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年度 2010年

設問番号 第2問


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【解答例】
1政府は,高橋財政のもと,昭和恐慌からの脱出をはかるため,金本位制を離脱して管理通貨制度に移行し,低為替政策により綿製品などの輸出増進をはかるとともに,軍事費を増額するなど積極政策をとった。そのため,綿業や重化学工業が発展し,大都市での労働力需要が増大した。
2広田内閣以降の大軍拡や日中戦争勃発にともなって重化学工業が発展したうえ,国家総動員法に基づく国民徴用令により一般国民の軍需工場への徴用も行われた。
3戦線の拡大にともなって成年男子が軍隊に動員され,内地人口が総体的に減少する一方,次第に連合国軍による空襲が激化したため,軍需工場の地方移転,住民の疎開が進んで大都市から農村部への人口移動が生じた。
4政府が農業基本法を制定して農業構造改善を進めるなどしたため農業の生産力は向上したものの,高度経済成長にともない農村部から都市部への大規模な人口移動,兼業農家の増加が進み,農業就業人口が激減した。
(総計400字)


【解法の手がかり】

問1
問われているのは,時期:1930年から1935年の間,テーマ:「このような」人口集中を導いた「この時期」の国家的な政策。
「このような」人口集中とは,「(1)と(2)の人口が増加し,(3)と(4)の人口が減少し」ている事態を表現したもので,いいかえれば,(3)・(4)から(1)・(2)への人口移動のことである。そして,(1)や(2)は,工業や商業・サービス業などの発達する大都市であると判断してよい。
1930年から35年といえば,昭和恐慌期を含んでおり,この時期の「国家的な政策」とは井上財政と高橋財政を想起できる。このうち,農村部(とりわけ(4)が減少しているため)から工業都市へと人口が流入するきっかけをつくった「国家的な政策」を考えれば,高橋財政に限定できる。
高橋財政は,金輸出を再禁止,金兌換を停止して管理通貨制度へ移行したうえで,景気浮揚に向けた次のような2つの政策をとった。1つは,円為替相場の下落を放置・容認する低為替政策であり,これにより輸出の増進をはかった。もう1つは積極政策である。日銀引受方式で赤字国債を発行して財源を確保し,軍事費を中心として財政支出を拡大させた。
これらの政策の結果,綿製品を中心に輸出が拡大し,軍需を中心として重化学工業が成長した。こうして大都市部では労働力需要が拡大し,中小都市・農村部から人口が流入したのである。
設問で直接問われているのは「国家的な政策」についての説明であるが,「このような人口集中を導いた」との修飾句を念頭におけば,「国家的な政策」=高橋財政の内容を説明したうえで,それがどのような形で「このような人口集中」につながったのかを説明する,という構成で答案をつくればよい。

問2
問われているのは,時期:1935年から1940年の間,テーマ:「このような」人口集中を導いた「この時期」の国家的な政策。
1935年から40年といえば,岡田内閣から第二次近衛内閣のころであり,その時期における工業都市への人口集中につながる「国家的な政策」を考えればよい。
まず,広田内閣以降(日中戦争勃発後も含む),大規模な軍拡予算が編成され,そのもとで重化学工業が成長したことが想起できる。
次に,日中戦争が長期化するなかで戦時経済体制が形成され,なかでも国家総動員法が制定され,それに基づいて国民徴用令が定められ,一般国民の軍需工場への徴用が行われたことを思い浮かべることができる。

問3
問われているのは,時期:1940年から1945年の間,テーマ:「この」変化が起きた理由=戦時下の政策的な対応によるものと戦況の変化そのもの。
「この」変化とは,「(1)と(2)の人口が減少し,(3)と(4)の人口が増加」するという事態を表現したもので,それ以前(1930〜40年)の人口動向とは逆転しているため「変化」と表現されている,と判断できる。そして,1940年から45年は,日中戦争が膠着するなかで国際化し,アジア太平洋戦争へとつながり,敗戦へと至る時期である。なお,この表は何の説明もなされていないが,内地に限定されているものと判断しておく(1940年から1945年の間の総人口の減少が82万人弱なため)。
「戦時下の政策的な対応によるもの」:
戦争が拡大するなか,政府は兵役動員(学徒出陣を含む)を強化している。その結果,内地人口は総体的に減少した。たとえば,山川『詳説日本史』では「軍隊に動員された青壮年男子は400万から500万に達した」と説明されている。
「戦況の変化そのもの」:
戦況が悪化するのにともない,都市部を対象として連合国軍による空爆が行われる(本土空襲)。もともと軍需工場が攻撃目標とされていたものの,次第に都市域に対する無差別な爆撃へと拡大したため,軍需工場の地方移転だけでなく国民学校児童ら住民の疎開が行われ,大都市部から農村部への人口移動が生じた。
なお,1945年の統計は「1945年11月1日現在」とされている。すでに戦争は終結しているものの,復員や引揚げがまだ本格化していない段階と考えておく。

問4
問われているのは,時期:1950年から1970年にかけて,テーマ:「この」変化の中で日本農業がどのように変わったか。条件として,1961年に制定された法律を含めて説明することが求められている。
「この」変化とは,日本の産業構造の変化のことであり,このことが原因となって「(1)(2)(3)とは対照的に,(4)の人口だけは一貫して減少」している。
この時期は高度経済成長期。太平洋ベルト地帯を中心として,都市部へ人口が大きく集中し,農村人口そして第一次産業就業者が激減した時期である。農業では従事者が激減して「三ちゃん農業」が中心となる。
「1961年に制定された法律」:農業基本法。
農工間格差を是正するため,農業人口を削減し,自立経営農家の育成をはかろうとしたものだが,大した効果はなかった。農業人口の減少は第2種兼業農家の増加というかたちで進展する。