目次

17 アジア太平洋戦争への道 −1939〜1945年−


外交史 日本が日中戦争の展望を見失っていた頃,ヨーロッパでは国際情勢が大きく変動した。

1 南進論の高まり

(1)欧州戦争の開始 関東軍がノモンハン事件でソ連・モンゴル軍と戦闘をおこなっているころ,1939年8月ドイツとソ連が独ソ不可侵条約を結んだ。ドイツは日本・イタリアとソ連に対抗するために防共協定を結んでいたのだから,日本にとっては不可解。平沼騏一郎内閣は“欧州情勢は複雑怪奇”と声明して総辞職し,阿部信行内閣にかわった。
 ドイツは,イギリス・フランスとの開戦に向けた準備としてソ連との提携という戦術を一時的に採用しただけのことだった。同39年9月ドイツがポーランドに侵入,これに対してイギリス・フランスがドイツに宣戦布告し,欧州戦争が始まった(第2次世界大戦ともいう)。阿部 内閣と続く米内光政内閣は,欧州戦争へは介入せず日中戦争の解決に専念するとの態度をとった。
(2)南進論の高まり 1940年1月日米通商航海条約が失効すると,軍需物資の確保が次第に困難になっていった。また,同年3月汪兆銘を主席とする新しい中国国民政府が南京に樹立されたものの,兵站を確保できていない日本軍の物資略奪・残虐行為が後を絶たず,日本軍が占領地行政に失敗している状況では,日中戦争を終結させる有効な手段ともなりえなかった。そのうえ,イギリス・アメリカが重慶の中国国民政府に対して東南アジア経由で支援を強めていた(この軍需物資の支援ルートを援蒋ルートとよぶ)。
 このように日中戦争の解決への見通しがたたない状況のなか,援蒋ルートの遮断と石油などの資源の確保をめざして東南アジア進出を主唱する動き(南進論)が強まる。とりわけ,ヨーロッパでドイツ軍がオランダ・フランスを降伏させるや,陸軍がドイツとの提携強化・東南アジア進出を主張して米内内閣と対立した。


政治史 日中戦争の解決のためにも戦争・政治にわたる統一的な指導体制の実現が求められ,近衛文麿が枢密院議長を辞職して取り組んだ。

2 近衛新体制の成立

(1)新体制運動の開始 近衛文麿らは,一国一党体制にもとづく新しい国民組織をつくり,それを基礎として強力な内閣を組織,戦争・政治にわたる統一的な指導を実現させようとした。この近衛新党づくりが新体制運動だ。これには陸軍や革新官僚もそれぞれの思惑から積極的で,政党のなかでも既成政党の解消を主唱する動きが強まっていった。
そうしたなか,陸軍は軍部大臣現役武官制を利用して米内内閣を総辞職に追い込む。畑俊六陸相を辞職させ,後任を推薦しなかったのだ。1940年7月近衛文麿が内閣を組織し,対米強硬派の松岡洋右が外相,東条英機が陸相に就任した(第2次近衛文麿内閣)。
(2)大政翼賛会の成立 第2次近衛内閣が成立すると,すべての合法政党が 自主的に解散し,近衛による新党結成を待ち望んだ。そうして1940年10月近衛首相を総裁として大政翼賛会が結成された。これは政府の決定を伝達するための機関(上意下達機関)であり,のちには町内会・部落会・隣組が下部組織に編制された。この結果,近衛らが構想していた一国一党体制をささえる政治組織の結成は実現しなかったものの,帝国議会は行政の補助機関となってしまった。
 さらに,1940年10月産業報国会の中央組織として大日本産業報国会が創立されるなど,各分野の諸団体の統合も進んだ。
(3)小学校の国民学校への改称 1941年小学校が国民学校と改称され,「皇国臣民の練成」がめざされた。このとき,義務教育が8年に延長されたが,戦争の激化にともなって実施が延期され,実現しなかった。


外交史 ヨーロッパでのドイツの快進撃に惑わされ,日本は東南アジア進出(南進)を本格化する。それは大日本帝国の破局への道だった。

3 東南アジア進出の本格化

(1)北部仏印進駐 第2次近衛内閣は大東亜共栄圏の建設を掲げ,日中戦争の解決を求めて南進を本格化させた。フランス領インドシナの北部地域を軍事占領したのだ(北部仏印進駐)。

第2次近衛内閣の外交政策
北部仏印進駐…………1940年ハノイ周辺に軍隊を進駐
日独伊三国同盟………1940年日本全権松岡洋右外相
日華基本条約…………1940年汪兆銘の南京政府を承認
日ソ中立条約…………1941年松岡洋右外相とモロトフ外相
日米交渉の開始………1941年野村吉三郎駐米大使とハル国務長官
 北部仏印進駐にあたり,アメリカとの関係をさらに悪化させることを警戒した近衛内閣は,1940年9月日独伊三国同盟を結び,ドイツ・イタリアとの提携強化によってアメリカを牽制する一方,両国間の対立を調整するため,1941年4月から日米交渉を開始した。
 さらに,南進を進めるうえでの北方からの軍事的脅威を弱めるため,1941年4月日ソ中立条約を結んだ。松岡外相は,日独伊三国軍事同盟にソ連を加えた四国協商を実現させ,それによりアメリカを圧倒しようという構想をもっていたが,すでに独ソ関係は険悪となっていた。
(2)独ソ戦争の開始 1941年6月ドイツが突如ソ連に宣戦布告し,独ソ戦争が始まった。世界軍事情勢が大きく変動した。
 それに対して第2次近衛内閣と軍部は,7月昭和天皇臨席のもとで重要国策決定のための会議(御前会議)を開き,@情勢が有利になればソ連に侵攻する,A南進をすすめて対英米戦を辞せず,と決定した。そして,陸軍は関東軍特種演習(関特演)の名称のもとに満州に兵力を集結させたが,結局,対ソ武力行使は中止された。
(3)日米交渉の難航 日米交渉は三国同盟の解消や日本軍の中国からの撤退などの問題をめぐって難航し,対米強硬派の松岡外相が交渉の打ち切りを主張した。それに対し,交渉継続を主張する近衛首相は,いったん内閣総辞職をおこない,松岡外相をのぞいたうえで第3次内閣を成立させた。交渉を継続させるため,アメリカに好印象を与えようとしたのだ。
 ところが,第3次近衛内閣成立直後の7月末,すでに決定されていた南部仏印進駐が実行に移されると,アメリカは日本に対する経済制裁を強化した。日本への石油輸出を全面禁止し,在米日本資産を凍結したのだ。イギリス・オランダ領東インドが追随したため,ジャーナリズムはABCD包囲陣だ(America:アメリカ,Britain:イギリス,China:中国,Dutch:オランダ)と書き立てて国民の危機感をあおった。
 そして第3次近衛内閣と軍部は,9月御前会議で「帝国国策遂行要領」を決定,(1)日米交渉成立の期限を10月上旬とし,(2)10月下旬をめどにしてアメリカ・イギリス・オランダとの開戦準備を整えることとした。
第3次近衛内閣の外交政策
南部仏印進駐 ←→ アメリカ:対日石油禁輸・在米日本資産凍結
帝国国策遂行要領…10月下旬をめどに開戦準備

4 アジア太平洋戦争の開始

(1)日米交渉の決裂 10月上旬,ハル国務長官が日本軍の中国(満州を除く)・仏印からの撤退を要求し,日米交渉は完全に行きづまった。すでに「帝国国策遂行要領」の定めたタイムリミットが到来していた。第3次近衛内閣は,交渉の妥結を主張する近衛首相らと撤兵を拒否する東条陸相が対立し,総辞職した。後継首相には,木戸幸一内大臣の推挙により,対米最強硬派の東条英機陸相が就任した(東条英機内閣)。主戦論者によって開戦論を抑制するという賭けだった。
 しかし東条内閣と軍部は,11月御前会議で日米交渉が不成立の場合には12月初旬に武力を発動することを決定した(「帝国国策遂行要領」)。これに対して,アメリカは満州事変以前の状態への復帰を要求した(いわゆるハル・ノート)。日本にとっては事実上の最後通牒であり,アメリカは日本から開戦に導くことによって戦争の名分を得ることをねらっていたのだ。
 日本は,12月1日御前会議で開戦を決定,同月8日日本軍はハワイ真珠湾とマレー半島を奇襲攻撃した。アメリカ・イギリス・オランダに対して宣戦布告し,日中戦争を含めて大東亜戦争と称した(アジア太平洋戦争の開始)。ドイツ・イタリアも三国軍事同盟にもとづいてアメリカに宣戦布告,それに対して,1942年1月アメリカ・イギリス・ソ連・中国などが共同宣言を発して連合国(the United Nations)を結成し,全面的な世界戦争が始まった。
(2)緒戦の勝利 緒戦は日本側に有利に進んだ。イギリスの拠点香港・シンガポールを陥落させ,1942年春までにフィリピン・ビルマ(今のミャンマー)・ジャワなど,東南アジア・西太平洋地域を占領した。
 しかし同年夏から戦局が転換した。ミッドウェー海戦で日本海軍がアメリカ海軍に惨敗し,また,日本軍がソロモン諸島のガタルカナル島への上陸作戦を開始したが,まもなくアメリカ軍の反攻がはじまった。そして,1943年2月日本軍はついにガタルカナル島から撤退,以後,戦局の主導権を完全に連合国軍に奪われる。ちょうどドイツ軍がスターリングラードでソ連軍に敗北したのと同時期であり,1943年8月にはイタリアが降伏した。


外交史 「開戦の詔書」は,アジア太平洋戦争の目的を日本の“自存自衛”を実現させることだと述べていたが,アジアを欧米諸国の植民地から解放・独立させることは,戦争目的には掲げていなかった。

5 大東亜共栄圏の実態

 日本は東南アジア・西太平洋の広大な地域を占領するに際し,欧米による侵略からのアジアの解放・大東亜共栄圏の建設を主唱したが,占領地では征服者として君臨し,軍政を実施して石油・錫・鉄鉱石など重要資源の確保と現地軍の自活を優先させた。そのため,軍政担当者は軍票を乱発して物資を徴発したり,現地住民を軍用工事に労務者として強制労働させ たりした。なかでも,タイとビルマをむすぶ軍用鉄道(泰緬鉄道)の建設工事には,労務者だけでなく連合国軍の捕虜も動員された上に,劣悪な条件のなかで工事が強行されたため,多くの労務者・捕虜が死亡した。
 しかし戦局の悪化とともに,民心を把握する必要から占領政策を転換させる。1943年ビルマ・フィリピンを独立させ,さらにインドの独立をめざして自由インド仮政府を樹立させた。そして同年11月,それらの政府に加えて満州国,中国汪兆銘政府,そしてタイの代表者を東京に招いて大東亜会議を開催した。占領地域の結束を誇示しようとしたのだ。
 とはいえ,マレーやオランダ領東インド(いまのインドネシア)については重要資源の供給地として日本領に編入する方針をとっており,占領地域すべての国家的独立を認めたわけではなかった。また,独立を認めらたビルマ・フィリピンでも日本の軍事的支配という実態は変わらなかった。そのため,占領当初は日本軍に協力的だった各地の民衆も,期待が幻滅に代わり,しだいに抗日の傾向を強めていく。


政治史 思わぬ長期戦にはまりこんだ中国との戦争に疲れた国民は,アジア太平洋戦争における緒戦の勝利に熱狂したのだが……。

6 銃後の国民生活

(1)翼賛選挙 1942年4月東条内閣は総選挙の実施に際し,候補者の推薦制を導入した(翼賛選挙)。そして,当選議員のほとんどを含む唯一の政治団体として翼賛政治会を結成させ,一国一党体制を形式的に整えた。
(2)国民の戦争への総動員 戦争の拡大とともに,徴兵の強化・軍需生産の拡大により労働力が不足した。そのため,中等学校以上の学生・生徒を勤労動員,未婚の女子を女子挺身隊に編成して軍需工場などに動員し,朝鮮人や占領下の中国人を強制連行して鉱山などで働かせた。
 また,戦局の悪化にともない,1943年大学生と高等学校・専門学校生徒の徴兵猶予が停止され,徴兵適齢の文科系学生が軍に召集された(学徒出陣)。さらに,朝鮮や台湾でも徴兵制が導入された。朝鮮では1938年に特別志願兵制度,44年徴兵制が実施され,台湾では42年に特別 志願兵制度,45年徴兵制が実施された。
 しかし,船舶の大量喪失により,東南アジアの占領地から石油・鉄鉱石などの資源を国内に輸送することが不可能になると,日本経済は致命的な打撃をうけた。さらに,1944年末からの本土空襲により都市での国民生活は破綻,国民学校児童の疎開(学童疎開)もおこなわれた。


外交史 日本はついに連合国軍のまえに無条件降伏する。

7 日本の敗北

(1)戦局の悪化 1944年7月マリアナ諸島のサイパン島が陥落した。これは東京が連合国軍の空襲圏内に入ったことを意味し,日本の敗戦は必至となった。その結果,昭和天皇から絶対的な信頼を得ていた東条内閣も総辞職に追い込まれ,かわって陸軍軍人小磯国昭と穏健派の海軍長老米内光政が内閣を組織した(小磯国昭内閣)。
 44年末からマリアナ基地のB29による本土爆撃が開始され,45年3月には東京が夜間に無差別爆撃をうけた(東京大空襲)。45年4月には沖縄本島にアメリカ軍が上陸(沖縄戦)。日本軍は,中学校・師範学校の男子生徒を鉄血勤皇隊に組織して実戦に投入,高等女学校・女子師範学校の女子生徒をひめゆり部隊などに編成して従軍看護婦として動員し た。また,アメリカ軍による住民の無差別殺戮,日本軍による住民虐殺・集団自決への誘導などがおこなわれ,多数の非戦闘員が犠牲になった。
 沖縄戦の敗北がはっきりした段階で,昭和天皇もようやく終戦を決意し,1945年4月小磯内閣にかわって鈴木貫太郎内閣が成立。“一億玉砕”を掲げて本土決戦の態勢を整えつつ,天皇制護持に向けて終戦工作が進められた。一方,ヨーロッパでは5月ドイツが無条件降伏した。
(2)連合国の対応 連合国の目標は,日本の無条件降伏だった。

戦争終結に向けた連合国の動向
カイロ宣言1943.11米(ローズヴェルト)・英(チャーチル)・中(蒋介石)対日領土方針(朝鮮の独立など)・日本の無条件降伏までの行動の続行を表明
ヤルタ協定1945.2米(ローズヴェルト)・英(チャーチル)・ソ(スターリン)ドイツ降伏後2〜3か月以内のソ連の対日参戦・南樺太と千島のソ連帰属を決定
ポツダム宣言1945.7米(トルーマン)・英(チャーチル)・中(蒋介石)日本に無条件降伏を勧告

(3)日本の無条件降伏 ポツダム宣言の発表に対して鈴木内閣が“黙殺”との態度をとると,アメリカが広島・長崎へ原子爆弾を投下,ソ連が宣戦布告して満州・朝鮮・樺太ついで千島に侵攻した。そこで,鈴木内閣と軍部は,8月14日御前会議でポツダム宣言受諾を決定し,連合国に通告した。そして同日付で「終戦の詔書」が発せられた。
 それにともなって鈴木内閣が総辞職し,かわって皇族東久邇宮稔彦王が内閣を組織した。軍内部の主戦論者の不満や敗戦にともなう国民の動揺を抑える意図から初の皇族首班内閣が組織されたのだ。そして,9月2日降伏文書に調印,連合国軍による日本占領が始まる。


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