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15 満州事変 −1931〜1936年−


外交史 張学良らの権益回収をはかる民族運動が高まるなか,日本の満蒙権益は維持が困難となり,さらに1931年には中村大尉事件(日本人立ち入り禁止区域でスパイ活動中の陸軍の中村震太郎大尉が中国兵に殺害された)・万宝山事件(満州に入植した朝鮮人農民と中国人農民とが衝突)など,日中間の紛争が頻発した。
 第2次若槻礼次郎内閣(幣原喜重郎外相)による外交交渉では,こうした満蒙問題の解決が進まず,関東軍が暴走して満州事変をおこす。国民はその行動を熱狂的に支持し,内閣や元老西園寺公望・昭和天皇らも,イギリス・アメリカとの衝突に発展しないとわかると,徐々に追認していった。

1 満州事変

 1931年9月18日関東軍は奉天郊外の柳条湖で満鉄線路をみずから爆破し(柳条湖事件),これを中国軍のしわざとして奉天における張学良軍の本拠を攻撃し,満鉄沿線の主要都市を一斉に占領した。そして,第2次若槻内閣の不拡大方針を無視して軍事行動を拡大し,日本の権益がない北満州までも侵攻して満州全土を占領した。満州事変だ。
 関東軍がめざしたのは,将来におけるソ連やアメリカとの戦争にそなえて戦略拠点を確保し,同時に国内における国家改造運動の橋頭堡とすることだった。関東軍にとって満州占領は,南満州の既得権益を確保するための手段ではなく,日本の国防体制(軍事的・経済的)の樹立にむけた一つのプロセスだったのだ。

満州事変の経緯
若槻(2)内閣…柳条湖事件(南満州鉄道爆破事件)
        ↓
       満州全土を占領  ←→ 連盟がリットン調査団派遣
        ↓
犬養毅内閣……満州国を建国
         ↓
斎藤実内閣……日満議定書の調印 ←→ 連盟が撤退勧告案を可決
         ↓
       塘沽停戦協定で停戦

(1)国際連盟のリットン調査団 中国国民政府の蒋介石は,中国共産党を掃討することを優先させて日本へは不抵抗の姿勢をとったが,日本の行動は九か国条約・不戦条約違反だ!と国際連盟に提訴した。
 これをうけて国際連盟は,イギリスのリットンを団長,連盟に未加盟のアメリカの参加もえて,イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・ドイツの5か国によって構成する調査団(リットン調査団)を満州など関係地域に派遣した(ソ連は参加を要請されたものの辞退)。
(2)満州国の建国 満州事変のプランを作成した関東軍参謀石原莞爾らは当初,満州を日本へ併合する計画だったが,国際世論への配慮から独立国家づくりへと進む。そして,満州住民の自発的な意思にもとづく新国家建設という形式をととのえるため,清国最後の皇帝溥儀(宣統帝)を国家元首の執政にすえ,1932年3月満州国を建国した(首都は新京[長春から改称]・溥儀は1934年に皇帝に即位)。満州国は「五族協和・王道楽土」の理想を掲げたが,行政の実権は日本人官吏が握り(日本から岸信介ら官僚が派遣された),その任免権を関東軍司令官がもつなど,関東軍の傀儡国家にすぎなかった。
 満州国建国の際,列国の関心を満州からそらすための謀略として,1932年1月日本軍は上海で,買収した中国人に日本人僧侶を襲わせ,この事件を口実に出兵した(第1次上海事変)。中国軍と民衆の抵抗で日本軍は苦戦,イギリスの仲介で停戦し撤兵したが,満州事変勃発により高まっていた日本商品ボイコット運動をさらに拡大させた。
(3)日満議定書 犬養毅内閣が五・一五事件で総辞職したあと,1932年9月斎藤実内閣(内田康哉外相)が日満議定書を締結して満州国を承認し,満州を関東軍の完全な支配下においた。同月に完成したリットン調査団報告書の公表前に満州国を既成事実化しようとしたのだ。

日満議定書
満州国の承認

日本の満蒙権益を確保
日満共同防衛のために日本軍が満州国内に駐屯

(4)国際連盟脱退 リットン調査団報告書は,関東軍の行動を自衛のための行動とは認めず,満州国も満州住民による自発的なものとは認めなかった。とはいえ,日本の既得権益の擁護を確認し,中国の国権回復運動や日本商品ボイコットを不法とする日本の主張も認めた上で,満州を日本を含めた列国の国際管理下に置くことを提案しており,日本に妥協的な内容だった。しかし,1933年2月国際連盟がその報告書にもとづいて日本軍の満鉄付属地内への撤兵などを求める勧告案を臨時総会(日本全権松岡洋右ら)で42:1(反対1は日本)で可決すると,日本は3月国際連盟から脱退した(斎藤内閣)。
 こののち日本は,イギリス・アメリカ・ソ連など大国との個別的な関係修復により,満州国を取り込んだままで現状維持を実現させ,さらに防共・反共産主義を掲げて新たな国際関係をつくりあげていった。
(4)満州事変の終結 1933年2月日本は内蒙古の熱河省に侵攻したうえで,5月中国国民政府とのあいだに塘沽停戦協定を結び,満州事変を終わらせた。蒋介石は中国共産党の掃討を優先させて日本との対決を避け,満州国を黙認したのだ。


政治史 昭和恐慌のもとでどん底の生活状態にあえぐ国民のなかには,汚職事件を続発させる政党や私利を追求してドル買いに走る財閥など独占資本に対する不満が高まっていた。そうした不満感が,満州事変における陸軍の行動に対する過剰な期待を生み出していた。

2 大正デモクラシーの終焉

(1)政党内閣の終焉 満蒙権益をめぐる日中間の紛争やロンドン海軍軍縮問題をきっかけとして,陸海軍の軍人や右翼による国家改造運動(ファシズム運動)が高まっていた。政党内閣を打倒,親英米派の元老西園寺公望や牧野伸顕ら昭和天皇の側近グループを排除し,軍中心の内閣を樹立して内外政策の転換をはかろうとする動きだ。満州事変のねらいの一つも,軍事行動を先行させることで国家改造を促進することにあった。

テロ・クーデター未遂事件の続発
@桜会(陸軍軍人橋本欣五郎ら)と大川周明
  クーデター未遂:1931年三月事件→十月事件
A血盟団(日蓮宗僧侶井上日召ら)
  1932年井上準之助(前蔵相)・団琢磨(三井)を暗殺
B海軍青年将校と愛郷塾(橘孝三郎ら)など
  五・一五事件:1932年首相官邸で犬養毅首相を暗殺

 民政党の第2次若槻内閣は満州事変の勃発と十月事件により動揺,閣内で意見が対立して総辞職においこまれ,政友会の犬養内閣は五・一五事件で総辞職した。
 このように急進派の軍人らの直接行動により政党内閣が動揺をくりかえすなか,元老西園寺公望は,政党では陸海軍の急進を抑えこむことができないと判断,穏健派の海軍軍人斎藤実を首相に推挙し,政党・官僚により「挙国一致」内閣を組織させた。こうして,政党内閣制の慣行はわずか8年で崩壊した(憲政の常道の終焉)。
(2)社会主義勢力の転向 昭和恐慌のもとで労働運動・農民運動が激化し,共産党の活動も活発になっていた。しかし厳しい弾圧をうけ,さらに1933年獄中の共産党幹部佐野学・鍋山貞親がコミンテルンの指導による国際的な共産主義運動を否認し,天皇のもとでの一国社会主義を主張(転向)すると,共産主義運動から離脱(転向)する人びとが続出し,1935年共産党の組織的活動は停止した。
 無産政党のなかでは満州事変を支持する動きが強く,国家社会主義が台頭する。1932年赤松克麿らが社会民衆党を脱退して日本国家社会党を結成し,同年社会民衆党を中心として結成された社会大衆党でも陸海軍に迎合する動きが強まっていった。
 また,自由主義的な言論の取締りも強まり,1933年自由主義的刑法学説を論じていた京都帝大教授滝川幸辰が斎藤内閣(鳩山一郎文相)により免職になるという事件がおこった(滝川事件)。
(3)天皇機関説の否認 斎藤内閣が帝人事件で総辞職したあと,ひきつづいて穏健派の海軍軍人岡田啓介が組閣した。ところが,1935年貴族院で菊池武夫が天皇機関説を反国体的と非難したことがきっかけとなって,在郷軍人会や右翼を中心として国体明徴運動がおこり,内閣を激しく攻撃した。それに屈服した岡田内閣は,美濃部達吉の『憲法撮要』『逐条憲法精義』などを発禁処分とし,国体明徴声明を発して天皇が統治権の主体であることを確認し,天皇機関説を否認した。
 こうして天皇の権限を無制限なものとする憲法解釈が公認されたことで,議会政治の根拠が葬り去られ,統帥権の独立をバネに陸海軍の政治力が拡大するとともに,国民意識の面では,天皇の神格化が進み,自由主義・個人主義をも危険な思想として排斥する傾向が強まった。

国体明徴声明
岡田啓介内閣(1935年)
天皇機関説を否認→天皇が統治権の主体であることを確認

3 陸軍勢力の台頭

(1)陸軍の政治進出 満州事変がおこり,テロやクーデター未遂事件が続発するなか,陸軍のエリート官僚(永田鉄山・東条英機・武藤章ら)が,それらを利用して政治における発言力を強化していった。
 国家改造をめざす彼らの構想を示すのが,1934年に陸軍省が発行した『国防の本義と其強化の提唱』(陸軍パンフレット)。国防に最高の価値を与え,国防を目的として国家−政治・経済・思想などすべて−を一元的・合理的に運営しうる強力なシステムを作りあげることが構想されていた。つまり,将来におけるソ連やアメリカとの戦争にそなえた総力戦体制(高度国防国家)を築きあげることが,彼らの目標だった。彼ら陸軍エリート官僚は統制派とよばれ,同じ構想をもつ行政官僚(革新官僚と称された)と連携,統帥権の独立を利用し,その拡大解釈を通して総力戦体制づくりをすすめた(上からのファッショ化)。
 なお,陸海軍の統帥権が内閣から独立しているとはいえ,伊藤博文・山県有朋らの元老が健在な頃は,陸海軍は彼らのコントロールのもとにあった。ところが,昭和初期にはそうした政治力をもつ元老がすでに死去しており,陸海軍をコントロールできる政治勢力が(天皇を除いて)存在しなかった。そのため,陸海軍が統帥権の独立を根拠として国家戦略の決定に大きな発言力をもつに至ったのだ(軍部の確立)。
 とはいえ,陸海軍が政治を独裁できたわけではない。天皇が国家運営の最終決定者である以上,天皇やその側近の政治力を排除することはできないし,実際,昭和天皇は国務と統帥の統合者としての自覚をもって情報を集め,判断を下していた。また,首相の選出は元老西園寺や内大臣・首相経験者(重臣)が担っており,これら宮中勢力と陸海軍との対立・妥協のなかで,政治が展開していく。
(2)統制派と皇道派の抗争 陸軍内部は一つにまとまっていたわけではなかった。連隊付きの青年将校のなかには,北一輝の思想的影響をうけ,下からの急進的なファシズム運動をすすめようとする動きがあった。彼らは荒木貞夫・真崎甚三郎らの将官と結んで皇道派とよばれ,陸軍内部の秩序・統制を重視する統制派と対立した。次第に追いつめられた皇道派の青年将校がひきおこしたのが,1935年の相沢三郎による永田鉄山斬殺事件であり,1936年の二・二六事件だ。


経済史 昭和恐慌が深刻化するなか,積極財政への転換を求める声が高まり,さらに世界恐慌により経済破綻に瀕したイギリスが1931年9月金本位制から離脱するや,日本の金輸出再禁止をみこしたドル買いがさかんにおこなわれて正貨が激しく流出し,金本位制維持は困難となっていった。また,同月の満州事変勃発は軍事費の増大を不可避なものとし,井上準之助蔵相の緊縮財政は破綻に追い込まれていった。

4 高橋財政

(1)金輸出再禁止 1931年12月立憲政友会の犬養毅内閣(高橋是清蔵相)は,組閣後ただちに金輸出を再禁止し,さらに金兌換を停止した。こうして日本は,正貨(金)保有高に通貨発行額が制限される金本位制から離脱し,正貨(金)保有高には関係なく政府の人為的な政策によって通貨発行額を調整する管理通貨制度に移行したのだ。
 そして高橋蔵相は,赤字公債を発行して日本銀行に引き受けさせ,それを財源とする積極財政を展開した。軍事費を増大して満州事変の戦費を確保するとともに,それによって軍需関連の民間需要を拡大させて景気を刺激したのだ。さらに円為替相場の下落を容認し,円を低い水準(1ドル≒3円強)で安定させる低為替政策をとって輸出に有利な条件を確保,他方では輸入関税を引き上げる保護政策も実施した。

高橋財政(犬養・斎藤・岡田内閣)
(a)目的 昭和恐慌からの脱出・満州事変の戦費の確保
(b)内容 金輸出再禁止→管理通貨制度へ移行
      積極財政:軍事費の増加 →重化学工業の発達
      低為替政策       →綿織物を中心に輸出拡大

(2)恐慌からの脱出 昭和恐慌のもとで産業合理化をすすめていた諸産業は,円為替相場の下落によってさらに国際競争力を高め,輸出を拡大した。なかでも綿織物は,1933年イギリスを抜いて輸出世界第1位となった。こうして積極財政による国内需要の拡大と輸出増進とによって景気が回復し,1933年には世界にさきがけて恐慌から脱出したのだ。
 とはいえ,農村の復興は遅れた。そこで,斎藤実内閣のもと,農村に雇用機会をつくりだすために時局匡救費が設けられて土木事業がおこなわれる一方,農山漁村経済更生運動により産業組合が奨励され,農村経済の自力更生が図られた。また,満蒙開拓計画にもとづく満州への移民政策も始まる。これは農村の過剰人口への対応策でもあったが,日本人人口を増やして治安維持をはかるための政策であり,入植地の多くは先住の中国・朝鮮人農民から安く収用された耕地だった。
(3)産業構造の転換 軍事費の増加にともない,重化学工業が発達して繊維など軽工業の生産額を上回り,日本経済は重化学工業中心の産業構造へと転換した。新興財閥が陸軍と結んで満州や朝鮮へ進出して満州・朝鮮の重化学工業化が進み,三井・三菱などの既成財閥も重化学工業部門を強化していった。

重化学工業の発達
新興財閥 日本産業(日産・鮎川義介) →満州へ進出
     日本窒素肥料(日窒・野口遵)→朝鮮へ進出
日本製鉄…官営八幡製鉄所を中心に官民大合同(1934年)

 なお,重化学工業の発達にともなってアメリカからの屑鉄・石油・などの輸入が増え,アメリカへの経済的な依存度がさらに高まった。
(4)イギリスとの貿易摩擦 低賃金と低為替を利用してインド・東南アジアなどイギリスの植民地圏へ輸出を拡大したことは,イギリスとの貿易摩擦を招いた。イギリスは,日本が賃金カットなどで商品価格を不当に引き下げている(ソーシャル・ダンピング)と非難し,関税率の引き上げなどの対抗措置をとったのだ(ブロック経済圏の形成)。
 すでに1920年代後半から中国で日本商品ボイコット運動が激しくなって日本は中国市場から大きく後退していたが,それに加えてイギリス経済圏の障壁につきあたって市場拡大がむずかしくなったのだ。
 こうして国際協調体制の基礎としての自由貿易システムが次第に機能しなくなっていった。日本はアフリカや中南米へとさらに市場を拡大させていったが,1936年には,輸出がついに頭打ちになっていく。そのため日本は,日本と満州国による日満経済ブロック(円ブロック)が形成していくとともに,華北への経済進出を確保するため,軍事力を背景とする華北分離工作を本格化させていった。


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