内閣が総辞職に追い込まれた。その結果,立憲政友会総裁原敬を首相とする政党内閣が成立したが,原内閣は,大戦終結にともなって英米仏が撤兵してのちも,東部シベリアへの派兵を継続した。そのため,列国から領土的野心を警戒された。

6 朝鮮植民地支配の進展

(1)朝鮮支配のあり方 日本は,軍事警察をうけもつ憲兵隊に一般の警察も担当させて治安体制を整え(憲兵警察制度),政治結社・集会を禁止するなど,朝鮮人の権利・自由に制限を加えた。そして,植民地経営の財源を確保するために土地調査事業に着手した。そのなかで,所有権の不明確な農民の土地や村の共有地を官有地として接収し,東洋拓殖会社や日本人などに払い下げていった。そのため朝鮮では小農民の没落が進み,仕事を求めて日本列島や満州へと移住する人びとが増加した。
(2)三・一独立運動 軍事力を背景とした植民地支配に対する不満が積りつもるなか,1919年3月1日ソウルで朝鮮独立宣言が発表され,それに続いて独立運動が朝鮮全土に拡大した(三・一独立運動)。これに対して原敬内閣は,憲兵警察・軍隊を動員して徹底して弾圧した。


経済史 第1次世界大戦前は輸入超過が続き,慢性的な不況が続いたが,第1次世界大戦は日本経済に大きな発展をもたらした。

7 大戦景気

 輸出が拡大して輸出超過へ転換し,工業生産が飛躍的に拡大した。大戦景気だ。

大戦景気の原因
(1)ヨーロッパ諸国からの軍需品の注文
(2)アジア市場からのヨーロッパ諸国の後退
(3)日本と同じように戦争に直接関係なかったアメリカでの戦争景気

 具体的には,綿織物の中国への輸出・生糸のアメリカへの輸出が増大し,世界的な船舶不足のため,造船業・海運業が著しく発展した。また,ドイツからの輸入がとだえたため,染料・薬品・肥料などの化学工業が自立しはじめた。これらの工業の発展を支えたのが電力の普及だった。1915年猪苗代水力発電所(福島県)と東京との間に長距離送電が実現し,工業動力の蒸気力から電力への転換を促した。こうして工業生産が飛躍的に拡大し,ようやく工業生産高が農業生産高を上回った。
 資本輸出も拡大する。紡績会社は中国へ進出して上海・青島などに紡績工場を建設し(在華紡),満鉄は1918年鞍山製鉄所を設立した。
 こうした好景気にのって急成長する企業が続出し,成金とよばれた。なかでも,神戸の小貿易商から三井・三菱に肩をならべる大財閥に成長した鈴木商店や,海運・造船業界の船成金がその典型だった。

8 社会運動の高まり

(1)労働運動 京浜・阪神工業地帯の形成が進んで工場労働者数が著しく増加し,なかでも重化学工業の発展を背景として男子労働者の比重が増大した。好景気が続いたため労働者の賃金は上昇したが,物価がそれ以上に高騰して実質賃金が低下して労働者の生活は楽にならなかったため,賃金の引上げなどを求めて労働争議が増加した。そうしたなか,1912年に鈴木文治らにより設立された友愛会は,当初は労働者の修養・共済団体として出発したが,労働組合の全国組織へと発展していった。
(2)米騒動 都市人口が増加して米の需要が拡大したにもかかわらず,寄生地主制のもとで農業生産が停滞して米の供給が不足していたため,米価は騰貴していた。そこへ追いうちをかけたのが,シベリア出兵宣言にともなう,地主や投機的な商人による米の買い占め・売り惜しみだ。1918年7月富山県の漁村の主婦たちが騒動をおこしたことがきっかけとなり,新聞で“越中女房一揆”として報道されると,米の安売りを要求する民衆の暴動が1道3府38県にまで拡大した。米騒動だ。
 寺内正毅内閣は,警察・軍隊を出動させて鎮圧するとともに,新聞に対して自由な報道を禁じたが,内閣批判の声が高まり,総辞職に追い込まれた。


文化史 国家を至上とする立場にかわって,自我の充足をめざす個人主義的傾向が強まり,教養主義・人格主義が知識人のあいだに広まった。

9 大正前期の文化

(1)文学 赤裸々な自己告白という自然主義に対し,個人主義のもと,教養ある人格へと自己完成をめざす文学潮流がさまざま登場する。

大正前期の文学潮流
白樺派……武者小路実篤・志賀直哉・有島武郎ら→おおらかな人間賛歌
新思潮派…芥川竜之介・菊池寛・久米正雄ら  →理知的な現実描写
耽美派……永井荷風・谷崎潤一郎ら      →美的生活の追求

 他方で,社会主義や白樺派の人道主義の影響のなかから,芸術作品と民衆の生活との融合をめざす動きも現れる。社会主義者大杉栄が中心となって発行した雑誌「近代思想」,陶芸の分野で柳宗悦により推進された民芸(民衆芸術)運動など,新たな共同体の形成をめざす動向だ。
(2)絵画 文展(文部省美術展覧会)が,1919年帝国美術院美術展覧会(帝展)に改組され,政府公認のアカデミズムを形成したのに対し,さまざまな在野の絵画団体が組織された。
 洋画では,雑誌「白樺」が紹介した後期印象派の影響をうけた岸田劉生らが1912年フュウザン会を組織し(すぐに解散),文展洋画部を旧派・新派の二科制にするよう要求して拒否されたことがきっかけとなって,1914年二科会が結成され,梅原竜三郎(『紫禁城』)・安井曽太郎らが参加した。また,1914年日本画家横山大観(『生々流転』)・下村観山らが日本美術院を再興し,独自の美術展覧会(院展)を再発足させた。院展では文展への対抗から日本画部だけでなく洋画部も設置していたが,1922年院展洋画部に集まる洋画家が新たに春陽会を設立して独立し,岸田劉生(『麗子像』)らが参加した。
(3)演劇 新劇運動がさかんになった。
 女優松井須磨子との恋愛問題で文芸協会を退会した島村抱月は,文芸協会の解散にともない,1913年松井須磨子・沢田正二郎らとともに芸術座を結成した。松井須磨子はトルストイ『復活』のカチューシャ役で人気をあつめ,主題歌「カチューシャの唄」が全国に流行した。それに対し,沢田正二郎はのち芸術座を脱退して,1917年新国劇を旗揚げし,剣劇などで人気を博した。
 また,東京音楽学校出身のオペラ歌手三浦環は,ヨーロッパで「蝶々夫人」を演じて好評を博した。
(3)学問の発達 人文科学では,津田左右吉が古事記・日本書紀の神話に対する批判的な研究(『神代史の研究』)をおこない,柳田国男は民間伝承などの調査・研究(『遠野物語』)をおこなって民俗学を作り上げ,西田幾多郎が仏教とヨーロッパ哲学とを統一する独自の哲学(『善の研究』)をつくりあげた。
 自然科学では,本多光太郎がKS磁石鋼を発明し,東北帝大に鉄鋼研究所を創立した。そして,東京帝大工科大学には航空研究所が設立され,民間でも物理・化学の研究とその生産への応用を進めるために理化学研究所が創立された。


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