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山川出版社『詳説日本史』(チェック版:日B519)
       −旧課程の赤版(日史039)との内容比較−≪近代(その1)≫

 幕末・明治期については、データが詳しくなったが、内容のうえで大きく変更された点はない。それでも、幕末の政治動向を単なる政権抗争としてではなく社会動向との関連で描こうとしている点、赤報隊の偽官軍事件が記述されたこと、議会の予算審議権に関して政府の同意なくして削減できない事項が存在していたことを明記した点、経済に関する記述が1か所にまとめられたこと、などには注目したい。


  1. 安政の五か国条約と貿易開始
  2. 討幕運動と幕末期の社会
  3. 赤報隊
  4. 軍制・警察制度の整備
  5. 地租改正
  6. 殖産興業
  7. 明治初期の外交
  8. 自由民権運動
  9. 内閣制度と宮中
  10. 議会開設の限界と意義
  11. 日清戦争
  12. 日露戦争
  13. 韓国の植民地化
  14. 地方改良運動
  15. 産業革命
  16. その他

安政の五か国条約と貿易開始

p.229 安政の五か国条約

この条約には,・・・(中略)・・,という条項をふくむ不平等条約であった。

p.229 開港

輸出入品の取引は,居留地において外国商人と日本商人(売込商・引取商)とのあいだで,銀貨を用いて行われた。
[コメント]
 安政の五か国条約については、赤版では「さらに日本が自主的に改正できない不平等条約であった」とあったが、「日本が自主的に改正できない」という記述が削除された。
 また、欧米諸国との貿易については、1859年に開始された貿易が居留地における貿易であること、貿易決済は銀貨で行われたことが追加記述された。 なお、項目「開港とその影響」のなかでは「在郷商人」という表現が用いられているのだが、近世では用いられていない。整合性をとって欲しかった。


討幕運動と幕末期の社会

p.234 幕末期の世相の混乱

開国にともなう経済の混乱と,政局をめぐる抗争は,社会の不安を大きくし,世相を険悪にした。国学の尊王思想は農村にも広まって,世直しの声は農民の一揆でもさけばれ(世直し一揆),長州征討の最中に大坂や江戸でおこった打ちこわしには,為政者への不信がはっきりと示されていた。
いっぽう,大和に天理教,備前に黒住教,備中に金光教など(3),のちに教派神道とよばれる民衆宗教がすでにうまれていたが,このころ急激に普及して,伊勢神宮への御蔭参りの流行とともに,時代の転換期のゆきづまった世相から救われたいという民衆の願いにこたえていた。1867(慶応3)年,東海・畿内一帯に熱狂的におこった「ええじゃないか」の乱舞は,宗教的形態をとった民衆運動として,討幕運動にも影響をあたえていった。
[コメント]
 記述そのものはそれほど変化はないが、構成が変化した。赤版では項目「討幕運動の展開」で第二次長州征討から王政復古の大号令までをまとめて記述し、そのあとで項目「幕末の社会と文化」で世相の混乱について記述していたが、チェック版では項目「討幕運動の展開」は第二次長州征討までとしたうえで、上記の世相の混乱についての記述を配置し、そのあとで項目「幕府の滅亡」のなかで、15代将軍慶喜のもとでの幕制改革から王政復古の大号令までを記述している。つまり、幕末期の政治動向を幕府と朝廷、薩摩などの雄藩との政権抗争としてのみ把握するのではなく、社会全体の変化のなかで描き出そうとしている、と言える。


赤報隊

p.237(注2) 赤報隊の偽官軍事件

征討軍のなかには,みずから組織した義勇軍をひきいた豪農・豪商もいたが,とくに下総(茨城県)の郷士相楽総三らの赤報隊は幕府領での年貢半減をかかげて東山道を東進し,農民の支持を得た。しかし,新政府は途中で相楽らを偽官軍として処刑した。
[コメント]
 赤報隊の偽官軍事件が山川の教科書でも記述されるようになった。
 ただ、明治維新では“無用の流血がなかった”とする思い込みが一部にあるようなので、偽官軍として処刑された理由も記すことで、彼らの処刑が“新政府にとっては”無用の流血ではなかったことを示して欲しかったとも言える。


軍制・警察制度の整備

p.240 徴兵令と警察制度

ここに近代国家としての軍制がととのい,国力の軍事的基礎ができた。同じころ,警察制度も整備され軍隊から独立した。東京府では1871(明治4)年に邏卒がおかれ,1874(明治7)年に東京警視庁が設置されると巡査と改称された。そのほかの地方の警察は,1872(明治5)年に司法省におかれた警保寮が統轄したが,翌年には新設の内務省の管轄となった。
[コメント]
 徴兵制度の導入について、赤版では「士族の特権をうばうこの兵制改革も、当初は負担の増大をきらう農民には歓迎されず、一部の地方で反対一揆がおこった」と記述されていたが、それが削除された。その分、警察制度に関する記述が詳しくなった(羅卒、警保寮など)。


地租改正

p.242 地租改正の完了年

1873(明治6)年7月,地租改正条例を公布して地租改正に着手し,1880(明治13)年までに山林・原野を残して完了した。
[コメント]
 赤版では「1879(明治12)年までにこれをほぼ完了した」と書かれていたが、年代が変更になっている。


殖産興業

p.243 お雇い外国人

政府は富国強兵をめざして殖産興業に力をそそぎ,お雇い外国人(2)の指導のもとに近代産業の育成をはかった。
注(2) 政府が雇い入れた外国人は,1875(明治8)年には 527人をかぞえたが,そのうち技術者が 205人を占め,学校教師 144人がそれについでいた。

p.243-244 鉄道・郵便・電信など

1870(明治3)年にもうけられた工部省は,1872(明治5)年に東京・横浜間,ついで神戸・大阪・京都間にも鉄道を開設し,開港場と大都市を結びつけた。また,旧幕府の経営していた佐渡・生野などの金属鉱山や旧藩営の高島・三池などの石炭鉱山を官営として経営した。
また政府は,軍備の近代化をはかるため,旧幕府の事業を母体とした東京・大阪の砲兵工廠や横須賀・長崎の造船所の拡充に力を入れた。通信では,1871(明治4)年に前島密の建議により飛脚にかわる官営の郵便制度が発足し(2),まもなく全国均一料金制をとった。また1869(明治2)年東京・横浜間にはじめて架設された電信線は,5年後には長崎と北海道までのばされ,また長崎・上海間に海底電線がしかれた。

p.244 洋式農業技術の導入

駒場農学校や三田育種場を開設して洋式農業技術の導入をはかり

p.244 新貨条例

1871(明治4)年に金本位をたてまえとする新貨条例を定め,円を基準に十進法を採用し,円・銭・厘を単位に新硬貨をつくったが,実際には開港場では銀貨が,国内では紙幣が主として用いられた。

p.245(注1) 私立銀行

また三井銀行をはじめ,私立銀行もふえはじめた。
[コメント]
 赤版では項目「殖産興業」は、(1)封建的諸制度の撤廃、(2)工部省による鉱山経営・砲兵工廠と造船所の拡充、(3)貿易収支改善のための製糸業奨励、(4)内務省のもとでの官営模範工場、(5)農業・牧畜の改良、(6)交通・通信制度の整備、(7)貨幣制度の整備、(8)政商、という構成になっていた。
 それに対してチェック版では、(1)お雇い外国人の雇用と封建的諸制度の撤廃、(2)工部省による鉄道建設・鉱山経営、(3)砲兵工廠と造船所の拡充と通信制度の整備・海運業の育成、(4)貿易収支改善のための製糸業奨励、(5)内務省のもとでの官営模範工場・洋式農業技術の導入、農業・牧畜の改良、(6)貨幣制度、(7)政商、という構成に変化した。
 内容の変更点は、(a)お雇い外国人を追加記述したこと、(b)工部省に関する記述と砲兵工廠と造船所に関する記述を異なる段落としたために、砲兵工廠と造船所の経営主体が曖昧化されたこと、(c)交通・通信制度というまとめ方をせずに、理由がよくわからないが、鉄道と郵便・電信・海運を分離したこと−郵便制度での全国均一料金制、電信線の架設は追加記述−、(d)駒場農学校・三田育種場を追加記述するとともに、農業・牧畜に関する記述と内務省に関する記述を同一の段落とすることにより、内務省が農業・牧畜を管轄していたと判断できるようになった、(e)新貨条例について、金本位制の採用と実際に通用した通貨を明記したこと、である。


明治初期の外交

p.248-249 台湾出兵

台湾での琉球漁民の殺害をめぐって清国とのあいだで琉球民保護の責任問題がもつれ,軍人や士族の強硬論におされた政府は,1874(明治7)年に台湾に出兵した(征台の役)。しかしイギリスの調停もあって,清国は日本の出兵を義挙として認め,事実上の償金を支払った。

p.249(注2) 江華島事件

1875年4月,朝鮮との開港交渉にあたっていた日本の使節は,朝鮮政府に圧力を加えるために海路測量を名目とする軍艦の派遣を日本政府に求めた。同年9月朝鮮から清国にかけての航路研究の任にあった日本の軍艦雲揚の艦長は,飲料水を求めるとして通告なしに艦のボートで江華島砲台に上陸しようとした。朝鮮側はこのボートを砲撃したので艦長は帰艦後,同砲台を砲撃し,ついで近くの島に上陸して永宗城を占領した。
[コメント]
 台湾出兵が「軍人や士族の強硬論におされた」ものであったことが新たに記述された。
 なお、「しかしイギリスの調停もあって,清国は日本の出兵を義挙として認め,事実上の償金を支払った。」の記述は赤版と変更ないのだが、段落わけが変更になっている。赤版での段落わけは次の通り。
「台湾で琉球の漁民が殺害される事件がおこって,清国との間で琉球民保護の責任問題がもつれ,ついに1874(明治7)年,台湾出兵(征台の役)にまで発展した。
 しかしイギリスの調停もあって,清国は日本の出兵を義挙として認め,事実上の償金を支払った。新政府は発足とともに朝鮮に国交樹立を求めたが,当時鎖国政策をとっていた朝鮮は,日本の交渉態度を不満として交渉に応じなかったので,1873(明治6)年,西郷隆盛・板垣退助らが征韓論をとなえた。」
チェック版になって文章構成がまともになった。
 江華島事件について、赤版では「朝鮮沿海を測量中の日本の軍艦が薪水をえるためとして江華島に接近したので朝鮮側がこれを迎撃し,日本側も応戦して同島砲台を破壊した」と記述されていたが、チェック版では日本の軍艦が朝鮮沿海を測量中であったことの背景、朝鮮側が迎撃した経緯が明記された。


自由民権運動

p.250 愛国公党

板垣退助・後藤象二郎らはイギリス帰りの知識人の力をかりて,愛国公党を設立するとともに民撰議院設立の建白書を左院に提出し
[コメント]
  愛国公党の設立が追加記述された。

p.253 立志社建白と愛国社再興

民権運動の中心であった立志社は,西南戦争の最中に片岡健吉を総代として国会開設を求める立志社建白を天皇に上表しようとしたが,政府に却下された。また立志社の一部が反乱軍に加わろうとしたこともあって,運動は一時下火になった。しかし,1878(明治11)年に,解散状態にあった愛国社の再興大会が大阪でひらかれたころから,運動は士族だけではなく,上層の農民,都市の商工業者,府県会議員などのあいだにも広まっていった。
[コメント]
  赤版では“立志社建白→民権運動がふたたび活発化→愛国社再興”という展開だったが、チェック版では立志社の一部が西南戦争の西郷軍に加担しようとした事件を加筆し、“立志社建白→運動が一時下火→愛国社再興で民権運動の広がり”という展開に変更された。

p.253 国会開設請願書

国会期成同盟を結成し,同盟参加の各地の政社の代表が署名した天皇や政府宛の国会開設請願書を太政官や元老院に提出しようとした。政府はこれを受理せず
[コメント]
  国会開設請願書の提出先と政府の対応を追加記述。

p.254 国会期成同盟第2回大会と自由党結成

国会期成同盟は同年11月に第2回大会を今度は首府東京で開いたが,運動方針について意見がまとまらず,翌年10月に各自の憲法草案をたずさえて再会することだけをきめて散会した。
散会後,参加者の一部は別に会合を持ち,自由主義政党の結成に進むことをきめた。翌81(明治14)年に参集したのは,主としてこのグループで,それを中心に10月に板垣退助を総理とする自由党が結成された。
[コメント]
  自由党結成の経緯に関する記述が変更になっている。赤版では「国会開設の時期が決まると,民権運動は政党の結成へと進んだ。1881(明治14)年,板垣退助を総理として,急進的な自由主義の主張をもつ自由党が結成され」とあったが、チェック版では結成経緯が正確に記述されるようになった。

p.254 大久保暗殺後の明治政府

1878(明治11)年に参議兼内務卿の大久保利通が暗殺されてから強力な指導者を欠いていた政府は,このような自由民権運動の高まりを前にして内紛を生じ,
[コメント]
  大久保暗殺が政府の内紛の遠因であることを示した。

p.256 松方財政の影響

しかも増税に加えて地租は定額金納であったので,農民層の負担は著しく重くなり,自作農が没落して土地を手放し小作農に転落した。いっぽう,地主は所有地の一部を耕作するほかは,小作人に貸しあたえて高率の現物小作料をとりたて,そのかたわら貸金業や酒屋などをいとなんで,貸金のかたに土地を集中していった。
[コメント]
  赤版の記述は「しかも地租は定額金納であったので農民層の分解がはげしくなり,自作農が没落して土地を手放し小作農になるいっぽう,地主への土地集中が進んだ。地主は,所有地の一部を耕作するほかは,小作人に貸し与えて高率の現物小作料を取りたて,そのかたわら貸金業や酒屋などを営んでいた。」というものだが、農民層の分解が少しはわかりやすくなった。

p.256 集会条例の改正

政府は,1882(明治15)年に集会条例を改正して政党の支部設置を禁止するとともに
[コメント]
  赤版では“集会条例の改正”としか記述されていなかったが、チェック版ではその改正内容が記述されるようになった。

p.257 自由党の解党

党員の統率に自信を失い,運動資金の不足もあって熱意を失っていた自由党の指導部は加波山事件の直後に解党した。
[コメント]
  赤版では解党理由を(1)党員の統率に対する自信喪失、(2)政府の弾圧へのおそれ、としていたが、チェック版では“政府の弾圧へのおそれ”が消え、かわって「運動資金の不足もあって熱意を失っていた」ことが指摘されている。


内閣制度と宮中

p.259 内閣制度の発足

この制度により,各省の長官は国務大臣として自省だけの任務に関しては天皇に対して直接責任を負い,国政全体に関しても総理大臣の下に閣議の一員として直接に参画するものとなった。
[コメント]
 赤版では「これにより総理大臣のもとに各省の長官が大臣として内閣を構成することになり,行政が簡素化された。」と記述されていた。赤版は太政官制との違いにのみ注目した記述であったが、チェック版ではそれに加えて内閣のしくみについても記述されるようになった。ただ、教科書の文章を読んだだけでは太政官制と内閣制度との違いに気づくことは難しいのではないだろうか。
 太政官制は、(1)太政大臣・左右大臣・参議が国政全体の協議に関与して国策を決定、(2)太政大臣・左右大臣が天皇を輔弼して天皇に責任を負い、(3)行政事務の執行機関である各省の長官はそれらには関与しない(1873年以降は、80〜81年を除いて、参議と各省長官は兼任されていた)、というシステム。このため、参議や各省長官が国政を協議・遂行するうえで重要な権限をもつとはいえ、権限行使に関する責任が彼らにあるわけではなくて責任の所在が不明確であったし、さらに岩倉具視右大臣が死去したあとは、三条実美太政大臣に統率力に欠けていたために政府部内の不統一や国務の停滞を招いていた。
 このような状態を打破するために内閣制度が採用されて、国政の責任を各省長官が負うことが明確にされ、さらに行政全体の統一性が確保された−実際には各省のセクショナリズムが前面にでてくるが−。太政官制からの変更点は、教科書の記述どおり、(1)各省長官が天皇に対して直接責任を負い、(2)各省長官が国政全体の協議に関与し、内閣総理大臣がそれを統轄する、という点。

p.259 宮中

この制度改正で宮内省(宮内大臣)は内閣の外におかれ,宮中の事務を総轄することになり,同時に御璽・国璽の保管者で天皇の常侍輔弼の任にあたる内大臣が宮中におかれた。これにより,初代総理大臣の伊藤博文は同時に宮内大臣を兼任したが,制度的には行政府と宮中の区別があきらかとなった。
[コメント]
 宮内省・内大臣の職務内容が明記されたことと、“府中と宮中の別”が明記されたことが変更点。なお、「宮内省(宮内大臣)」という表記は何を意味しているのだろうか。まさか、“宮内省の別称を宮内大臣と言う”というわけではないだろうが、しかしこのようなカッコ表記は“言い換え”とか、“呼称の明示”とかのケースに用いられるように思う。

p.260 国務大臣

内閣を構成する各国務大臣は,議会にではなく天皇に対して個別に責任を持つものとされ
[コメント]
 赤版では「天皇に対してのみ個々に責任をもつもの」と記述されており、「のみ」という表現を用いることで“議会に対しては責任をもたない”ことを逆に示していた。チェック版では「議会にではなく」が追加されて「のみ」という表現が削られたが、そのことによって“議会に対する責任があいまいであること”−帝国憲法では規定されていない−を暗示させている。
 こう書くと深読みか詭弁かのように見えるが、大正期〜昭和初期における憲法学説の通説であった美濃部達吉の天皇機関説を考えれば、「天皇に対してのみ」と断言してしまうのには無理がある。美濃部は第3条の“君主無答責”の担保として“大臣責任制”を積極的に位置づけ、天皇の無責任と国務大臣の責任を相関連づける。つまり、“国民の代表者としての議会が政治を論評して大臣の責任を問うことができるのであり、だからこそ大臣の助言に従って行動した君主は責任を問われない”として、内閣の議会に対する責任を実質的に確保していた。だから“国務大臣は天皇に対してのみ責任をもつ”とは言い切れないわけだ。
 もっとも、天皇機関説だけが唯一妥当な解釈ではなく、天皇機関説は国体明徴声明で政府により否定されてしまう−天皇機関説からすれば非立憲的な憲法運用だ!−のだから、“国務大臣は議会に対して責任をもつ”とも断定できないが。


議会開設の限界と意義

p.260 議会の予算審議権

議会の予算審議権には,憲法により種々の制限がつけられた(3)。
注(3)憲法で天皇大権と規定されている事項に関する予算案については,議会は政府の同意なくして削減できないと定められ(第67条),また予算が不成立の場合には政府は前年度の予算をそのまま施行することができた。

p.261 政党の影響力拡大

このように多くの制限はあっても,議会の同意がなければ予算や法律は成立しなかったから,政党は憲法の運用をつうじて,その政治的影響力をしだいに増大していった。
[コメント]
 赤版では「予算が不成立の場合には政府は前年度の予算をそのまま施行することができた。もっとも政府は予算の増額や新税・増税については両院の同意なしには行えず,このため政府が予算の増額や増税をするためには,衆議院に影響力をもつ多数党との妥協が必要となった。」とあり、議会の予算審議権を制約するものとしては内閣の前年度予算執行権だけが指摘され、それよりも議会が増税決定権を握っていることを内閣に対する強みとして指摘していた。ところがチェック版では、議会が増税決定権を握っていることの記述が消え−p.261の本文にそれに類する記述が加筆されている−、かわって予算のなかに議会が単独の判断では削減できない分野があることが明記されるようになった。つまり、軍事費などについては政府の同意がなければ議会が削減することができないことが、ここに明記されたのである。


日清戦争

p.262(注3) 山県有朋首相の「主権線・利益線」演説

山県は予算案の説明で,国境としての「主権線」とともに朝鮮をふくむ「利益線」の防衛のための陸海軍増強の必要を力説した。

p.266 日清戦争前の日本と清・朝鮮との緊張

天津条約の締結ののちも,日本政府は朝鮮に対する影響力の回復をめざして軍事力の増強につとめ,清国の軍事力(2)を背景に日本の経済進出に抵抗する朝鮮政府との対立を強めた(3)。
注(2)清国のほこる鎮遠・定遠などの軍艦は日本に寄港してその威容を誇示し,1886(明治19)年には軍艦から上陸した清国水兵が乱暴をはたらき,両国の関係が一時悪化した(長崎清国水兵事件)。
注(3)1889(明治22)年から翌年にかけて朝鮮政府は大豆などの穀物の輸出を禁じた(防穀令)。これに対し,日本政府は同令を廃止させたうえで,禁輸中の損害賠償を要求し,1893(明治26)年に最後通牒をつきつけてその要求を実現した。
[コメント]
 山県首相の「主権線・利益線」演説が追加記述された。また、日清開戦前の情勢として清・朝鮮側の対日強硬姿勢が強調され、日本が止むに止まれず日清戦争へ至ったかのような印象を与えている。


日露戦争

p.270-271 ロシアとの主戦論

国内世論も当初は戦争を好まなかったが,対露同志会などの運動で,しだいに開戦論にかたむいていった。
[コメント]
 赤版では「世論の大勢は圧倒的に開戦論にかたむいていった。」と記述されていたが、開戦論が世論の大勢となるにいたった要因として対露同志会の運動を取り上げることで、当初から“ロシアからの祖国防衛”という考えが世論の大勢であったわけではないことを示している。


韓国の植民地化

p.272 第3次日韓協約以降の過程

第3次日韓協約を結び,韓国の内政権もその手におさめ,ついで韓国の軍隊を解散した。それまで散発的におこっていた義兵運動は,解散された軍隊の参加を得て本格化した。日本政府は,1909(明治42)年に軍隊を増派して義兵運動を鎮圧したが,そのさなかに伊藤博文がハルビン駅頭で韓国の民族運動家安重根に暗殺される事件がおこると,憲兵隊を常駐させて韓国の警察権も奪った。こうした準備の上に立って,日本政府は翌1910(明治43)年に韓国併合を行って植民地とし,朝鮮総督府をおいた。
[コメント]
  韓国軍隊の解散、義兵運動への韓国軍隊の参加、義兵運動に対する日本政府の対応、伊藤暗殺後の警察権の奪取が追加記述された。

p.272 朝鮮の植民地統治

総督は当初武官にかぎられ,総督府のもとにおかれ,警察の要職は日本の憲兵隊が兼任した。総督府はまた,地税の整理と日本人地主の土地所有の拡大をめざして土地調査事業に着手し,1918(大正7)年に完了した(2)。
注(2)これによって小農民の没落が進み,その一部の人びとは仕事をもとめて日本に移住するようになった。
[コメント]
  全く新しい記述。


地方改良運動

p.274 地方改良運動

内務省を中心に地方改良運動を推進して,町村の租税負担力を強化し,割拠的な旧村落共同体秩序を町村のもとに再編して国家の基礎を強化しようとつとめた。この目的のため旧村落の青年会も町村ごとの青年会に再編されて,内務省や文部省とのつながりを強め,町村ごとの在郷軍人会も,1910(明治43)年の帝国在郷軍人会の設立によりその分会となった。
[コメント]
 赤版では「租税負担力を強化し,村落共同体秩序を再編して国家の基礎を強化しようとつとめた」とだけしか説明がなかった。


産業革命

p.274 産業革命の前提

1880年代前半に実施された松方正義デフレ政策のもとで,貿易は輸出超過に転じ,銀本位の貨幣制度がととのえられて,物価が安定し,金利が低下すると,株式取引が活発になって産業界は活気づいた。1886〜89(明治19〜22)年には鉄道や紡績などで会社設立ブームがおこり(最初の企業勃興),機械技術を本格的に導入する産業革命がはじまった。ブームは株式払込みの集中にともなう金融逼迫で挫折したが(1890年恐慌),これを機に日本銀行は,普通銀行をつうじて産業界に積極的に資金を供給する態勢をととのえた。

p.275 1900年恐慌

1900(明治33)年から翌年にかけて,綿花輸入増にともなう正貨減少をきっかけに資本主義恐慌がおこり

p.275-276 紡績業発展の前提

産業革命の中心となったのは紡績業であったが,綿糸を需要する綿織物業の回復がその勃興の前提となった。幕末以来の綿製品の輸入に圧迫されて,綿織物業は一時おとろえたが,原料糸に輸入綿糸を用い,手織機を改良して飛び杼をとり入れるようになり,農村での問屋制家内工業を中心に生産はしだいに回復していた。

p.276 大阪紡績会社

1883(明治16)年大阪紡績会社が開業し,政府の奨励する2000錘紡績の不振を尻目に輸入の紡績機械・蒸気機関を用いた1万錘規模の経営に成功した。

p.276 

日露戦後になると,大会社が合併などにより独占的地位をかため,輸入力織機で綿織物もさかんに生産し,販売組合を結成して朝鮮・満州市場への進出を強めた。

p.277 製糸業の役割

このように,綿糸・綿織物の輸出は増加したが,原料綿花は中国・インド・アメリカなどからの輸入に依存したため,綿業貿易の輸入超過はむしろ増加した。それだけに国産の繭を原料として生糸輸出で外貨を獲得する製糸業の役割は重要であった。

p.277 鉄道網の発達

官営の東海道線(東京・神戸間)が全通した1889(明治22)年には,営業キロ数で民営が官営を上まわり,山陽鉄道・九州鉄道などが幹線の建設を進め,日清戦後には青森・下関間が鉄道によって連絡された。

p.280 日露戦後の農村

日露戦後になると,地租や間接税の負担増のもとで,農業生産の停滞や農村の困窮が社会問題としてとりあげられるようになった。
[コメント]
 赤版では日清戦争前・日露戦争後に分けて記述してあったのが、「5.近代産業の発展」という形でまとめられ、そのため各分野別の整理がつきやすくなった。
 構成としては、まず最初の項目「産業革命」で、“企業勃興→金融制度の整備→資本主義の成立→貿易の規模拡大と入超への転換”という経済動向を俯瞰し、そのうえで、紡績・綿織物・製糸・鉄道・鉱山業、重工業の形成、財閥の形成と日露戦後の経済危機、農業と、主として業種ごとに説明をおこなっている。
 内容に関する主要な変更点は次の通り。
(1)日本銀行が普通銀行をつうじて産業界に資金を供給する態勢については、赤版でもすでに記述されていたが、チェック版ではそれが1890年恐慌に関連づけられて記述されている。
(2)紡績業が産業革命の中心となる前提として、綿織物業の生産回復を説明している。
(3)1900年恐慌の発生原因が追加記述された。
(4)紡績資本による兼営の織布工場について、「大会社が合併などにより独占的地位をかため,輸入力織機で綿織物もさかんに生産し」という記述では少し説明が不親切ではないか。赤版では明記されていたように、大紡績会社が兼営で綿織物業にものりだしたことを明記しておいた方がよかったと思う(“さらに輸入力織機を導入して綿織物の生産にものりだし”などのように)。
(5)紡績業・綿織物業と製糸業の関連が明確に記述された。
など。


その他

p.261 諸法典の整備

フランスの法学者ボアソナードらを中心に,おもにフランスに範をとった各種法典の起草を進め,1880(明治13)年には刑法と治罪法が交布された。その後,条約改正を進めるためもあり,民法と商法の編纂を急ぎ,1890(明治23)年には,民法,商法,民事・刑事訴訟法が公布された。

p.261(注2) 刑法

皇室への犯罪である大逆罪・不敬罪のほか,内乱罪を厳罰とする規定をもうけた。

p.270(注1) 大韓帝国の成立

朝鮮は1897年に,国名を大韓帝国と改めた。
[コメント]
  赤版では「大韓と改めた」と記述されていた。

p.271 ルーズヴェルトかローズヴェルトか

アメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトの斡旋によって
[コメント]
  Rooseveltのカタカナ表記が「ルーズヴェルト」から「ローズヴェルト」に変更になった。

p.281 労働組合期成会

労働組合期成会が結成され,鉄工組合や日本鉄道矯正会など,熟練工を中心に労働者が団結して資本家に対抗する動きがあらわれた。
[コメント]
  鉄工組合・日本鉄道矯正会という具体的な労働組合の名称が追加記述された。

p.292 東京の変容

●●東京の変容
人口10万人以上の都市に住む人びとは,1890(明治23)年には総人口の6%にすぎなかったが,1908(明治41)年には11%にふえた。
東京市発足時の人口は 110万人台であったが,1908年には約2倍の 210万人台にふえていた。東京市区改正条例(1888年公布)にもとづき,道路と上水道を中心に首都の体裁をととのえる事業が進められ,1899(明治32)年には淀橋上水場が開設された。
馬車鉄道は電車にかわり,1911(明治44)年には市有化され,また同年には万世橋・中野間で鉄道院の電車運転がはじまり,1914(大正3)年には東京駅が完成した。
丸の内では陸軍省から土地の払下げをうけた三菱が,つぎつぎとビルを建設して「一丁ロンドン」とよばれ,1911(明治44)年には帝国劇場が竣工し,観劇におとずれる紳士・淑女目あての貸自動車業もうまれた。このころには電灯も全世帯の半分に普及した。いっぽう,1903(明治36)年開園の日比谷公園は,旅順港占領や日本海海戦の戦勝祝賀行事の会場となったが,まもなく日比谷焼打ち事件の舞台となり,また市有化直後の市電でストライキがおこるなど,めぐまれない都市下層の人びとの不満も高まっていた。
[補足]
なお文化の項目のなかで、赤版には藤村操の「巖頭の感」の写真と解説記事が掲載されていたが、チェック版では消えた。


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