都市・農村の構造変化とそれに対する幕府の政策(とりわけ都市政策)に構成上の力点がおかれている。さらに構造変化のなかでの商品生産・賃金労働を“資本主義の胎動”と位置づけ、それを取りこむことで藩権力を強化することに成功した諸藩が雄藩として幕末の政局において大きな役割を演じると描きだし、近代への展望をみようとしている。そうした構成上の変化が大きな変更点といえる。そして、列強の接近のところで“鎖国”という表記が注意深く避けられている点にも注目される。
なお、記述がより詳しくなっているものの、その代わりに削られた記述もある。享保の改革での大坂堂島の米市場の公認や田沼政治のもとでの俵物の輸出奨励などである。両者ともに、堂島の米市場、俵物の輸出というデータは別の箇所で触れられているものの、幕政との関連づけが消えてしまっている。また、記述が削られたり、または詳しくなったことによって、かえって文意が理解しにくくなった箇所もある。
p.186 農民たちの生活
近世の農業経営は,小規模な家族の労働を基礎に,せまい耕地にこまやかに人力を集約的に投下する方法で行われた(1)。
注(1)農業に牛や馬を大規模に利用することはあまり発達しなかった。
p.186 貨幣経済の浸透
生産の中心である米はもっぱら年貢として領主にとりたてられ,農民たちは自給自足の貧しい暮らしをしいられた。しかし,農業の生産力が急速に高まると,余剰米を商品として都市に売ったり,桑・麻・綿・油菜・楮・野菜・たばこなどを商品作物として生産・販売し,貨幣にかえて利潤を得る機会が増大した。この結果,多くの村々は都市を中心とする商品流通に徐々にまきこまれるようになった。[コメント]
p.187 漁業
漁業は,網漁を中心とする漁法の改良と,沿岸部の漁場の開発によって重要な産業としての地位を確立した。網漁は中世末以来,摂津・和泉・紀伊などの上方漁民によって全国に広まり,上総九十九里浜の地曳網による鰯漁,肥前五島の鮪漁,松前の鰊漁が有名になった。とくに鰯は,綿作などの商品作物生産にかかせない肥料として干鰯・〆粕に加工され,上方をはじめ各地に出荷された。このほか,瀬戸内海の鯛や土佐の鰹などの釣漁,網や銛を駆使する紀伊・土佐・肥前・長門などの捕鯨,蝦夷地における昆布や俵物の生産などがみられた。とくに,俵物は17世紀末以降,長崎貿易において銅にかわる中国(清)への主要な輸出品となった。
p.187 林業の発達
林業は,都市を中心とする建築資材の大量需要によって急速に発達し,江戸中期には,材木問屋の活躍で蝦夷地にまで産地が広がった。尾張藩や秋田藩などでは,領主が直轄する山林から伐りだされた材木が商品化し,木曽檜や秋田杉として有名になった。また,都市近郊の山野では紙の原料や茶・漆などの特産地が形成され,薪・炭も生産されて重要な燃料として大量に消費された。
p.187-188 鉱山業
17世紀初めに,日本は当時の世界でも有数の金銀産出国になった。17世紀後半になると金銀の産出量は急減し,かわって銅の産出量が増加し,急増する貨幣の需要に応じるとともに,長崎貿易における最大の輸出品となった。鉄は,砂鉄の採集によるたたら精錬が中国・東北地方を中心に行われた。そこでつくられた玉鋼は全国に普及し,多様な農具や工具に加工され,技術の進歩や生産の進展に大きく貢献した。これらの諸産業では,漁村・山村・鉱山町などの村や町が生産の基盤となったが,そこに都市商人の資本や農村・都市からの多数の労働力が投入されることも多かった。
p.188 手工業の多様化
手工業は,まず生産のための道具や仕事場を自分で所有する小規模な独立手工業者である都市の諸職人によってになわれた。しかし,農村でも百姓の零細な農村家内工業として多様な手工業生産がみられるようになった。その代表は麻・木綿・絹などの織物業である。戦国末期に綿作が朝鮮から日本に伝わると,木綿は従来の麻とともに庶民の代表的衣料としてまたたくうちに普及した。これをささえたのは伝統的ないざり機(地機)による農家の女性労働であった。そして河内の木綿,近江の麻,奈良の晒など織物の名産地が各地にうまれた。絹や紬は農村部でも織られたが,金襴・緞子などの高級品は京都の西陣で高度な技術のいる高機で独占的に織られた。しかし,18世紀中ごろには,高級な絹織物も上野の桐生をはじめ,農村部をふくむ各地で生産されるようになった。[コメント]
和紙は,楮をおもな原料とする流漉の普及で生産地が全国に広がった。情報の伝達や記録の手段として,紙は必需品となり,安価な紙が庶民にまで大量に普及し,さらに学問・文化の発達にも大きく貢献した。紙の生産地の多くでは専売制がしかれ,藩の財政をうるおした。陶磁器は,朝鮮から伝わった登窯や上絵付などの技術の普及によってさかんとなり,肥前有田では佐賀藩の保護のもとで磁器が生産され,長崎貿易の主要な輸出品となった。また,尾張藩の専売制のなかで,尾張の瀬戸や美濃の多治見などでも生産が活発となり,各地で安価な陶磁器が量産された。
p.189 交通網の整備
陸上交通は,豊臣政権による全国統一の過程で整備がはじまり,これをひきついだ江戸幕府によって,江戸を中心に各地の城下町をつなぐ全国的な街道の網の目が完成した。[コメント]
p.189 道中奉行
五街道は,幕府の直轄下におかれ,17世紀半ばから道中奉行によって管理された。[コメント]
p.189 宿駅などの交通施設
街道の城下町中心部や小都市には宿駅が数多くおかれ,また一里塚や橋・渡船場・関所などの施設がととのえられた。[コメント]
p.189-190 伝馬役
交通制度においては,幕府や大名らの御用通行が最優先とされ,通行に用いる人馬(人足と馬)は無料あるいは一般の半額程度の賃銭で徴発された。この負担を伝馬役とよび,宿駅の百姓・町人や,近隣の村々の百姓によってになわれた(1)。[コメント]
注(1)宿駅の伝馬役をおぎない,御用通行の人馬を徴発された村々を助郷とよぶ。
p.190 海上交通
大量の物資を安価に運ぶには,陸路より海や川の水上交通が適していた。海上交通は幕府や藩の年貢米輸送を中心に,大坂と江戸を基点に整備された。[コメント]
p.191 商業の展開
堺・京都・博多・長崎・敦賀などを根拠地とした近世初期の豪商たちは,朱印船貿易や国内の未整備な交通体系を利用して活躍したが(1),鎖国による海外との交易の制限や,陸上・水上交通の整備による全国市場の形成によって急速におとろえていった。17世紀後半になると,三都や城下町において,各地からの商品の受託や仕入れを独占する問屋商人が商業や流通の中心を占めた。そして多くの業種では,問屋が仲間という同業者の団体をつくり,独自の法(仲間掟)を定めて営業権の独占をはかった。
注(1)これを初期豪商とよぶ。彼らは船や蔵を持ち巨大な富を形成した。京都の角倉了以や茶屋四郎次郎,摂津平野の末吉孫左衛門,堺の今井宗薫らが有名である。
p.191 仲間と幕府の対応
幕府は当初この仲間を公式には認めなかった
p.191 零細な商人
問屋や仲買の仲間に従属し,消費者にさまざまな商品を販売する小売商人の多くは,店舗を持たない零細な商人で,振売・棒手振などとよばれ,都市や都市近郊の民衆にとって,もっとも重要な生業の一つであった。[コメント]
p.191 金銀貨幣
戦国大名は全国各地で金山・銀山を開発し,軍資金にあてるためにきそって独自の金貨・銀貨を鋳造した。しかし,全国的に通用する同じ規格の金・銀の貨幣は,家康が関ヶ原の戦いの翌年に開設させた金座・銀座によってはじめて大量につくられた(慶長金銀)。
p.191-192 三貨の鋳造
金座は江戸と京都におかれ,後藤庄三郎のもとで小判・一分金などの計数貨幣が鋳造された。また銀座は,まず伏見・駿府におかれ,のちに京都・江戸に移されて,丁銀や豆板銀などの秤量貨幣を鋳造した。寛永期に江戸と近江坂本につくられた銭座は,のちに全国各地にもうけられ,ぼう大な量の銅銭・鉄銭などが鋳造された。
p.192 統一的な貨幣制度の不在
東日本ではおもに金が取引の中心とされ(金遣い),西日本では銀が中心となり(銀遣い),また三貨のあいだの交換率は相場によってつねに変動するなど,明治に至るまで統一的な貨幣制度はついに成立しなかった。17世紀後半から各藩では,城下町を中心とする藩経済の発達のもとで藩札が領内で流通し,また地域によっては商人の発行する私札が流布することもあり,三貨の不足と藩財政の窮乏をおぎなった。[コメント]
p.200 享保の改革の背景
17世紀に,農業を中心として著しく発展した生産活動は,その後も多分野にわたってひき続き拡大し,三都や城下町の富裕な商人のなかには,窮乏する武士だけでなく大名にも利貸を行い(大名貸),藩の経済的実権をにぎるものもあらわれた。また農村にも貨幣経済が浸透し,商品作物の生産や家内工業が広がって,あらたな富がしだいに蓄積されていった。
p.201 享保期の財政再建策
西日本の幕領でさかんになった綿作などの商品作物の生産による富の形成に目をつけ,畑地からの年貢増収をめざした。また,商人資本の力を借りて新田開発を進め,米の増産を奨励した(1)。これらの施策によって,幕領の石高は1割以上増加し,年貢も増加にむかって,幕府財政はやや立直りを示した。
注(1)幕府は江戸日本橋に新田開発についての高札をたて,有力商人の協力をうながし,また新田検地を進めた。しかし耕地の拡大はそれほど進まなかった。
p.201 享保期の江戸の都市政策
改革の第2の柱は江戸の都市政策で,・・・・江戸に,広小路などの防火施設をもうけ,消火制度を改善して,定火消とは別に,町方独自の町火消を組織させた(2)。・・・・公事方御定書を制定して,法にもとづく合理的な政治を進めた。そして商品経済を統制しようと商人や職人の仲間を公認しはじめ,また続発する金銀貸借についての争い(金公事)を,幕府に訴訟させず当事者間で解決させるために,1719(享保4)年に相対済し令をだした(3)。[コメント]
注(2)江戸町方の町々を「いろは」47組に編成し,町人による組織的な消防制度をはじめたが,やがて鳶人足による消防組織にかわっていった。
注(3)相対済し令は,これ以前にも17世紀後半以降,数度だされている。1718(享保3)年に江戸町奉行所がうけつけた訴訟は約3万6000件であり,このうち90%以上が金公事であった。
p.202 享保期以降の村の変化
享保の改革は多くの成果をあげたが,18世紀後半は幕藩体制にとって大きなまがり角となった。年貢の増徴策で小百姓の生活は圧迫され,米価の低迷によって,年貢米で暮らしをたてる武士の窮乏がひどくなった。
村々では,一部の有力な村役人らが,みずからは地主手作を行ういっぽうで,手持ちの資金を困窮した百姓に利貸して,質にとった田畑を村の内外であつめて地主に成長し,その田畑を小作人に貸して小作料をとりたてた。彼らは同時に農村地域における商品作物生産の中心的にない手でもあって成長が著しく,豪農とよばれた。いっぽう,田畑を手放した小百姓は,小作人となるほか,年季奉公や日用稼ぎに従事し,いっそう貨幣経済にまきこまれるようになった。こうして村では,自給自足的な経済のあり方が大きくかわり,村役人をかねる豪農と,小百姓や小作人らとのあいだの対立が深まった。そして村役人の不正を追求し,村の民主的運営を求める小百姓らによる村方騒動が各地で多数おこった。
p.202-203 享保期以降の都市の経済活動の変化
都市の経済活動は,仲間の公認や相対済し令の実施もあって,幕府や諸藩の力では左右できないほど自立的で強固なものへと成長していった。問屋商人の活動範囲は全国におよび,なかでも近江・伊勢・京都の出身で呉服・木綿・畳表などをあつかう一群の商人らは,両替商をかねて,三井家のように三都や各地の城下町などに出店を持ち,大規模に店舗を経営するものもあらわれた。・・・・・
また,問屋・仲買と小売商人との売買の場である卸売市場が各地で発達し,都市と農村を結ぶ経済の心臓部としての役割をはたした。大坂では堂島の米市場,雑喉場の魚市場,天満の青物市場,江戸では日本橋の魚市場,神田の青物市場などがよく知られる。
p.203 享保期以降の町の性格変化
こうしたなかで,村とともに幕藩体制の基礎を構成してきた町はその性格を大きくかえていった。とくに三都や城下町の中心地では,町内の家持町人が減少し,住民の多くは,地借や店借,商家奉公人らによって占められることが多かった。そして町内の裏長屋や場末の地域には,農村部から出稼ぎなどで流入してきた人びとや,小売・職人仕事・日用稼ぎに従事する貧しい民衆が多数居住した。これらの都市民衆は,九尺二間といわれる零細な長屋に住み,わずかな貨幣収入でどうにか暮らしをささえていたので,物価の上昇や飢饉・災害にあうと,たちまち生活を破壊された。[コメント]
p.205 田沼期の貨幣政策
はじめて定量計数銀貨を鋳造させ(1),金を中心とする貨幣制度への一本化をこころみた。
注(1)安永年間(1772〜80年)に大量に鋳造された南鐐弐朱銀がその代表である。
p.205 田沼政治の評価
意次の政策は,商人の力に依拠しながら,幕府財政を思いきって改善しようとするものであった。
p.205 田沼の失脚
天明の飢饉がはじまり,全国で百姓一揆や打ちこわしが頻発するなかで,1784(天明4)年に,若年寄の田沼意知(意次の子)が江戸城内で暗殺されると,意次の勢力は急速におとろえた。[コメント]
p.205 天明の打ちこわし
田沼意次が失脚した翌1787(天明7)年5月,江戸・大坂など全国30余の主要都市で打ちこわしが続いておこった(天明の打ちこわし)。なかでも江戸の打ちこわしは激しいもので,市中の米屋などが多数おそわれ,幕府に強い衝撃をあたえた。こうしたなかで,11代将軍家斉の補佐として老中に就任したのが,白河藩主松平定信である。
p.206 寛政改革の都市政策
寛政の改革のもう一つの柱は都市政策であった。なかでも打ちこわしにみまわれた江戸では,両替商を中心とする豪商が幕府に登用され(1),その力を利用して改革が進められた。
注(1)勘定所御用達とよばれ,10名からなる。
p.207 尊号一件
朝廷問題が発生した。1789(寛政元)年,朝廷は光格天皇の実父閑院宮典仁親王に,太上天皇の尊号を宣下したいと幕府に同意を求めたが,定信はこれを拒否した。武家伝奏らはふたたび尊号宣下を求めたが,定信は,本来幕府の側にたつべき武家伝奏らの公家を処分した。この一連の事件を「尊号一件」とよぶ(1)。この事件の対処をめぐる将軍家斉との対立もあって,定信は老中在職6年余で退陣に追いこまれた。[コメント]
注(1)この事件を契機にして,幕府と朝廷の協調関係はくずれ,天皇の権威は尊王論の高まりとともに幕末にむかって浮上しはじめる。
p.208 列強の接近
ロシア船やイギリス船が日本近海にあらわれ,幕府は外交体制の変更をせまられる重要な時期をむかえた。
p.208 ラックスマン来航
1792(寛政4)年,ロシア使節ラクスマンが根室に来航し,漂流民(1)をとどけるとともに通商を求めた。そのさい使節が江戸湾入航を要求したことが刺激になって,幕府は海防の強化を諸藩に命じた(2)。
注(1)伊勢の船頭大黒屋光太夫は嵐で漂流してロシア人に救われ,女帝エカチェリーナ2世に謁見したのち送還された。
注(2)とりわけ蝦夷地の防備と,江戸につながる房総沖・江戸湾の防備は強く意識された。しかし,防備を命じられた大名には重い負担となった。
p.208-209 レザノフ来航
1804(文化元)年にはロシア使節レザノフが,ラクスマンの持ち帰った入港許可証を持って長崎に来航したが,幕府はこの正式使節に冷淡に対応して追いかえした。そののち,ロシア船が樺太や択捉を攻撃したことから,幕府の対外防備は増強され,1807(文化4)年,幕府は松前・蝦夷地をすべて直轄にして松前奉行の支配のもとにおき,東北諸藩をその警護にあたらせた(1)。[コメント]
注(1)会津藩の場合は1558名の藩兵を派遣し,蝦夷地の海岸で銃隊訓練をしたり,台場をもうけて大砲の射撃訓練を行ってそなえた。
p.209 フェートン号事件
1808(文化5)年のイギリス軍艦フェートン号の長崎乱入であった。フェートン号は,当時敵国であったオランダ船を求めて長崎にはいり,オランダ商館員をとらえて人質にし,薪水・食糧を強要し,やがて退去した(フェートン号事件)(3)。そこで,幕府は1810(文化7)年,白河・会津両藩に江戸湾の防備を命じた。
注(3)19世紀初め,ナポレオンがオランダを征服すると,イギリスは東洋各地のオランダの拠点をうばおうとしていた。この事件で長崎奉行の松平康英は責任上自刃し,また長崎警固の義務を持つ佐賀藩主も処罰された。
p.209 異国船打払令
外国船員と住民との衝突回避のためにも,1825(文政8)年異国船打払令(無二念打払令)をだし,外国船を撃退することを命じた(4)。[コメント]
注(4)清・朝鮮・琉球の船はこの対象外で,オランダ船は長崎以外の場所では打払うことにした。
p.210 大御所時代の治世
文化年間までは寛政改革の質素倹約がうけつがれたが,文政年間にはいると,品位の劣る貨幣を大量に流通させたことで幕府財政はうるおい,将軍や大奥の生活は華美になった。
p.210 大御所時代の社会
関東の農村のように,在地の商人や地主が力をつける一方で,土地を失う農民も多く発生して荒廃地域が生じた。江戸をとりまく関東農村では,無宿者や博徒による治安の乱れも生じたため,幕府は1805(文化2)年,関東取締出役(2)をもうけて犯罪者のとりしまりにあたらせた。さらに1827(文政10)年には,幕領・私領・寺社領の領主の違いをこえて,近隣の村々をよせあつめた寄場組合をつくらせ,協同して治安にあたらせたり,風俗のとりしまりや農村の維持などを行わせた。[コメント]
注(2)関東代官の配下の役人のなかから出役を選びだし,最初は8名で,2人1組となって関八州を巡回し,領主の区別なく犯罪者や博徒の逮捕・とりしまりを行った。
p.210-211 郡内・加茂一揆
1836(天保7)年の飢饉はとくにきびしく,そのため,もともと米の不足していた甲斐国郡内地方や三河国加茂郡で一揆がおこった。ともに幕領で生じた大規模な一揆であることに,幕府は衝撃をうけた。
p.211(注3) 救い小屋
江戸も米不足で不穏になったが,幕府は救い小屋をもうけて米・銭をほどこし,打ちこわしの発生を未然にふせいだ。[コメント]
p.211 天保の改革
まず江戸城中もふくめ断固たる倹約令をだして
p.211-212 人返しの法
江戸の人別改めを強化し,人返しの法を発して農民の出稼ぎを禁じ,江戸に流入した貧民の帰郷を強制し,天保の大飢饉で荒廃した農村の再建をはかった(1)。
注(1)無宿者や浪人らも江戸を追われ,江戸周辺の農村の治安悪化をひきおこすことになった。
p.211 株仲間解散令の背景・結果
物価騰貴の原因は,十組問屋などの株仲間が上方市場からの商品の流通を独占しているためと判断して,株仲間の解散を命じた。幕府は江戸仲間外の商人や,江戸周辺の農村にいる商人らによる自由な取引で物価引下げを期待したのである。しかし物価騰貴の実際の原因は,生産地から上方市場への商品の流通量が減少して生じたもので(2),株仲間の解散はかえって江戸への商品輸送量をとぼしくすることになり,逆効果となった。また物価騰貴は,江戸の庶民のほか旗本や御家人の生活も圧迫したので,幕府は札差などに低利の貸出しを命じた。
注(2)生産地から上方市場に商品がとどく前に,下関や瀬戸内海の他の場所で商品が売買されてしまうことがあった。商品流通の基本ルートがこわされ,機能しなくなりはじめていた。
p.211-213 三方領知替えと上知令
幕府は,相模の海岸防備をになわせていた川越藩の財政を援助する目的から,川越・庄内・長岡3藩の封地をたがいに入れかえることを命じたが(5),領民の反対もあって撤回された。幕府が転封を決定しながら,その命令が徹底できなかったことは空前の出来事であり,これは幕府に対する藩権力の自立を示す結果となった。そこで水野忠邦は,幕府権力を強化する意味からも,1843(天保14)年に上知令をだし,江戸・大坂周辺のあわせて約50万石の地を直轄地にして,財政の安定や対外防備の強化をはかろうとした。[コメント]
p.213 天保期の幕藩体制のゆきづまり
農業生産を前提に,年貢をとりたてて成り立つ幕藩体制の構造は,天保期ころにゆきづまりを示しだした。
北関東の常陸・下野両国の人口は,1721(享保6)年にくらべ,1846(弘化3)年には約30%の減少となった(1)。人口減少は,日光山領の農村でみられたように農民が農地を放棄し,田畑を荒廃させることにつながった。
いっぽう19世紀にはいると,商品生産地域では問屋制家内工業がいっそう発達し,一部の地主や問屋商人は家内工場をもうけて,農業からはなれた奉公人(賃労働者)をあつめ,分業と協業による手工業的生産を行うようになった。これをマニュファクチュア(工場制手工業)といい,大坂周辺や尾張の綿織物業,桐生・足利など北関東の絹織物業などで,天保期ころから行われはじめた。
注(1)とくに天保の飢饉後は一時激しくおちこんだ。その逆に西南地方の周防・薩摩は約60%も人口が増加している。
p.214 諸藩の対応策
このような社会・経済構造の変化は,幕藩領主にとっては体制の危機となるため,その対応策をとった。二宮金次郎の報徳仕法のように,荒廃田を回復させて,農村を復興させる封建制再建の方法である。しかし,すでに商品生産や商人資本のもとで賃金労働が行われており,この方法では資本主義の胎動はとめられなかった。これに対し,あたらしい経済活動を積極的にとりこむ方法が,藩営専売制や藩営工場の設立であった。
諸藩においても有能な人材を登用し,財政の再建をはかり,藩権力の強化をめざす藩政改革が行われた。
p.214 薩摩藩の藩政改革
注(1)幕府は長崎を窓口にして清国との俵物貿易を独占して行っていた。これに対し薩摩藩は,松前から俵物を積みだして長崎にむかう途中の船から俵物を買上げ,これを琉球を通して清国に売る密貿易を行って利益をあげることがあった。そこにも幕府の支配体制のゆるみがみいだされる。[コメント]
p.193 江戸
江戸には,幕府の諸施設や全国の大名の屋敷(藩邸)をはじめ,旗本・御家人の屋敷が集中し,・・(中略)・・町人地には,武家の生活をささえるために,あらゆる種類の商人・手工業者や日用(傭)らがあつまり,江戸は日本最大の消費都市となった。
p.193 大坂
幕府はここに大坂城代や大坂町奉行をおいて,大坂や西日本の支配の要とした。
p.193-194 京都
将軍家をふくめ,武士や宗教者,一部の御用職人らの権威をささえるために重要な役割をはたした。また,京都には呉服屋をはじめとして大商人の本拠地が多く存在し,・・・・・
幕府は重職である京都所司代をおき,朝廷・公家・寺社との関係の保持や畿内と周辺諸国の統轄にあたらせた。
p.204 百姓一揆の行動・結果
一揆に参加した百姓らは,年貢の増徴や新税の停止,専売制の撤廃などを要求し,藩の政策に協力している商人や村役人の家を打ちこわすなど実力行動もとった。
幕府や諸藩は一揆の要求を一部認めることもあったが,多くは武力で鎮圧し,一揆の指者を厳罰に処した。
p.195 井原西鶴
やがて浮世草子とよばれる小説に転じ,職業作家としての道をあゆんだ。
p.222 尊王論と幕府
復古主義の立場から尊王論をとなえた国学者も,将軍は天皇の委任によって政権をあずかっているとのとらえ方で(2),幕府政治の否定をめざすものではなかった。[コメント]
注(2)実際に将軍が天皇から政務の委任をうけたのは,尊王攘夷論のたかまるなか,1863(文久3)年に14代将軍家茂が上洛して,政務委任をうけてからである。
p.224 御蔭参り
1830(天保元)年の御蔭参りの参加人員が赤版では「400万人」とあるが、チェック版では「約500万人に達したといわれる」とある。
p.224 興行
●●興行●●
庶民の娯楽の代表は歌舞伎と相撲であった。歌舞伎はそれまでの人形浄瑠璃の人気にかわり,18世紀後半から江戸を中心に隆盛をほこり,寛政期には中村・市村・森田の江戸三座が栄えた。さらに文政期の『東海道四谷怪談』の鶴屋南北らの狂言作者と,7代目市川団十郎や尾上・沢村・中村らの役者が,歌舞伎の人気を高めた。幕末には狂言作者の河竹黙阿弥が活躍し,盗賊を主人公にした白浪物などは評判をよんだ。
相撲は近世前半には大名や旗本など武家だけが楽しむ娯楽であったが,庶民が相撲を求める欲求は強くなり,幕府は1744(延享元)年四季勧進相撲を公認した。これはおもに夏に京都,秋に大坂,冬・春には江戸で晴天10日間の大相撲を開催し,全国の力士があつまって合同の興行が行われた。とくに谷風・小野川の両横綱や雷電などの強豪力士のそろった天明・寛政期は人気を博し,最初の全盛期となった。1791(寛政3)年には,初の将軍上覧相撲が江戸城吹上庭で挙行され,その後も行われた将軍上覧が相撲に格式と権威をあたえ,相撲は娯楽の花形となった。