過去問リストに戻る

年度 2006年

設問番号 第1問


問題をみる
【解答例】
1応永の外寇。朝鮮と室町幕府との国交成立後も倭寇の活動がやまなかったため,朝鮮が対馬を倭寇の本拠とみなして襲撃した。
2方広寺。豊臣政権は刀狩令を発して百姓から武器を没収する際,方広寺大仏造営のための釘やかすがいなどに利用することを口実として掲げた。豊臣秀頼により鋳造された方広寺の鐘銘は,徳川家康により大坂の陣の口実とされた。
315世紀には室町幕府と朝鮮の間に国交が成立し,対馬の宗氏の管理下に貿易が行われたが,1510年,三浦居住の日本人が反乱を起こした三浦の乱以降,貿易は次第に衰微した。さらに1592年以降,明征服を企てた豊臣政権が2度にわたる出兵を行ったため,両国の国交関係は途絶した。しかし,17世紀に入ると江戸幕府のもとで国交回復が実現し,18世紀まで将軍の代替りごとに朝鮮から通信使が江戸に参府した。一方,1609年に対馬の宗氏と朝鮮の間で己酉約条が結ばれ,宗氏独占のもとで釜山の倭館で貿易が行われた。
(総計399字)
【解法の手がかり】
前近代の対外関係を主なテーマとした出題は1989年度以来。
問1
応永の外寇の名称とその背景を問うたもの。宋希ケイ[王+景]『老松堂日本行録』から判断してもよいが,史料Aのなかに「永楽」,「馬島」,「一岐(壱岐)」,「朝鮮の兵船の再来を以謂い」などの表現からも推測できる。

問2
方広寺及び方広寺大仏(「耳塚」「豊臣家」から判断)と密接に関わりあった政治あるいは政治的事件を2つ指摘することが求められている。
方広寺大仏造営を名目として実施された刀狩,方広寺鐘銘問題に端を発する大坂の陣を思い浮かべることができれば,問題ない。
それ以外に,方広寺千僧供養に契機とする日蓮宗不受不施派の成立とそれに対する弾圧もあるが,これは「政治的事件」としては思い浮かびにくいだろう。

問3
15〜18世紀の日本と朝鮮の関係・交流の推移。条件として,1510年,1592年,1609年に起きた出来事に重点をおくことが求められている。とはいえ,それら3つの出来事の説明に終始していては設問の要求に応えたことにならないので要注意。
(1) 15世紀。
朝鮮の倭寇禁圧要請をきっかけとする日朝間の国交樹立,朝鮮の倭寇勢力に対する懐柔策などにより日朝貿易が始まる→応永の外寇(問1)により一時中断するものの,まもなく貿易が再開=対馬の宗氏が統制権(文引の発給権)を握る
(2) 1510年。
朝鮮の貿易統制の強化に対する反発から三浦の乱が発生する。その結果,日朝貿易は衰微するものの,対馬の宗氏が独占する形で貿易そのものは継続した。
(3) 1592年。
豊臣政権による朝鮮出兵の開始。当初の目的は明征服。しかし,朝鮮側の抵抗や明の軍事的支援により成功せず,いったん講和交渉がもたれるものの決裂。今度は朝鮮南部の割譲を企図して再度の出兵が行われたが失敗し,豊臣秀吉の死去により撤兵。この朝鮮出兵により日朝関係は断絶した。
(4) 17世紀。
対馬の宗氏を仲介として日朝間の国交正常化が実現し,1609年の己酉約条により宗氏独占の形で貿易も復活する。宗氏は釜山に歳遣船を派遣し,倭館で交易を行った。朝鮮から来日した使節は,17世紀半ば以降,将軍の代替りを祝う通信使と位置づけられ,朝鮮からの国書での将軍呼称は「日本国大君」に落ち着く。
(5) 18世紀。
新井白石により,財政事情から朝鮮使節の待遇簡素化(聘礼改革),朝鮮からの国書での将軍呼称の「日本国王」への変更(復号一件)がおこなわれるが,徳川吉宗によりもとに戻される。以後,10代将軍家治の将軍就任時にいたるまで,朝鮮通信使は江戸まで訪れ,日朝間の文化交流の貴重な機会となった。