山川2003の変更箇所[目次][原始] [古代] [中世] [近世] [近代] [現代]
山川『詳説日本史B』(日B001、2003発行)
       −『詳説日本史【改訂版】』(1998発行)との内容比較−≪中世≫


もっとも大きな変化は,<中世>の構成が変わった点である。院政期から<中世>が始められ,そのことにより<中世=荘園(公領)制社会>という性格規定が明確になった。
それ以外には細々とした点が修正・変更となっているが,そのなかでも注目されるのは次の通り。
(1)後嵯峨上皇のもとで整備された院評定制が明記されたこと
(2)経済のところで神人と供御人が追加記述されたこと(鎌倉時代は供御人のみで,室町時代のところに供御人と神人が登場する)
(3)<惣村の形成と土一揆>が<幕府の動揺と応仁の乱>よりも後に配置されたため,惣村の形成や正長の土一揆,嘉吉の土一揆よりも以前に,応仁の乱や山城の国一揆・加賀の一向一揆が記述され,両者の関連づけを考えようとする視点が放棄されたこと
(4)南村梅軒が消えたこと
である。
  1. 構成の変化
  2. 延久の荘園整理令
  3. 院政
  4. 平氏政権
  5. 院政期文化
  6. 治承・寿永の乱
  7. 鎌倉幕府の成立
  8. 鎌倉時代の政治動向
  9. 鎌倉時代の経済
  10. 鎌倉文化
  11. 両統迭立
  12. 建武の新政
  13. 南北朝の動乱と室町幕府
  14. 室町時代の構成
  15. 室町幕府と守護大名
  16. 惣村と土一揆
  17. 室町時代の経済
  18. 室町時代の国際関係
  19. 室町文化
  20. 戦国時代

構成の変化
[コメント]
「第4章中世社会の成立」は,「1.院政と平氏の台頭」<延久の荘園整理令と荘園公領制>というセクションから始まっている。中世を<荘園公領制社会>として位置づけている。


延久の荘園整理令

p.79 延久の荘園整理令の影響

荘園整理によって貴族や寺社の支配する荘園と,国司の支配する公領(国衙領)とが明確になっていった。
[コメント]
延久の荘園整理令を画期として荘園と公領(国衙領)の領域的な区別がはっきりするようになったことが明記された。
しかし,このように荘園と公領の領域的な区別を明記するのなら,中世的荘園の特徴として<ひとまとまりの領域をもつこと>をきちんと説明すべきではなかろうか。そして,<かせだ荘絵図>も,ここに配置すべきではないか。

なお,この文章が追加されたうえで,旧版では「3.荘園と武士」<荘園と公領>のところに配置されていた文章が,微妙に表現を変えた形で続いている。

 貴族や寺社の支配する荘園がふえていったものの,国司の支配下にある公領もまだ多くの部分を占めていた。そこで,その地に力をのばしてきた豪族や開発領主に対し,国司は国内を郡・郷・保などのあらたな単位に再編成し,彼らを郡司・郷司・保司に任命して徴税を請け負わせた。また国衙では田所・税所などの行政機構を整備し,国司が代官として派遣した目代の指揮に従って在庁官人が実務をとるようになった。
 在庁官人らは,公領をあたかも彼らの共同の領地のように管理したり,荘園領主に寄進したりしたため,かつての律令制度のもとで国・郡・里(郷)の上下の区分で構成されていた一国の編成は,荘・郡・郷などが並立した荘園と公領で構成される体制(荘園公領制)に変化していった。
 整備された荘園や公領では,耕地の大部分は名とされ,田堵などの有力な農民に割りあてられ,彼らは名の請負人としての立場から権利をしだいに強めて名主とよばれた。名主は,名田の一部を下人などの隷属農民に,また他の一部を作人とよばれる小農民などに耕作させながら,年貢・公事・夫役などを領主におさめ,農民の中心となった。
ちなみに旧版の文章は以下の通り。
 貴族や寺社の支配する荘園が増大していったものの,一国のなかで国司の支配下にある公領(国衙領)もまだ多くの部分を占めていた。しかし豪族や開発領主の力がのびてくると,国司は国内を郡・郷・保などのあらたな単位に再編成し,彼らを郡司・郷司・保司に任命して徴税を請け負わせた。これに応じて国衙には田所・税所などの行政機構が整備されて,国司が派遣する目代のもとで在庁官人が実務をとるようになった。
 こうして郡司・郷司や在庁官人らは,公領をあたかも彼らの共同の領地のように管理したり,荘園領主に寄進したりしたため,かつての律令制度のもとで国・郡・里(郷)の上下の区分で構成されていた一国の編成は,荘・郡・郷などとよばれる荘園と公領で構成される体制に移行した。
 完成された荘園や公領では,耕地の大部分は名田とされ,田堵などの有力な農民に割りあてられ,彼らは名田の請負人の立場から権利を強めてゆき名主とよばれた。名主は,名田の一部を下人などの隷属農民に,また他の一部を作人とよばれる小農民などに耕作させながら,年貢・公事・夫役などを領主におさめ,農民の中心となった。

p.79 公領の再編成と国衙機構の整備

[コメント]
旧版では<公領が多く残る→「しかし」新たに郡・郷・保に再編成して開発領主たちに徴税を請け負わせた>との構成だったのが,新版では<公領が多く残る→「そこで」新たに郡・郷・保に再編成して・・・・>との構成に代わった。
また,旧版では<郡・郷・保への再編成>と<国衙機構の整備>が「これに応じて」との表現で接続されていたが,新版では「また」との表現に変更された。つまり,両者は単に並列的に実施された,相互に関連のない政策として説明されるようになった。


院政

p.81 院政開始略系図

[コメント]
「院政関係略系図」のなかでは藤原能信と茂子が実線(一本線)で結ばれているが,茂子は実子ではなく養女なのだから,それがわかるような表記すべきではないか。

p.81 院政開始の史料

[コメント]
史料「院政の開始」が『神皇正統記』から『中右記』に変更された。

p.83 院政期の社会の特徴(権門体制)

こうして院政期には,私的な土地所有が展開して,院や大寺社,武士が独自の権力を形成するなど,広く権力が分化していくことになり,社会を実力で動かそうとする風潮が強まった。それらを特徴とする中世社会はここにはじまりを告げた。
[コメント]
旧版では寺社勢力の強訴についての説明のなかで
かつて鎮護国家をとなえていた大寺院のこうした行動は,権力者が各種の私的な勢力に分裂し,法によらずに実力で争うという院政期の社会の特色をよくあらわしている。
と説明されていたのがカットされ,その代わりにセクション<院政期の社会>の最後に,まとめとして上記の文章が追加されている。
この表現は,新課程版で新たに追加された「歴史の探究1 法制の変化と社会」(p.58-59)のなかで次のように記述されていることに対応している言える。
律令・格式の編纂ののちに朝廷から出される法令はしだいに「新制」と称されるようになった。荘園整理令もその一つであるが,多くは朝廷の内部の規律や服飾の統制を内容としている。しかし,保元の乱後に出された保元の新制は,これまでになく大規模なものであった。王権による日本国の支配を宣言し,これにそって荘園整理をおこない,悪僧や神人の乱暴を取り締まるとともに,記録所による裁判の振興や京都の整備,内裏の再興など,天皇の支配権のもとに新たな法制が模索された。律令による整然とした国家システムが機能しなくなった段階において,荘園を基盤とする権門や,所領を開発して武威を発揮する武士,社会変動のなかで神仏の加護を求めて活動する僧や神人などを天皇のもとに統合して配置し,中世国家の基本的枠組みの整備をはかったのである。
ただ,<上皇(院)>と<天皇>,もしくは<治天の君>と<天皇>はどのように関連しているのか?と問いたくなるところだが.....。

p.83 武士の成長と奥州藤原氏

地方では各地の武士が館をきずいて,一族や地域の結びつきを強めるようになり,なかでも奥羽地方では,陸奥の平泉を根拠地として藤原清衡の支配が強大となった。奥州藤原氏は,清衡・基衡・秀衡の3代100年にわたって,金や馬などの産物の富で京都文化を移入したり,北方の地との交易によって独自の文化を育て,繁栄を誇った。
[コメント]
「館」は鎌倉時代のところで初めて記述されていたのが,院政期のところでも説明されるようになった。
奥州藤原氏の繁栄については,旧版では<後三年の役>のところ(つまり後三条天皇や院政開始よりも以前のところ)で説明されていたのが,セクション<院政期の社会>にそのまま配置替えされた。同時代性を意識した構成になった。


平氏政権

p.83 伊勢平氏

桓武平氏のうちで伊勢・伊賀を地盤とする伊勢平氏
[コメント]
旧版ではなかった「伊勢平氏」との表現が明記された。

p.84 平清盛

平治の乱後,清盛は後白河上皇を武力で支えて昇進をとげ,蓮華王院を造営するなどの奉仕をした結果,1167(仁安2)年には太政大臣となった。
[コメント]
旧版では「異例の昇進」としか表現されていなかったのだが,昇進の背景が新しく説明された。

p.84 平氏による地頭任命

清盛は彼ら(各地の武士団−引用者補)の一部を荘園や公領の現地支配者である地頭に任命し
[コメント]
鎌倉幕府の説明のなかで「平氏政権のもとでも一部におかれていた」と記述されているだけだったが,平氏政権のところで具体的に説明されるようになった。
ところで,地頭を「荘園や公領の現地支配者」と定義づけるのは妥当なのか?諸説あるというが,この説明では<荘官や郡司・郷司・保司>とどのように違うのかがわからない。

ちなみに,この教科書の執筆者の一人である五味文彦氏によれば,
<地頭>という語は,「そもそも荘園・公領の境界や係争の場を意味し、転じてその場に進出して、年貢・雑事などの納入を請負う武勇の輩を称するようにな」り,それゆえ,荘園・公領の「境界領域に権力を築いた武勇の輩は一般に「地頭の輩」といわれた」(「武家政権と荘園制」『講座日本荘園史2』吉川弘文館,p.122)。そして,「武勇の輩は、個別領域では下司として、境界領域では地頭として存在した」(同前)。

p.85 平氏政権の性格

 畿内から瀬戸内海をへて九州までの西国一帯の武士を家人とすることに成功した。
 しかし一方で,清盛は娘徳子(建礼門院)を高倉天皇の中宮に入れ,子の安徳天皇が即位すると外戚となった。その経済的基盤は,全盛期には日本全国の約半分にのぼる知行国と500余りの荘園であり,平氏政権は著しく摂関家に似たもので,武士でありながら貴族的な性格が強かった。
[コメント]
表現が微妙にかわっているのだが,なかでも「しかし一方で」との接続表現が用いられている点を注目したい。旧版では「しかもいっぽうで」と表現されていたのである。「しかし」との接続表現を用いると,一般的には「しかし」の後で説明されている内容が強調されることになる。つまり新課程版は,平氏政権の貴族的性格をよりいっそう強調する構成となった。

しかし,相変わらず<武士>と<貴族>を対立的に把握している。p.74で「武家」という新たな表現が導入された意味はどこにあったのだろうか?そもそも受領を歴任する人物は<貴族>ではないのか!?


院政期文化

p.86 田楽や猿楽

田楽や猿楽などの芸能は,庶民のみならず,貴族のあいだにも大いに流行し,祇園祭などの御霊会や大寺院の法会などで演じられた。

p.87 絵巻物

『源氏物語絵巻』は貴族の需要に応じて描かれ,『伴大納言絵巻』は都でおきた火事に取材した絵巻で,同じく朝廷の年中行事を描いた『年中行事絵巻』とともに,院政の舞台となった京都の姿を描いている。また『信貴山縁起絵巻』のような風景・人物を巧みに描いた作品や・・・(後略)
[コメント]
絵巻物の説明が詳しくなった。


治承・寿永の乱

p.88 挙兵の始まり

これ(以仁王の令旨−引用者補)に応じて,園城寺(三井寺)や興福寺などの僧兵が立ちあがり,つづいて伊豆に流されていた源頼朝や信濃の木曽谷にいた源義仲をはじめ,各地の武士団が挙兵して
[コメント]
旧版では<源頼朝や源義仲の挙兵>→<僧兵の挙兵>という構成だったのが,新課程版では逆になった。

p.88 平氏の都落ち

1183(寿永2)年,平氏は北陸で義仲に敗北すると,安徳天皇を奉じて西国に都落ちした。
[コメント]
平氏が都落ちしたきっかけが追加記述された。

p.89 十月宣旨

京都の後白河法皇と交渉して,東海・東山両道の東国の支配権の承認を得た(寿永二年十月宣旨)。
[コメント]
十月宣旨という用語が追加記述された。


鎌倉幕府の成立

p.90 鎌倉幕府の機構図

[コメント]
<頼朝時代>と<執権時代>に分けて図解されている。そのなかには「評定会議」や「引付会議」という表現が出てくる。

p.91 公武二元支配の機構図

[コメント]
新しい図解が追加された。そのなかで<将軍>のところに「日本国総守護総地頭」との表現が出てくる。

p.94 新補地頭と本補地頭

注(3) 乱後に新しく地頭をおく際に,これまでに給与が非常に少なかった土地では,あらたに基準(新補率法)を定めて新補 地頭の給与を保障した。その基準とは・・・(後略)
[コメント]
本文に「新補地頭」との表現がないにもかかわらず,この注のなかで唐突に「新補地頭」と記述されている。もし<乱後に新しく置かれた地頭>=「新補地頭」であるならば,その旨を本文なり注の最初なりで記述すべきだろう。
なお,旧版では「この基準が適用された地頭を新補地頭という。・・・(中略)・・それ以外の地頭は本補地頭として区別した。」とあったが,この注記では「新補地頭」は承久の乱後に新しく置かれた地頭全てを指すものとして表現されているように読める。

なお,鎌倉時代の地頭は一般に,複数の地頭職を広域的・全国的に保有していたが,承久の乱をきっかけにその傾向がより顕著になる。そうした地頭の所領支配のあり方について,どこかで説明がほしい。山川の教科書では<鎌倉時代の地頭=在地にねざした領主>というイメージしかでてこない。しかし,各地に散在する複数の所領の地頭職をもつものが,果たして<在地にねざした領主>たりえるのだろうか!?

p.96 鎌倉幕府の訴訟制度の仕組み図

[コメント]
幕府のもとでの訴訟制度の仕組みが新しく図解された。


鎌倉時代の政治動向

p.96 藤原頼嗣の将軍就任

時頼は前将軍の藤原頼経を京都におくり返して幼い頼嗣を将軍とし
[コメント]
藤原頼嗣が将軍に就任したのは1244年,執権北条経時のとき。これは誤り。

p.96 院評定制

(時頼は:引用者補)朝廷に政治の刷新と制度の改革を求め,これを受けて後嵯峨上皇により評定衆がおかれるようになり,幕府は朝廷の内部に深く影響力を持つようになった。
[コメント]
幕府の要請のもとで後嵯峨上皇のもとで院政の機構が整ったこと,それを通じて幕府が朝廷に影響力をより強くもつようになったことが明記された。

p.100 弘安の役

<東路軍・江南軍>の記述が消えた。

p.104 悪党と得宗専制政治

 中小御家人の多くが没落していく一方で,経済情勢の転換をうまくつかんで勢力を拡大する武士も生まれた。とくに畿内やその周辺では,荘園領主に対抗する地頭や非御家人の新興武士たちが,武力に訴えて年貢の納入を拒否したり,荘園領主に抵抗するようになった。これらの武士は当時悪党とよばれ,その動きはやがて各地に広がっていった。
 このような動揺をしずめるために,北条氏得宗の専制政治は強化された
[コメント]
悪党についての記述箇所が変更となっている。
旧版では<社会の変動>という鎌倉時代の経済・社会についてのセクションの最後のところで説明されていたのが,セクション<幕府の衰退>へと移った。悪党が鎌倉幕府滅亡へ向かう政治動向のなかに位置づけられたことは大きな変化である。
さらに,「経済情勢の転換をうまくつかんで勢力を拡大する武士」の一例として説明されるようになったのだが,「経済情勢の転換をうまくつか」むことと,「武力に訴えて年貢の納入を拒否したり,荘園領主に抵抗する」こととがどのように関連するのか。この説明では判断しにくい。
さらにいえば,経済情勢の転換を「うまくつかんで勢力を拡大する」武士だけが悪党と称せられたわけではない。悪党は元来,検断用語であって,その実態においては極めて多様である。それゆえ,経済情勢の転換とともに動揺していた荘園・公領の支配関係を再編成しようとした公武協調の徳政政策−永仁の徳政令がもっとも有名だが,北条時頼・後嵯峨院のころから既に展開している−と関連づけて説明してほしいところである。

なお,旧版では

中小御家人の多くが没落していくいっぽうで,経済情勢の転換をうまくつかんで勢力を拡大する武士もうまれた。とくに守護などのなかには,没落した御家人を支配下にいれて,大きな勢力をきずくものもあらわれた。  このような動揺をしずめるために,北条氏得宗の専制政治は強化された
と記述されていた。つまり,「経済情勢の転換をうまくつかんで勢力を拡大する武士」=「守護など」と定義づけられていたのである。北条氏得宗などが御家人を被官化していく動きが実際にあったにも関わらず,新課程版ではそうした守護など有力武士の動きについての説明がカットされてしまった。


鎌倉時代の経済

p.102 供御人

商工業者たちは,すでに平安時代の後期ごろから,同業者の団体である座を結成していたが,彼らは天皇家に奉仕する供御人となったり,貴族・大寺院などの保護者の権威にたよって,販売や製造についての特権を認められるようになった。
[コメント]
座についての説明がやや詳しくなり,その説明のなかで「供御人」が追加記述された。これなら,神人についてもここで説明があってよいのではないか。神人は<歴史の追究(1) 法制の変化と社会>p.58のなかで触れてあるのだから,なおさらである。

ところで,供御人と座の関係は逆ではないのか?
今回あらたに執筆者に加わった桜井英治氏の「中世・近世の商人」(『新体系日本史12 流通経済史』山川出版社、2002)に従えば,神人は10世紀,供御人は12世紀以降に登場し,それに対して座は,これら神人や供御人の組織のなかで,担当する神事や貢納品によって構成員を区別した下位組織として現れる(p.112-119)。そして,座としてもっとも有名な大山崎油座(正確には大山崎神人)は,構成員に明瞭な差異化が現れなかったため,ついに座とよばれることがなかったという(p.120-121)。
供御人について記述が追加されたのであれば,こうした研究成果に即した記述とすべきではなかったか。あえて供御人(や神人)と座との関係を逆転させて記述する,つまり誤った事実を記述する必要はないのではないか。


鎌倉文化

p.108 和歌

歌をよむことは教養のひとつであったから
[コメント]
源実朝のように作歌にはげむ武士が少なくなかったことについての記述の直前に,この文章が追加された。
この表現からすれば,武士にとっても<作歌=教養のひとつ>と判断でき,<作歌=公家文化への傾倒>とは評価されていない。

p.109 金沢文庫

鎌倉の外港としてさかえた六浦の金沢に金沢文庫を建て
[コメント]
「六浦の」が追加された。
山川『詳説日本史』には<鎌倉時代の鎌倉>についてのまとまった記述がないため,六浦をこうした形でしか説明できなくなってしまっている。奈良時代のところで平城京について説明しているのと同様に,鎌倉時代のところで鎌倉についてもキチンと説明しておくべきだろう(可能ならば京都についても)。

p.109 東大寺復興

重源はその資金を広く寄付にあおいで各地をまわる勧進上人となって
[コメント]
源頼朝が復興に力を注いだとの記述が消えた。

p.110 似絵

注(1) 似絵は肖像彫刻の発達とならんで,この時代に個性に対する関心が高まってきたことをよく示している。

p.111 おもな建築・美術作品

伝源頼朝像
[コメント]
旧版には<鎌倉幕府の成立>のところに「源頼朝像」が口絵として掲載されていたが,新課程版ではカットされ,さらに文化史の<おもな建築・美術作品>の一覧表のなかでは「伝」という表現が追記された。神護寺蔵の「源頼朝像」とされる絵画が源頼朝の肖像であるかどうかを疑問視する学説(足利直義を描いたものとされる)がある現状を反映したものといえる。

p.111 陶器

宋・元の強い影響を受けながら,尾張の瀬戸焼をはじめ,各地で陶器の生産が発展をとげた。それらの陶器は日本列島に広く流通し,京都・鎌倉をはじめとして,各地の湊や宿などの都市の遺跡から発掘されている。
[コメント]
新しく追記されたのは「それらの陶器」以下の記述だが,文化史のところで初めて「各地の湊や宿」について知るという構成になっている。セクション≪社会の変動≫のなかで湊や宿についてもキチンと説明しておくべきではなかったか。


両統迭立

p.114 両統迭立のきっかけ

後嵯峨上皇が亡くなると,皇室は後深草上皇の流れをくむ持明院統と亀山天皇の流れをくむ大覚寺統に分れて(中略)争い
[コメント]
後嵯峨上皇の死去が皇統分裂のひきがねとなっていることが明記された。

p.114 後醍醐天皇

後醍醐天皇は,皇位の安定をはかるために,院政を排して天皇親政を進め,天皇の権限強化をはかった。
[コメント]
後醍醐が院政を廃止したことの目的が「皇位の安定をはかるため」と記された。

p.114 皇室略系図

[コメント]
あいかわらず,光厳が<北朝>の最初に数えられている。「数字は皇位継承の順」と変更になったのであれば,「9 後醍醐」の次に皇位を継承したのだから「10 光厳」と表記されるべきだろう。さらにいえば,光厳天皇は北朝最初の治天の君だが,北朝最初の天皇として皇位を継承したわけではなく,北朝の皇位継承の順として(1)(実際は丸数字)として表記するのは誤りではないのか。


建武の新政

p.115 光厳天皇の廃位

後醍醐天皇はただちに京都に帰り,光厳天皇を廃して新しい政治をはじめた。
[コメント]
光厳天皇を廃したことが追記された。
この記述では,光厳天皇の即位・在位を否定したということではないのだから,それならばなおさら,系図に光厳天皇が後醍醐の次に即位したことが反映されてしかるべきだ。

p.115 建武新政の特徴

天皇への権限集中をはかり,すべての土地所有権の確認は天皇の綸旨を必要とするという趣旨の法令を打ち出した(2)。
[コメント]
旧版では「天皇親政の理想を実現」を目標としていたと説明されていたのが,単なる天皇親政ではないことが示唆されたといえる。
なお,注(2)は「後醍醐天皇は天皇政治の最盛期といわれた醍醐・村上天皇の親政を理想とした。」というものだが,注記の場所が間違えているのではないか。引用部分の直前に「天皇は,幕府も院政も摂政・関白も否定して」とあるが,そこに対する注記とすべきではないのか。

p.115 新政権の機構

現実には天皇の力だけでは治めきれず,中央には記録所や幕府の引付を受け継いだ雑訴決断所を設置し
[コメント]
<天皇への権限集中>(いわば天皇専制)と<記録所・雑訴決断所などの政治機構の整備>とが背反するものとして説明されている。しかし,記録所は後醍醐が親政を開始した直後から設けられていることからもわかるように,天皇への権限集中と対立するものではなく,逆に天皇を支える官僚機構と位置づけるのが適当だと思われる。

p.116 新政への武士の不満

天皇中心の新政策は,それまで武士の社会につくられていた慣習を無視していたため,多くの武士の不満と抵抗を引きおこし
[コメント]
本文の記述そのものは変更になっていないが,「それまで武士の社会につくられていた慣習」に対する注記がカットされたため,その慣習がいったいどのようなものなのかが分からなくなってしまった。
ちなみに,旧版についていた注記は下記の通り。
「貞永式目第8条の「現在の持ち主が,その土地の事実的支配を20カ年以上継続している場合,その土地の所有権は変更できない」という,武士の社会では不変の法とされたものが,無視される結果となる場合があった。」


南北朝の動乱と室町幕府

p.116〜120 構成の変化

[コメント]
旧版では <南北朝の動乱>→<室町幕府>→<守護大名と国人一揆>
という構成だったのが,新課程版では
<南北朝の動乱>→<守護大名と国人一揆>→<室町幕府>
という構成に変更された。
旧版では南北朝動乱がおさまった背景がわかりにくい構成だったのが,これにより,<守護による領国支配の形成を基礎として南北朝動乱がおさまり,室町幕府による全国支配が形成された>という理解が成り立つようになった。

p.116 建武式目

[コメント]
建武式目についての注記が消えた。

p.117 南北朝期における農村での共同体の形成

[コメント]
旧版にあった「同時に武士の支配に抵抗する,農村の共同体の形成も進んでいった。」との記述がカットされた。

p.117〜118 守護による国衙機能の吸収

守護は,基本的には幕府から任命されるものであったが,守護のなかには国衙の機能をも吸収して,一国全体におよぶ地域的支配権を確立するものもおり
[コメント]
守護の権限が基本的には幕府から与えられたものである点については,旧版でも記述されていたが,その箇所が変更となった。そのため,「国衙の機能をも吸収」する動きが守護の基本的な性格から逸脱したものであったことを意識させるための説明としてのみ機能する構成になっている。
なお,旧版では,<半済令・守護請・国衙機能の吸収→領国支配の形成>を説明したあとに,「守護大名の領国支配の権限は,基本的には幕府からあたえられたものであった。」と記述され,一国全体におよぶ地域的支配権を確立したことと限界があったこと(地域的支配権を確立したとは言い切れないこと)とが対比的に説明されていた。もちろん,新課程版でもそうした守護領国制の二面性について対比的に説明されているが,限界については国人の自立性の強さのみに限定されており,幕府の全国支配権を分掌する形で守護の領国支配が実現していたことは意識できない構成となっている。

p.118 懐良親王

[コメント]
旧版では,
「九州では,後醍醐天皇の皇子征西大将軍懐良親王をいただく菊池氏を中心とした南朝側の勢力が強く,動乱が長く続いた。しかし,義満が派遣した九州探題今川了俊(貞世)の手によってしだいに平定されていった。」
との脚注があったが,新課程版ではカットされた。

p.118 南北朝合一

注(2) 南朝の後亀山天皇が皇位を放棄して入京し,天皇は北朝の後小松天皇一人となった。
[コメント]
旧版では
「南朝の後亀山天皇が義満のよびかけに応じて京都に帰り,北朝の後小松天皇に譲位する形で南北朝の合体が実現した。」
と記されていたが,後亀山から後小松への「譲位」という形式についての説明がカットされた。
義満は,南朝のメンツをたてて後亀山から後小松への譲位という形式をとり,南朝を正統として尊重するかのような態度をとったが,実態としては<南朝の解消(解体)>でしかなかったわけで,実態に即した表現に変更になったといえる。

p.119 足利義満

義満は将軍としてはじめて太政大臣にのぼり,出家したのちも幕府や朝廷に対し実権をふるった。
[コメント]
旧版では次のような文章であった。
「義満は将軍としてはじめて太政大臣にのぼり,出家したのちも幕府や朝廷に対し実権をふるったので,将軍の権威は著しく高まった。」
このうち,「ので,将軍の権威は著しく高まった」がカットされ,以前の内容チェックで指摘していた論理の飛躍が是正された。


室町時代の構成

[コメント]
旧版では,<東アジアとの交易>→<琉球と蝦夷ケ島>と続いたあと,「2.幕府の衰退と庶民の台頭」が配置されていたが,新課程版では<東アジアとの交易>と<琉球と蝦夷ケ島>が「2.幕府の衰退と庶民の台頭」のなかの1セクションとして位置づけられ,その末尾に配置された。
また,「2.幕府の衰退と庶民の台頭」のなかは,旧版では<惣村の形成と土一揆>→<幕府の動揺と応仁の乱>の順序で構成されていたのが,新課程版では順序が逆となっている。そのため,正長の土一揆や嘉吉の土一揆が説明されるよりも以前に,応仁の乱や山城の国一揆,加賀の一向一揆が記述され,国一揆と惣村(あるいはその構成員である地侍や百姓)の成長との関連づけが消えてしまった。また,土一揆が自力で徳政を実現させるといった政治状況の出現が政治情勢にどのような影響を与えたのかを考えようとする視点が完全に消えてしまった。惣村や土一揆の政治的な位置づけを放棄したものと言える。


室町幕府と守護大名

p.120〜121 足利義教

6代将軍足利義教は,将軍権力の強化をねらって専制的な政治をおこなった。1438(永享10)年,義教は関東へ討伐軍をおくり,翌年,幕府に反抗的な鎌倉公方足利持氏を討ち滅ぼした(永享の乱)。義教はその後も有力守護を弾圧したため,1441(嘉吉元)年,有力守護の一人赤松満祐が義教を殺害した(嘉吉の変)。同年,赤松氏は幕府軍に討伐されたが
[コメント]
旧版での記述は次の通り。
「6代将軍に就任した義教は,幕府における将軍権力の強化をねらって,将軍に服従しないものをすべて力でおさえようとした。そのため,幕府とながらく対抗関係にあった鎌倉府とのあいだが決裂し,1438(永享10)年義教は関東へ討伐軍をおくり,翌年鎌倉公方の足利持氏を討ちほろぼした(永享の乱)。さらに,義教は専制政治を強行したため政治不安が高まり,1441(嘉吉元)年,処罰をおそれた有力守護赤松満祐は義教を殺害した。やがて赤松氏は幕府軍に討伐されたが(嘉吉の乱)」
微妙にしか変わっていないのだが,
(1)旧版での「幕府とながらく対抗関係にあった鎌倉府とのあいだが決裂し」がカットされ,新たに「幕府に反抗的な鎌倉公方足利持氏」と記述されたため,幕府と鎌倉府の対立関係があたかも鎌倉公方足利持氏の個人的なパーソナリティに起因するものであるかのような印象を与えている。
(2)「嘉吉の乱」が「嘉吉の変」へと表記が変わった。つまり,赤松満祐による将軍義教の謀殺だけを政治的事件としてとりあげ,(将軍義教の謀殺を発端とする)赤松満祐による幕府への反乱全体を政治的事件として把握するという視点が消えた。

p.120 享徳の乱

注(3) (前略)足利持氏の子成氏が鎌倉公方となったが,成氏も上杉氏と対立し,1454(享徳3)年に享徳の乱がおこって,関東は戦国の世に突入した。
[コメント]
享徳の乱が関東における戦国時代の幕開けであったことが追記された。

p.121 応仁の乱

当時,幕府の実権をにぎろうとして争っていた細川勝元と山名持豊(宗全)が,これらの家督争いに介入したために対立が激化し,1467(応仁元)年,ついに戦国時代の幕開けとなる応仁の乱がはじまった。
[コメント]
細川勝元と山名持豊が足利将軍家だけでなく畠山・斯波両氏の家督争いにも介入していたことが示された。
また,旧版では細川勝元が足利義視を支援し,山名持豊が足利義政・義尚を支援していたことが本文で明記されていたのだが,新課程版ではその説明がカットされた。

p.121 応仁の乱の東軍・西軍

注(2) 1467(応仁元)年5月,東軍が将軍邸を占拠して義政・義尚をかついだため,翌年11月,西軍は義視をさそい,東西二つの幕府が成立した。
[コメント]
旧版(改訂版)からすでに東西二つの幕府が成立していたことが記されていたのだが,そのきっかけとなった東軍の動きについての記述が微妙に変更となっている。旧版では「東軍が将軍邸を奪還して」とあったのが,新課程版では「東軍が将軍邸を占拠して」と変更されている。これは,乱発生当初の支援関係(細川勝元=義視,山名持豊=義尚)についての説明がカットされたことに対応したものと言える。
なお,応仁の乱で東西二つの幕府が成立したことを記すのなら,東国では享徳の乱のなかで鎌倉公方が分裂していたのだから(戦国時代の最初に説明されている,p.141),両方とも同じ箇所で説明してある方が同時代の全体状況を理解しやすいのではないか。

p.122 応仁の乱の影響

この争乱により,有力守護が在京して幕政に参加する幕府の体制は崩壊し,同時に荘園制の解体も進んだ。
[コメント]
旧版では「この争乱のなかで,幕府体制・荘園制が破壊されていった。」と記述されていたが,そのうち「幕府体制」の内容が具体的に説明された。


惣村と土一揆

p.122〜123 惣村

鎌倉後期,近畿地方やその周辺部では,支配単位である荘園や郷(公領)の内部にいくつかの村が自然発生的に生まれ,南北朝の動乱のなかでしだいに各地に広がっていった。

p.123 図版・惣村の構造

通常,支配単位である荘園・郷の内部には複数の惣村が存在し,さらに一つの惣村は複数の集落によって構成されていた。
[コメント]
荘園・郷保と惣村との関係が明確な形で説明された。

p.123 名主層

惣村は,古くからの有力農民であった名主層に加え,新たに成長してきた小農民も構成員とし
[コメント]
名主については旧版では
「加地子という地代をとる地主になりつつあった名主」
と説明されていたが,新課程版では加地子についての記述が消え,単に有力農民という性格規定だけに変更された。

p.124 惣村と土一揆

これらの惣村は,時には荘園・郷の枠を越えて,領主を異にする周辺の惣村と連合することもあった。そして,このような連合した農民勢力が,大きな力となって中央の政界に衝撃をあたえたのが,1428(正長元)年の正長の徳政一揆(土一揆)である。
[コメント]
荘郷を越えた広域的な連合についての記述箇所が変更となっている。旧版では,荘園領主や地頭などの領主支配が困難になっていった原因の一つとして説明されていたのだが,新課程版では土一揆の基盤として説明されるようになった。

p.124 正長の土一揆

1428(正長元)年の正長の徳政一揆(土一揆)である。惣村の結合をもとにした土一揆は徳政を要求し
[コメント]
旧版では,近江の馬借が蜂起したことが発端であったことが記述されていたが,それがカットされた。
もともと徳政一揆は,惣荘・惣郷を基礎とした土一揆集団の連合を母体としながら,馬借や武士なども多く取り込む形で成立していたが,新課程版では,そうした徳政一揆の複雑な構成については捨象し,徳政一揆を農民(百姓)勢力に単純化している。


室町時代の経済

p.126~127 座

(座の)
なかには天皇家・大寺社からそれぞれ供御人・神人の称号をあたえられ
[コメント]
鎌倉時代の経済のところで供御人が追加記述されたのに対応し,室町時代のところでも供御人が追加された。さらに神人も追加されたが,ここで記述するのならば鎌倉時代でも明記すべきであったろう。
なお,座と供御人・神人との関係が逆転していることについては,鎌倉時代の箇所を参照のこと。

p.127 座の具体例

注(1) 蔵人所を本所とした灯炉供御人(鋳物師)は,朝廷の権威によって関銭を免除され,全国的な商売を展開した。また大山崎の油神人(油座)は(後略)
[コメント]
供御人の具体例として灯炉供御人(11世紀半ばに成立)が追加記述され,大山崎の油座は「油神人(油座)」と表記が変更となっている。
ここから判断すると,執筆者は神人や供御人をメインとした記述に変更したかったものの,何らかの事情から(従来の教科書記述からの継承性を求める動きがあったのか?)座をメインとする記述を維持せざるを得なかったのかもしれない,と勘繰りたくなる。
なお,旧版では北野神社の酒麹座,祇園社の綿座も列挙されていたが,新課程版では消えた。

p.127 新しい性格の座

15世紀以降になると,座に加わらない新興商人が出現し,また地方には本所を持たない,新しい性格の座(仲間)もふえていった。
[コメント]
15世紀以降,近世につながる「新しい性格の座(仲間)」が増加したことが追記された。

p.128 兵庫北関入船納帳

注(2) (前略)1445(文安2)年の1年間に瀬戸内海の各港から,さまざまな荷を積んで兵庫港に出入りした船の数は,2700艘以上におよんだ。
[コメント]
旧版では「2400艘」だったのが,新課程版では「2700艘以上」に変更となっている。


室町時代の国際関係

p.129 明と足利義満

明のよびかけを知った足利義満は,1401(応永8)年,明に使者を派遣して
[コメント]
旧版では「国内の統一を完成した足利義満」だったのが,新課程版では「明のよびかけを知った足利義満」に変更されたが,この記述では,義満がそれ以前,すでに2度も明に使者を派遣していること(教科書には記述がない)との整合性がとれない。

p.130~131 寧波の乱後の動き

この争い(引用者補:寧波の乱)に勝った大内氏が貿易を独占した
[コメント]
旧版では寧波の乱そのものの勝者を明記していなかった。
ただ,確かに寧波の乱では大内側が細川船を焼打ちし,寧波で乱暴を働いたのだが,それが<勝利>なのだろうか。

p.131 応永の外寇の背景

注(2) 宗氏の当主が交代し,倭寇の活動が活発になったため
[コメント]
旧版では宗貞茂が明記されていたが,新課程版では消えた。

p.131 日朝貿易

注(3) (前略)これらの3港(引用者補:富山浦・乃而浦・塩浦)と首都の漢城(漢陽)に日本の使節の接待と貿易のための倭館をおいた。
[コメント]
倭館の設置場所として,漢城(漢陽)が追記された。

p.130 年表<中世後期の日明・日朝貿易>

[コメント]
年表が新しく追加され,そのなかには日朝貿易のところで「1512 壬申約定」が記されている。

p.131~132 那覇

王国の主都首里の外港である那覇
[コメント]
那覇の説明が追加された。

p.132 図版<首里城>

[コメント]
首里城の写真が新しく掲載された。それにともなって琉球の地図が消え,その説明のなかにあった
按司
も消えてしまった。
これは,「歴史の追求(2) 日本列島の地域的差異」(p.76~77)のなかで
南島地域でも貝塚文化が長く続き,12世紀にはグスクが,15世紀には地方小国家を統一した琉球王国の成立をむかえる。
と記述されていることに対応しているのかもしれない。しかし,これだけでは「グスク」とは何か,また北山・中山・南山の3地方勢力(三山)が成立したのがいつ頃なのかが全くわからない。

p.132 安藤(安東)氏

津軽の豪族安藤(東)氏
[コメント]
安藤氏が安東氏とも表記されることが追記された。

p.132 コシャマインの戦

大首長コシャマインを中心に蜂起し,一時は和人居住地のほとんどを攻め落としたが,まもなく上之国の領主蠣崎氏によってしずめられた。
[コメント]
旧版では
「大首長コシャマインを中心に蜂起し,和人居住地はほとんどせめ落とされた。わずかに上之国の領主蠣崎氏のみがもちこたえ,」
と書かれ,コシャマインの戦が鎮圧されたことについての記述がなかったが,新課程版では蠣崎氏によって鎮圧されたことが明記された。

p.132 図版<道南十二館と東北地方要図>

[コメント]
図版の説明のなかでは,「茂別館と蠣崎氏の花沢館以外は,コシャマインによって攻め落とされた。」と記述されている。


室町文化

p.133 特徴

幕府が京都におかれたことや東アジアとの活発な交流にともなって,武家文化と公家文化,大陸文化と伝統文化の融合が進み
[コメント]
武家文化と公家文化,大陸文化と伝統文化の交流・融合については旧版でも指摘されていたが,その背景説明が変更になっている。旧版では「政治的・経済的に公家を圧倒した武家が,文化的にもそのにない手として登場し」と書かれていたのが,新課程版では「幕府が京都におかれたことや東アジアとの活発な交流にともなって」と変更されている。

p.134 婆娑羅(婆佐羅・ばさら)

これら(引用者注:連歌・能楽・茶寄合)の流行をみちびいたのは,動乱のなかで成長してきた新興武士たちであり,彼らの新しもの好きの気質は,派手・ぜいたくを意味する
バサラ
の名でよばれた。
[コメント]
婆娑羅(婆佐羅・ばさら)についての記述が初めて追加された。
ただ,婆娑羅が「新しもの好きの気質」と規定されているのは,矮小化ではないか。婆娑羅という語は建武式目でも出てくるが,そこでは過差(かさ)を好む風潮として取り上げられており,そのことを前提とすれば,分を越えた,あるいは身分の格差を無視・軽視した行動や服装などを指すものと考えるのが適当ではないのか。<悪党>に代表される鎌倉後期以来の社会動向との関連づけが必要なように思う。

p.135 表<おもな建築・美術作品>

[コメント]
慕帰絵詞
が消えた。

p.137 図版<能面>

[コメント]
「小面(こおもて)」の図版が追加された。

p.138 狂言

[コメント]
狂言についての脚注が消えた。

p.139 図版<風流踊り>

[コメント]
「風流踊り(『洛中洛外図屏風』)」の図版が追加された。

p.139~140 セクション<文化の地方普及>

[コメント]
戦国時代のところに配置されていたものが,室町文化のなかにまとめて配置された。

p.139 南村梅軒

[コメント]
南村梅軒についての記述が消えた。
これは、江戸時代のところで
「戦国時代に土佐でひらかれたとされ,谷時中に受け継がれた南学(海南学派)」(p.193)
と書かれ、旧版にあった「南村梅軒によってひらかれ」との記述が消えたことと照応している。
なお、平凡社の世界大百科事典によれば「南学の祖として喧伝される南村梅軒は,大高坂芝山の捏造した架空の人物である」とされ、岩波の日本史辞典でも「近世、大高坂芝山「南学伝」において創作された人物の可能性が高い」と記されている。

p.140 法華一揆

[コメント]
旧版にあった「京都を戦火から守るため」との説明が消えた。

p.140 浄土宗

[コメント]
旧版では
「朝廷との結びつきを深めて京都で勢力を拡大した浄土宗は,さらに東国へと布教活動を広げていった。」
と説明されていたが,浄土宗の動きについての説明が全てカットされた。


戦国時代

p.141 鎌倉公方の分裂

関東では、享徳の乱を機に、鎌倉公方が足利持氏の子成氏の古河公方と将軍義政の兄弟政知の堀越公方とに分裂し
[コメント]
「享徳の乱を機に」が追加

p.142 戦国大名の具体例 [コメント]
東海・北陸・四国・九州についての記述が消えた。

p.142 戦国大名の分国支配

(2) 今川氏・武田氏など、守護出身の戦国大名も、このころには幕府の権威にたよることなく、実力で領国を支配していた。
[コメント]
戦国大名が「幕府の権威」に依拠せず領国支配を行ったことが脚注で記述された。
最近では、戦国時代においても室町幕府(将軍)の権威がそれなりの政治的効果をもっていたことが強調されてきているが、そうしたなかであえて、これを記述することで戦国大名の分権性、割拠性を強調したといえる。

なお、戦国大名が「新しい軍事指導者・領国支配者としての実力が求められた」こと、貫高制や寄親・寄子制を採用したことが、セクション<戦国大名>で説明され、セクション<戦国大名の分国支配>とは別個となっている。この構成は以前から変わらないのだが、戦国大名についての特徴説明である前者はともかくにしても、貫高制や寄親・寄子制が<戦国大名の分国支配>に組み込まれていないのは、構成として不適切ではないか。
また、貫高制と検地の関係が相変わらず示されていない。

p.143 戦国大名の家臣団構成 [コメント]
戦国大名の家臣団構成についての図が追加された。

p.144 楽市

これらの市場や町は、自由な商業取引を原則とし、販売座席(市座)や市場税などを設けない楽市として存在するものが多かった。戦国大名は楽市令を出してこれらの楽市を保護したり、商品流通をさかんにするために、みずから楽市を新設したりした。
[コメント]
楽市の説明がやや詳しくなり、市座が「販売座席」であること、楽市では「市場税」が設けられないことが追加された。

p.144 山科寺内町 [コメント]
山科寺内町の要図が追加

p.144 寺内町

(2) (前略)これらの寺内町は楽市でもあったが,やがて戦国大名などに掌握され,しだいに特権をうばわれていった。
[コメント]
旧課程版では
「これらの寺内町は,不入権・免税権などの特権を持ち,商取引が平等に行われる楽座(無座)などを原則とした楽市でもある場合が多かった。」
とあったが、説明が簡略化されるとともに、「多かった」という表現がなくなり、断定的表現に変わった。
また、戦国大名などによる特権剥奪については「やがて戦国大名などに掌握され,しだいに特権をうばわれ,住民は城下町に吸収されていった。」とあり、寺内町がいわば解体されてその機能が城下町へと吸収されていったと説明されていたが、それがカットされた。すべての寺内町が解体・吸収されるわけではなく、商業的な在郷町として存続していくことへ配慮なのだろう。

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