[教科書チェック/目次]
山川出版社『詳説日本史B』(日B001,2003年発行)の内容チェック
       −山川出版社『詳説日本史【改訂版】』(日B584,1998年発行)との内容比較−

≪全体的な特徴≫

 構成上の大きな変化としては,次の4点を指摘できる。

(1)「資料をよむ」「資料にふれる」というコラム記事が巻頭に設けられ,「長屋王の変」に関する資料がとりあげられている。

(2)「歴史の追究」というコラム記事が追加された。「法制の変化と社会」,「日本列島の地域的差異」,「世界の中の日本」,「日本人の生活と信仰」,「技術・情報の発達」の5テーマで,目次では「2つ程度の選択学習」と指示されている。

(3)「第1章 日本文化のあけぼの」と「第2章 律令国家の形成」の区切りが微妙に変化した。改訂版では第2章の初めで記述されていた磐井の乱が,第1章の最後,ヤマト政権の政治制度の説明のなかに組み込まれた。

(4)「第1部 原始・古代」と「第2部 中世」の区切りが変化し,中世の始まりが後三条天皇からとなった。第2部の最初は「第4章 中世社会の成立」で,その冒頭「1.院政と平氏の台頭」というセクションが「延久の荘園整理令と荘園公領制」から始められており,荘園公領制の成立が中世社会の幕開けであることを意識した構成となっている。実際,p.83には「こうして院政期には,私的な土地所有が展開して,院や大寺社,武士が独自の権力を形成するなど,広く権力が分化していくことになり,社会を実力で動かそうとする風潮が強まった。それらを特徴とする中世社会はここにはじまりを告げた」と記述されている。
ところが,「第2部 中世」の扉書きでは,日本史について次のように記述されている。
「世界の情勢がこのように推移するなかで,日本では12世紀後半に武士による政権が生まれ,各地で荘園・公領の支配権を貴族層からうばい,しだいに武家社会を確立していった。」
改訂版と全く同じである。これではなぜ後三条天皇から中世を始めたのかが理解できないし,中世がどのような時代か,特徴をつかむことができない。少なくとも「第3部 近世」や「第4部 近代・現代」くらいのスペースを割いて,中世がどういう時代か,概略を説明してほしかった。「歴史の追究 法制の変化と社会」のなかで,保元新制や建久新制について記述され,それらが中世国家の枠組みを規定したものとの評価が示されているので,余計に「第2部 中世」の扉書の不十分さが目立ってしまう。おそらく他の部分の改訂・追加に手いっぱいだっただめなのだろう。次の改訂のときに,記述が改善されることを期待したい。

 もう一つ,全体的な特徴としては指摘できるのは,天皇家系図での皇位継承順の表記法が変化したことである。改訂版までは「皇統譜」での表記に基づいていたが,当該の系図のなかでの相対的な順序だけを表記するようになった。

原始

細々としたところに改訂が施されているが,もっとも注意をひくのは氏姓制度についての記述である。

古代

大きな変化として,次の点を指摘することができる。

(1)推古朝をクローズアップさせる構成が改められ,推古朝以降の飛鳥が宮都として整っていく過程が重視されたこと,

(2)推古朝や大化改新といった諸改革の背景として対外的要因が重視されるようになったこと,

(3)王権のあり方とその変化に注意をはらった説明が随所に盛り込まれたこと−大化改新=王族中心の集権化→天皇と上皇(太上天皇)・皇后や有力皇族による王権分有→嵯峨朝=天皇への権力集中,という流れ−,

(4)受領の定義づけが変化し,受領の遥任についても説明されるようになったこと,

(5)10世紀段階で免税特権をもつ荘園が存在していたのかことが明記されなくなったこと,

(6)「武装=武士」という安易な定義が消えたこと(とはいえ「武士」そのものの定義はなされていない),

などが注目される。

なお,特徴とその展開がわかりやすくなった箇所がある一方,記述が変更されたことでかえってわかりにくくなったのではないかと思われる箇所もある。

中世

もっとも大きな変化は,<中世>の構成が変わった点である。院政期から<中世>が始められ,そのことにより<中世=荘園(公領)制社会>という性格規定が明確になった。

それ以外には細々とした点が修正・変更となっているが,そのなかでも注目されるのは次の通り。

(1)後嵯峨上皇のもとで整備された院評定制が明記されたこと

(2)経済のところで神人と供御人が追加記述されたこと(鎌倉時代は供御人のみで,室町時代のところに供御人と神人が登場する)

(3)<惣村の形成と土一揆>が<幕府の動揺と応仁の乱>よりも後に配置されたため,惣村の形成や正長の土一揆,嘉吉の土一揆よりも以前に,応仁の乱や山城の国一揆・加賀の一向一揆が記述され,両者の関連づけを考えようとする視点が放棄されたこと

(4)南村梅軒が消えたこと

である。

近世

大幅な変更はないのだが、ちょっとした記述の変更が評価の違いにつながっている箇所がいくつか見られる。注目されるのは次の通り。

(1)太閤検地の定義が変更になったこと(豊臣政権が実施した検地総体を太閤検地と呼ぶように変更されている)

(2)1592年の身分法令の説明が微妙に変更になったこと

(3)江戸幕府の直轄領の呼称から「天領」という表現が消えたこと

(4)門跡についての記述が追加されたこと

(5)「慶安の触書」が本文・史料から消えたこと

(6)江戸時代の身分制度について。まず、旧版では「士農工商とよんでいる」とされていたのが、「よぶこともある」に変更された点。次に「えた」が「かわた」との表記に変更された点(「えた」との呼称についても説明されているが)。

(7)鎖国下の対外関係に関する図版が4つ追加されたこと

(8) 北前船や内海船が追記されたが、具体的な説明がないに等しく、それらの台頭がどのような意味をもつのかが全く説明されていない

(9) 元禄文化の説明のなかから、地域的な広がりに関する説明がカットされていた

(10) 「在郷商人」との表現が江戸時代でも復活した

(11) 江戸初期の一揆が、土豪と百姓の一揆であったこと、土豪が兵農分離のなかで村々にとどまった「旧侍層」であることが説明された

近代

 幕末期については、細々とした加筆・修正・削除が加えられているものの、根本的な変更はない。しかし、<フランスへの依存を深める幕府とイギリスに接近した「開国進取」の薩摩藩・長州藩という対立構図>への単純化が図られている、とも思える。

≪現代≫