昭和戦前期の構成が年代順を意識した構成に変更になったため、赤版よりは理解しやすくなったと思う。
データが詳しくなったが、追加された記述として特徴的なものは、“軍部 vs それ以外の政治勢力”という図式をクローズアップさせる記述(第一次護憲運動・日独防共協定・南進論の高まり)、大正デモクラシーの規定が一般的なものに変更になったこと、田中義一内閣の対英米協調姿勢がはじめて明記されたことなどである。
p.294 美濃部達吉の憲法論
政党に基礎をおく内閣と軍部が対立するなかで,憲法学者美濃部達吉が政党内閣を支持する憲法論を公刊し(2),世論は立憲政治の大切さに目覚め,陸軍の横暴にいきどおった。明治天皇が死去して大正天皇が即位し,国民があたらしい政治を期待したことも,国民の政治への関心を高めた。
注(2)『憲法講話』(1912年)のなかで,美濃部は天皇機関説とともに政党内閣論をとなえた。
p.294 上原陸相の単独辞職
1912(大正元)年末2師団の増設が閣議で認められなかったことに抗議して,上原勇作陸相が単独で辞表を天皇に提出したため,政党に支持された西園寺内閣は総辞職に追いこまれた。
p.294 桂首相への非難
西園寺のあとをうけて,内大臣と侍従長とを兼任していた桂太郎が,第3次桂内閣を組織すると,宮中と政治の境界をみだすものという非難の声があがり,[コメント]
p.297-298 輸出拡大の原因
戦争によって,ヨーロッパ列強が後退したアジア市場には綿織物などの,また戦争景気のアメリカ市場には生糸などの輸出が激増し,貿易は大はばな輸出超過となった。[コメント]
p.298 重化学工業の比重
その結果,重化学工業は工業生産額のうち30%の比重を占めるようになった。[コメント]
p.299(注1) 民本主義
民本主義はデモクラシーの訳語であるが,主権 在民を意味する民主主義とは一線を画して主権在君を認めたものであった。しかし他方で,吉野は普通選挙制にもとづく政党内閣が下層階級の経済的不平等を是正すべきであると論じており,この面ではきわめて進歩的であった。[コメント]
p.301 三・一独立運動と植民地統治の変更
日本支配下の朝鮮でも民族自決の国際世論にはげまされて,独立を求める運動が学生や各種の宗教団体をふくめてもりあがり,1919年3月1日のソウルのパゴダ公園での独立宣言の朗読集会を機に,全国各地で独立運動が展開された(三・一運動,万歳事件)。日本の現地支配者は憲兵・警察・軍隊を動員してこれらの独立運動を弾圧したが,朝鮮総督資格者を現役軍人から文官にまで拡大し(3),憲兵警察を廃止するなどの部分的な譲歩もなされた。[コメント]
注(3)これにより総督の軍隊指揮権はなくなった。ただし,陸海軍人出身者以外の総督が任命されたことはなかった。
p.305 無政府主義と共産主義
労働運動の高まりのなかで大杉栄らの無政府主義と共産主義とは対立していたが,社会運動全体における共産主義の影響が増大し,1922(大正11)年7月には,堺利彦・山川均らによって日本共産党がコミンテルンの支部として非合法のうちに結成された。[コメント]
p.306(注1) 大正デモクラシー
第一次護憲運動から男子普通選挙制の成立までを「大正デモクラシー」とよぶことが多いが,普選をとおして労働組合法や小作法を成立させる運動が続いた政党内閣時代も「大正デモクラシー」にふくめる場合もある。さらに,日露戦争の講和に反対した民衆運動をこれにふくめる学説もある。このように「大正デモクラシー」という言葉は時代の雰囲気をあらわすもので,学問的に定義しきれないものである。[コメント]
p.306 護憲三派内閣
加藤内閣は,協調外交を基本とし,1925(大正14)年にいわゆる普通選挙法を成立させた。[コメント]
p.306-307 二大政党時代
1927(昭和2)年に若槻内閣が台湾銀行救済問題で退陣すると,政友会総裁の田中義一が後継内閣を組織し,野党となった憲政会は政友本党と合同して立憲民政党を結成した。これ以後1932(昭和7)年に犬養内閣がたおれるまで,政友会と民政党の総裁が交互に内閣を担当する二大政党時代が続いた(憲政の常道)(1)。[コメント]
注(1)おむね,政友会内閣は内政では保守的,外交では中国に対して強硬策をとり,財政では積極財政をとった。民政党内閣は内政では自由主義的で,中国に対しては不干渉主義,財政では緊縮財政であった。
p.307-313
[コメント]
p.310 英米協調と中国への強硬外交
幣原外交を批判してきた立憲政友会も1927(昭和2)年に政権につくと,欧米諸国との協調は維持し,同年ジュネーヴで開かれた日・英・米の3国が補助艦の制限のための海軍軍縮会議(ジュネーヴ会議)に参加したが,交渉はまとまらなかった。翌1928(昭和3)年にはパリで不戦条約にも調印した(1)。しかし,中国政策では全国統一をめざして北上する国民革命軍(北伐軍)から親日的な満州軍閥の張作霖をまもろうとして,日本人居留民の保護をかねて,1927〜28(昭和2〜3)年に3次にわたる山東出兵を行い,強硬外交に転じた。[コメント]
注(1)この条約は,国際紛争解決の手段としての戦争を行わないことを,「其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ」宣言したもので,翌年の批准にさいして,日本政府はこの部分は天皇主権の憲法を持つ日本には適用されないものと了解すると宣言した。
p.312 農山漁村経済更生運動
こうしたなかで農村救済請願運動が高まると,政府は1932(昭和7)年度から公共土木事業を行って農民に現金収入の途をあたえた。しかし,軍事費の膨張にともなってこの事業は縮小され,産業組合を中心に農民を結束させて「自力更生」をはからせる農山漁村経済更生運動が中心になっていった。[コメント]
p.316-323
[コメント]
p.316 第二次若槻内閣の外交政策
1928年末,中国では不平等条約撤廃・権益回収を要求する民族運動が高まり,国民政府は公式に満州における日本の権益回収の意向を表明するに至った(1)。1931(昭和6)年4月に成立した第2次若槻内閣の外交交渉では満蒙問題の解決は進まず,陸軍とりわけ関東軍は危機感を深め,武力によって満州を日本の勢力下におこうと計画した。
p.317(注2) 満州国の建国
関東軍には満豪の日本領土化の意図もあったが,軍部の慎重論もあり,中国本土と切りはなし,独立国とする計画を進めた。政府はこれを九カ国条約に違反するとして反対していた。[コメント]
p.318 斎藤内閣の成立
この一連の直接行動は支配層をおびやかし,五・一五事件のあと,元老西園寺公望は穏健派の斎藤実海軍大将を首相として推薦し(1),[コメント]
注(1)成立した斎藤内閣は非政党員の有力官僚を入閣させたが,立憲政友会・立憲民政党の有力者も閣僚とした。しかし,以後しだいに議員・党員の入閣数は減少していった。
p.323 防共協定調印の主導勢力
軍部の主導で,1936(昭和11)年,広田内閣が防共を旗印として日独防共協定を結び,[コメント]
p.328 南進論の高まりと反対派
陸軍を中心に,対米英戦を覚悟してもドイツと結んで南方に進出しようという空気が急速に高まった。こうした動きに対して議会内や政界上層部に反対の空気があったが,それをかえるだけの力はなかった(1)。[コメント]
注(1)1940(昭和15)年2月の議会で斎藤隆夫は,軍部に対する激しい批判演説を行い,軍の圧力のもとで議員を除名された。政界上層部の「親英米派」とよばれた人びともさまざまな攻撃をうけた。
p.329 日米交渉
日独伊三国同盟を締結し,この年4月に日ソ中立条約を結び,こうした力を背景にアメリカを屈服させようとしていた松岡洋右外相は,必ずしもこの日米交渉に積極的ではなかったが,近衛と軍部はこれを推進した。[コメント]
p.329 ABCD包囲陣に対する軍部の主張
アメリカは日本に経済制裁を加えることで対外進出を抑止しようとした。それに対し軍部は危機感をつのらせ,「ABCD包囲陣」による圧迫をはねかえすには戦争にうったえる以外に道はないと主張した。[コメント]
p.331 占領地域の独立と大東亜会議
東条内閣は,東南アジア地域の欧米植民地を独立させ,1943(昭和18)年にはその政府の代表者を東京にあつめて大東亜会議をひらき,アジアの欧米植民地からの脱却をうたった。
p.332 占領地域の抵抗
軍事占領の当面の目的が資源獲得にあり,そのため現地の歴史や文化を無視した軍政当局が,日本語の教育や神社参拝の強要,強制労働,集会の禁止などの施策をとり,またシンガポールその他の地域で残虐行為も行われたことから,住民の反感を招き,日本軍は各地でしだいに住民の抵抗運動になやまされるようになった(1)。[コメント]
注(1)日本の敗戦後,これらの運動は旧植民地支配者の軍と戦い,自力で独立をかちとり,結局,アジアにおける欧米の植民地は一掃された。
P.333
敗戦 アメリカ軍は1944(昭和19)年10月フィリピンに上陸,翌1945(昭和20)年2月硫黄島,4月沖縄本島に上陸した。[コメント]
p.304 平塚らいてうの表記
平塚らいてう(明)[コメント]
p.315 大正〜昭和初期の音楽
音楽では唱歌とともに童謡がさかんに歌われるようになり,山田耕筰らが作曲や演奏に活躍した。
p.319 高橋財政
赤字国債の発行による軍事費を中心とする財政膨張[コメント]
p.320 「右翼」か国家社会主義か
残った人びとは合同して社会大衆党を結成したが,その党もしだいに国家社会主義化していく傾向を示した。[コメント]
p.322 広田内閣の「国策の基準」
広田内閣は「国策の基準」を決定した。これは,大陸と南方とを日本中心にブロック化することを国策とし,外交刷新・国内改革を行っていくというものであった。これにしたがって対外的には日独防共協定を結び,華北分離策などを進め,大規模な軍備拡張計画が推進されていった。[コメント]
p.322 宇垣流産内閣
陸軍の穏健派宇垣一成[コメント]
p.322 林内閣の軍財抱合
林銑十郎内閣が成立し,軍部と財界との調整をはかったが(軍財抱合),[コメント]
p.324 「盧溝橋」の表記
盧溝橋事件[コメント]
p.324 日中戦争
この「事変」は,はじめ「北支事変」ついで「支那事変」と名称をかえたが,相互に宣戦布告をしなかったものの,実際には全面的戦争に発展していった。[コメント]
p.327 ドイツのズデーテン併合
ナチス=ドイツが積極的にヴェルサイユ体制の打破にのりだし,1938年オーストリアを併合し,さらにチェコスロヴァキアにも併合の手をのばした。[コメント]
p.329 皇民化政策
また朝鮮・台湾でも,日本語教育の徹底,姓名を日本風に改める創氏改名の強制などの「皇民化」政策が推進された。
p.330(注2) 真珠湾攻撃
アメリカに対する交渉打切り通告がおくれたため,日本は「だまし撃ち」の汚名をきることになった。またアメリカ人は「リメンバー・パール・ハーバー」と対日憤激を高めることになった。
p.332(注2) 植民地での徴兵・従軍慰安婦の徴集
朝鮮では1943(昭和18)年,台湾では1945(昭和20)年に徴兵制がしかれた。また女性の場合,戦地の軍の慰安施設で働かされたものもあった。
p.333 戦争末期の国民生活
兵器生産は1944(昭和19)年まで増加したものの,一般の工業生産は縮小していった。衣料では総合切符制がしかれたが,切符があっても物がない状況となり,成人1日2.3合( 330g)の米穀配給も,いもなどの代用品の割合がふえていった(1)。
注(1)開戦1年後の世帯調査では,購入回数のうち闇価格によるものが穀類では3分の1以上を,生魚介・乾物・蔬菜類では半分近くを占めていた。また,国民1人当りのエネルギー摂取量は1942(昭和17)年に 2000kcalを割り,1945(昭和20)年には1793kcalまで低下した。