記述が大きく変わったといえるのは平安時代についてであり、律令制解体期の描き方である。とりわけ、天皇を中心とする宮廷社会、富豪の輩に代表される地域勢力、王朝どうしの国交に限定されない国際交流−これらの点に注目したい。
p.59 桓武朝の政策
桓武天皇は強い権力をにぎって貴族をおさえ,積極的に政治の改革にとりくんだ。
p.60(注3) 平安初期の令外官の特徴
令に規定されていないあたらしい官職を令外官というが,蔵人頭や検非違使は,官職についている者のなかから天皇が特別に任命する職であった。
p.61 貴族社会の変化
桓武天皇以後,朝廷では天皇の権力が強まり,天皇と結ぶ少数の皇族や貴族が多くの私的な土地を持ち,勢いをふるうようになった。このような特権的な皇族・貴族を院宮王臣家とよぶ。下級の官人たちは,院宮王臣家の保護を求めてその家人となり,地方の有力農民も,これらの院宮王臣家と結ぶようになった。[コメント]
p.65 藤原北家の台頭
9世紀の初めには,桓武天皇や嵯峨天皇が貴族をおさえて強い権力をにぎり,国政を指導した。しかし,この間に藤原氏とくに北家が天皇の権威と結びついて,しだいに勢力をのばした。
p.66 摂関政治
この時代には,摂関家の勢力がもっともさかんで,最高の官位を占める藤原氏のなかでも頂点にたつ者が藤原氏の「氏の長者」として大きな権力を持つに至った。
p.67注(2) 陣定
主たる政務は太政官の議政官(公卿)の合議によって審議され,ふつうは内裏の近衛の陣で行われる陣定の形式がとられた。審議の結果は,太政官符・宣旨などの文書で命令・伝達された。
p.67 摂関政治期の貴族社会
とくに,摂政・関白は役人の任免権に深くかかわっており,その影響力のおよぶ院宮王臣家も官人推挙の権を持っていたから,中級・下級の官人層は摂政・関白などに隷属するようになり(3),上流貴族の権勢を強大なものにした。
注(3) 役人の地位の昇進の順序や限度は慣例として家柄・外戚関係によってほぼ一定していた。そのなかで中級官人などは律令制のもとで経済的に有利な地位とされていた地方の国司となることを求め,私領の獲得につとめた。
p.68 年中行事の発達
年中行事には大祓・賀茂祭りのような神事や,潅仏のような仏事,七夕・相撲などの遊興のほか,叙位・除目(官吏の任命)などの政務に関することまで,多くの儀式が定められていた。これらのなかには,中国に起源を持つ行事や,日本古来の風習にもとづくものもまじっているが,ともに貴族の宮廷生活の行事として発達した。[コメント]
p.60-61 平安初期の地域社会の変化
8世紀の後半から,農村では調・庸などの負担をのがれようとして浮浪・逃亡する農民があとをたたず,9世紀になると,戸籍には男子が少なくなるなどいつわりの記載がふえ,班田の施行も8世紀の終わりころからその実行がむずかしくなった。桓武天皇は一紀(12年)一班に改めて励行をはかったが,9世紀には30年,50年と班田の行われない地域がふえた。 いっぽう,農業技術にすぐれ,多くの米を所有する一部の有力な農民は,周辺の貧しい農民に米を貸しつけたり,租税を肩代りしたりして彼らを支配し,墾田の開発を進めて勢いを強めた。政府や中央の貴族も,これら有力農民の力を無視できなくなった。[コメント]
調・庸などの租税の納入の減少は,国家の財政にも影響をおよぼした。政府は,公営田・官田など,直営方式の田をもうけたりして財源の確保につとめたが,やがて,中央の官司はそれぞれに自分の田を持ち(諸司田),国家から支給される禄にたよることができなくなった官人たちも,有力農民の持つ墾田を買いとるなどして自分の田を持ち,それを生活の基盤とするようになった。
9世紀には,天皇も勅旨田とよばれる田を持ち,皇族にも,天皇から田があたえられた(賜田)。中央集権的な律令の制度は,こうして財政の面からもくずれはじめた。
p.78 地方政治の転換
豪族や開発領主の力がのびてくると,国司は国内を郡・郷・保などのあらたな単位に再編成し,彼らを郡司・郷司・保司に任命して徴税を請け負わせた。これに応じて国衙には田所・税所などの行政機構が整備されて,国司が派遣する目代のもとで在庁官人が実務をとるようになった。[コメント]
p.68(コラム) 国際関係の変化
●●広がる国際関係の水脈
遣唐使が廃止されたからといって大陸への関心がおとろえたわけではなかった。日本人の渡航は禁止されていたが,巡礼を目的にする僧には許されたので,〓[大+周]然・寂照・成尋らは宋からやってきた商人の船に同乗して,大陸にわたって宋の文物を運んできた。なかでも〓[大+周]然が持ち帰った釈迦如来像は京都嵯峨の清涼寺に安置されて熱狂的な信仰を獲得し,経典は摂関家におさめられた。
他方,日本に渡来した宋の商人は博多に文物や薬品をたずさえてやってきて,かわりに金や水銀・真珠などの必要な産物を得て帰った。宋の商人がとくにのぞんだのは金であるが,これは奥州が特産地であったことから奥州への関心が高まった。11世紀に成立した『新猿楽記』という書物には,「商人の主領」として描かれた人物が,東は「俘因の地(奥州)」から西は「貴海の島(九州の南)」におよぶ活動を行い,唐物や日本のたくさんの品々を取り扱ったとしるされている。
p.69 国際関係の変化
これらの諸国とも国交はひらかれず,一般にわが国と海外諸国との公的交渉は不振であったが,私的交渉で書籍や薬品などが輸入され,11世紀後半にはかえって活発になった。[コメント]
p.39 大化改新
政府はこののち,世襲職の品部を廃止し,あたらしい官職や位階の制度を定めるなどの改革を進めた。孝徳天皇のときに行われたこれら一連の改革を大化の改新といい
p.59(注1) 対蝦夷政策
なお8世紀から9世紀にかけては,蝦夷の反乱を防ぐため,東北地方からは多くの蝦夷が各地に俘囚として移された。また各地の農民が東北地方に移住させられ,城柵のまわりに住んで農耕に従事した(柵戸)。
p.60(注1) 平城上皇の変
嵯峨天皇の即位後,奈良の平城上皇と京都の天皇との間に対立がおこり,天皇は兵をだして上皇の寵愛する藤原薬子を自殺させた(藤原薬子の変)。[コメント]
p.61 平安初期の仏教革新
奈良時代の末には仏教が政治と結びついて腐敗したため,桓武天皇は僧侶の資格をきびしくするなどしてそれを改めようとした。これに応じて仏教界にも革新の動きがおこり,
p.63 弘仁・貞観文化の特徴
この時期には,国家の権威をかざるものとして,中国風の文化が重んじられた。
p.81 奥州藤原氏政権
奥州藤原氏は金や馬などの産物の富によって京都の文化を移入したり,北方の地との交易を行って独自の文化を育て,繁栄をほこった(1)。
注(1) 11世紀に奥州で2度の反乱がおきたあと,奥州の藤原氏が勢力をきずくと,藤原氏を媒介にして地方の産物が都にもたらされた。藤原氏は金の力を背景に平泉を中心に繁栄し,中尊寺や毛越寺などの豪華な寺院を建立した。最近の平泉の発掘・調査では,京都と北方の文化の影響がみられ,日本海をめぐる交流や北海道からさらに北方とのつながりもあるなど,広い範囲での文化の交流があったことがあきらかになってきた。