目次

16 日中全面戦争の開始 −1936〜39年−


政治史 二・二六事件をきっかけとして陸海軍の発言力が飛躍的に高まり,総力戦体制(高度国防国家)づくりが始まる。

1 二・二六事件

 1936年2月26日陸軍皇道派の青年将校が多数の兵を動員して首相官邸や警視庁などを襲撃し,斎藤実内大臣・高橋是清蔵相らを暗殺,鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせた(二・二六事件)。陸軍内部での統制派との抗争のなかで次第に追いつめられていった彼らが,皇道派政権の樹立・北一輝『日本改造法案大綱』の具体化をめざして武装蜂起したのだ。
 しかし,組閣交渉をゆだねた真崎甚三郎らとの連係がうまくいかず,さらに昭和天皇が即刻鎮圧の姿勢を明確にしたため,クーデターは失敗に終わった。首謀者の青年将校と彼らに思想的な影響を与えた北一輝らが銃殺に処せられ,真崎甚三郎ら皇道派の将官が陸軍から一掃された。

2 総力戦体制づくりの開始

(1)広田弘毅内閣 二・二六事件の鎮圧後,岡田内閣が総辞職し,広田弘毅内閣が成立した。それに対して陸軍は,事件の威圧効果を利用して発言力を強め,軍部大臣現役武官制を復活させた。陸海軍の同意がなければ内閣が成立・維持できない状況が再びおとずれたのだ。
 広田内閣は,1936年8月「国策の基準」を策定し,ソ連の脅威排除・南方への漸進的な進出・日満中3国提携の実現などの方針を掲げた。ソ連への対抗に重点をおきつつも,南方進出(南進)をはじめて国策として提示したのだ。そして,ソ連軍に対抗できる陸軍軍備とアメリカ海軍に対抗して西太平洋の制海権を確保できる海軍軍備をめざして大規模な軍拡予算を組み,総力戦体制(高度国防国家)づくりに着手した。
(2)政局の混迷 1937年1月広田内閣が政党との対立から総辞職すると,元老西園寺公望は陸軍軍人宇垣一成を首相に推挙して陸軍の勢力抑制を企てたが,陸軍が陸相を出さなかったために組閣に失敗した。そのあと,陸軍軍人林銑十郎が組閣し,軍部と財閥との協力体制をつくりあげたものの(軍財抱合),これも政党との対立から短命に終わった。急テンポな軍備拡張が国民のなかに反軍的な気運を引き起こしていたのだ。
 こうしたなか,軍部・政党・元老西園寺など,さまざまな政治勢力の錯綜する期待を担って,1937年6月貴族院議長近衛文麿が内閣を組織した。


外交史 政治・戦争にわたる統一した指導体制が存在しないまま,日本は目的と展望のない中国侵略戦争へとずるずると突入していく。もともとはソ連の脅威排除を掲げていたはずが,なし崩しで中国との全面戦争へと移行してしまい,さらにイギリス・アメリカとの対決へと焦点がズレていったのだ。

3 国際協調体制の崩壊

 広田内閣が成立した前後は,国際協調体制がくずれ,相互に軍事的な緊張をはらみながら新たな国際関係へと転換していった時期だった。

国際協調体制の崩壊
(1)ワシントン・ロンドン海軍軍縮条約の失効
 1936年末に両条約が失効→無制限な海軍拡張へ
(2)日独防共協定
 1936年広田弘毅内閣:ソ連・コミンテルンに対する共同防衛
 →1937年日独伊三国防共協定(第1次近衛文麿内閣)
(3)華北分離工作
 1935年梅津・何応欽協定→冀東防共自治政府の樹立
 →広田内閣:華北5省の分離を計画 ←→ 西安事件(1936.12)

 国際連盟を脱退した日本は,ソ連の脅威排除(防共)を掲げて新たな国際関係づくりへと進み,広田内閣が1936年日独防共協定を結び,ドイツとの提携関係に入った。ドイツはナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)が政権を掌握し,国際連盟から脱退してヴェルサイユ体制の打破をめざしており,ここに国際的なファシズム陣営(枢軸陣営)が成立した。
 さらに日本は,防共を掲げて華北へ進出していた(華北分離工作)。満州で抗日運動を展開する共産党ゲリラの根拠地を殲滅し,あわせて鉄・綿花などの資源に富む華北を日本の経済ブロックにとり込むことをねらったのだ。その足がかりとなったのが,塘沽停戦協定で非武装地帯に設定された河北省東部だ。国民政府による中国統一を嫌った支那駐屯軍は,排日運動を理由に1935年梅津・何応欽協定を結ばせて河北省から中国軍を撤退させ,河北省東部の非武装地帯に冀東防共自治政府をデッチあげた。そして日本からの大規模な密貿易を公認させ(アヘンの密売もおこなわれた),中国の関税収入を激減させた。さらに広田内閣は,華北5省を中国国民政府から切り離して日本の支配下に置く計画を進め,支那駐屯軍の兵力を増強した。
 こうした日本の策動は,中国の主権を侵害し,中国における統一国家づくりを妨害するものでしかなく,中国の抗日気運を高めた。そうしたなかで,1936年12月西安事件がおこった。中国共産党の掃討を督励にきた蒋介石を張学良が軟禁し,国共内戦の停止・一致抗日を強要したのだ。

4 日中全面戦争の開始

(1)発端 1937年7月7日北平(北京)郊外の盧溝橋で夜間演習をしていた支那駐屯軍の一部隊が中国軍から銃撃をうけ,それをきっかけとして日中両軍が交戦した(盧溝橋事件)。11日には現地で停戦協定が成立したが,同じ日に第1次近衛内閣は華北への派兵を決定し,北支事変と称した。陸軍中央のなかには事態の拡大に反対する動きもあったが,これを機会に中国に一撃を加えておけば抗日運動をおさえこむことができるだろうと安易に判断する強硬派の意見が通ったのだ。
(2)全面戦争への展開 8月第2次上海事変がおこって戦争が華中へ拡大すると,近衛内閣は全面戦争への突入姿勢を明確にし,9月北支事変を支那事変と改称。それに対して,中国では国民政府・共産党が第2次国共合作を結んで抗日民族統一戦線を成立させ,徹底抗戦した。

日本の中国侵略
≪満州事変≫       ≪日中全面戦争≫
 柳条湖事件(1931.9.18)  盧溝橋事件(1937.7.7)
 ↓←第1次上海事変    ↓←第2次上海事変
 満州国建国        全面戦争へ発展 ←→ 第2次国共合作

 こうして相互に宣戦布告がないまま,日中全面戦争が始まった。日本が宣戦布告をしなかったのは,宣戦布告をすればアメリカが中立を宣言し,アメリカからの軍需物資の輸入がストップすることを,とくに陸海軍が恐れたからだ。
 このように「戦争」であることを公式には認めなかったとはいえ,陸海軍の共同作戦の必要性から大本営が宮中に設置された。戦争を遂行するための作戦司令部だ。ただし,日清・日露戦争時には首相・外相などの文官が大本営に出席していたが,今回は統帥権の独立をタテにした陸海軍の反対で首相ら文官は列席できなかった。
(2)南京占領 ドイツが日中間の和平交渉を仲介していたが(トラウトマン和平工作),近衛内閣は1937年12月首都南京を占領するや,昭和天皇の支持のもと,陸軍参謀本部の反対をおしきって和平交渉を打ち切った。翌38年1月「国民政府を対手とせず」と声明し(第1次近衛声明),南京から重慶へと首都を移して抗戦を続ける蒋介石の国民政府を否定して,親日派による新しい中国政府の育成へとむかったのだ。
 なお,南京占領に際し,日本軍は投降兵や捕虜の中国軍兵士を殺害(国際法に違反),非戦闘員を含めて多数の中国人を虐殺して,国際的な非難をあびた(南京虐殺事件)。また,日本軍人による中国女性への強姦も多発したため,日本軍の指示により管理売春施設(慰安所)が開設された。動員された従軍慰安婦のなかには,だまして連れてこられた朝鮮人女性や日本軍の占領地で徴発された中国人女性が含まれていた。さらに,日中戦争のなかで日本軍は,国際法で禁止されている毒ガス(化学兵器)を使用しており,731部隊(関東軍防疫給水部の通称)などで細菌兵器の研究・製造をおこなっていた。
(3)戦争の長期化 日本軍は,1938年秋までに中国の主要都市と交通路を占領したものの,軍事動員が限界に達して持久戦の様相を呈した。
 短期決戦の思惑が外れた近衛内閣は対中政策を転換し,11月日本の戦争目的は日満支(中)3国提携により東アジアに新秩序を建設することだと声明し(東亜新秩序声明=第2次近衛声明),国民政府との和平交渉の可能性を示唆した。
 その結果,中国国民党の実力者汪兆銘を重慶からハノイに脱出させることには成功したものの,汪への同調者は少なく,戦争を終結させることはできなかった。

近衛声明
@国民政府を対手とせず声明(1938.1)…国民政府と絶縁
↓←戦争の長期化・持久戦化
A東亜新秩序声明(1938.11)…日満支(中)3国提携を主唱
↓←汪兆銘が親日政権樹立のために重慶から脱出
B近衛三原則声明(1938.12)…善隣友好・共同防共・経済提携を提唱

(4)日米関係の悪化 イギリス・アメリカは当初,日本との関係悪化を嫌って日中戦争に介入する姿勢をみせなかったが,日本が東亜新秩序建設を声明した際に東アジアからの欧米勢力の駆逐を掲げたことは,ワシントン体制を完全に否定するものとしてイギリス・アメリカを刺激した。とりわけ,1939年日本が抗日運動の拠点とみなして天津の英仏共同管理の租界を封鎖すると,アメリカが日米通商航海条約の廃棄を通告した。イギリスが日本との妥協に傾きがちなことを危惧したアメリカが,日本に対する直接的な行動にでたのだ。通商条約が失効すれば,石油・鉄などの軍需物資の大半をアメリカに頼る日本にとって致命的な打撃となることは確実だった。

5 ソ連との軍事衝突

 満州事変以降の日本外交の一つの軸は,極東におけるソ連の脅威を排除することだった。そのため,ソ連との局地的な軍事衝突がしばしばおこっていた。なかでも,1939年満州国とモンゴル人民共和国との国境で展開されたノモンハン事件では,関東軍が陸軍中央の制止を無視して戦闘を強行し,ソ連軍・モンゴル軍により壊滅的な敗北を喫していた。

ソ連との軍事衝突
張鼓峰事件…1938年第1次近衛文麿内閣・満州とソ連の国境紛争
ノモンハン事件…1939年平沼騏一郎内閣・満州とモンゴルの国境紛争


政治史 国民は戦争遂行にとって重要な人的資源だ。だからこそ,政府は,国民から自発的な戦争協力を引きだそうと努めた。植民地の朝鮮や台湾でも,皇民化政策とよばれる徹底した同化政策が展開された。

6 国民の総力戦体制への動員

(1)国民精神総動員運動の開始 日中戦争の開始にともない,1937年第1次近衛内閣は国民を戦争に動員するため,国民精神総動員運動を展開した。挙国一致を強調して戦争批判を圧殺,尽忠報国を掲げて戦争での犠牲を正当化,堅忍持久の名のもとに生活規制がはかられ,節約や貯蓄奨励が叫ばれた。そして,運動の末端組織として町内会・部落会・隣組の整備が進められた。これと並行して,労働組合の解散とともに産業報国会が組織されて労資一体による戦争協力が推進された。
 戦争に非協力的だったり,戦争遂行の妨げになると判断された思想・学問への弾圧も厳しくなる。1937〜38年にかけて,鈴木茂三郎ら日本無産党,大内兵衛ら非共産党系(労農派)の社会主義経済学者などがコミンテルンの指令で反ファシズム人民戦線を結成しようとしたとの理由で逮捕され(人民戦線事件),植民地政策の研究者で日中戦争における戦争政策への批判を発表した東京帝大教授矢内原忠雄やファシズム批判を展開していた東京帝大教授河合栄治郎などが弾圧をうけた。

明治〜昭和戦前期の学問弾圧
明  久米邦武…論文「神道は祭天の古俗」→1892年
治  喜田貞吉…1911年小学校の日本史教科書で南北朝正閏問題

大  森戸辰男…無政府主義者クロポトキンの研究
正       →1920年(原敬内閣)

   滝川幸辰……自由主義的な刑法学説→1933年(斎藤実内閣)
昭  矢内原忠雄…植民地政策や戦争政策の批判→1937年
   河合栄治郎…ファシズム批判→1938年著書が発売禁止
和  津田左右吉…古事記・日本書紀の神話の研究
         →1940年著書が発売禁止(皇紀2600年式典の年)

(2)植民地での皇民化政策 朝鮮・台湾では朝鮮人・中国人を完全な「皇国臣民」に同化させ,日本人として戦争協力体制に組み込むため,皇民化政策が進められた。とりわけ朝鮮では,「私共ハ大日本帝国ノ臣民デアリマス」などからなる「皇国臣民の誓詞」が制定されて学校や職場で日常的に斉唱することが義務づけられ,神社参拝や学校での朝鮮語の使用禁止・日本語の常用が強制された。さらに1940年には創氏改名が実施され,朝鮮の伝統的な姓名・家族制度(家系重視・夫婦別姓)を日本式の姓名・家制度(家重視・夫婦同姓)に変更された。


経済史 総力戦体制が本格化するなか,戦争遂行を目的として経済・社会を統制的・効率的に運営するシステムの確立が必要となってくる。

7 戦時統制経済への移行

 1937年第1次近衛内閣は,統制経済を進めるために内閣直属の官庁として企画院を設置した(革新官僚や陸海軍官僚が参加)。そして企画院の立案により,1938年度から軍需産業への物資の優先配分を目的とする物資動員計画を作成し,さらに同年10月国家総動員法を制定した。
 この法律が成立したことによって,政府は議会の承認なしに人的・物的資源を統制運用する権限を獲得し,さまざまな勅令をつぎつぎと発令して労働力・物資・資金・施設・報道メディアなどあらゆるものを戦争へと動員していった。他方で,衣料・食糧など生活必需品が不足し,配給制・切符制がしかれて消費を制限され,国民生活は圧迫をうけた。

国家総動員法
1938年10月第1次近衛内閣が制定 ←企画院が立案
内容…戦時(事変の場合を含む)に際し,政府が勅令により人的・物的資源の統制運用をおこなうことができる

国民徴用令……1939年・一般国民を軍需産業に動員(平沼内閣)
価格等統制令…1939年・物価の据置きを命令(阿部信行内閣)


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