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山川『詳説日本史B』(日B001,2003発行)
       −『詳説日本史【改訂版】』(1998発行)との内容比較−≪原始≫


 細々としたところに改訂が施されているが,もっとも注意をひくのは氏姓制度についての記述である。


  1. 先土器文化
  2. 縄文文化
  3. 弥生文化
  4. ヤマト政権
  5. 古墳文化
  6. 氏姓制度
  7. その他

≪先土器文化≫

p.5-6 更新世の化石人骨

現在までに日本列島で発見された更新世の化石人骨は,静岡県浜北人や沖縄県港川人など,いずれも新人段階のものである。

p.7 旧石器時代の遺跡

注(1) 日本列島で発見されている旧石器時代の遺跡の多くは約3.5万年前以降の後期旧石器時代のものであるが,各地で中期(約3.5〜13万年前)や前期(約13万年以前)旧石器時代にさかのぼる遺跡の追究が進められている。

[コメント]
最近の研究成果や前期旧石器時代の遺跡捏造事件を反映した記述となっている。
なお,早乙女雅博「賢問愚問 人類の起源について」(『歴史と地理』555号,日本史の研究197,山川出版社)によれば,最近の研究成果にもとづくと,旧石器時代のものと確実に言えるのは港川人骨と浜北人骨のみ。聖岳(聖嶽)人骨は9990年前よりも新しく,三ヶ日人骨は縄文時代早期のもの,葛生人骨は15世紀頃のものとの研究もあり,さらに牛川人骨にいたっては人間の骨かどうかすら疑う研究が出ているとのこと 。


≪縄文文化≫

p.9 縄文農耕

縄文時代の人びとは,新しい環境に対応した。とくに植物性食料は重要で,前期以降にはクリ・クルミ・トチ・ドングリなどの木の実やヤマイモなどを採取するばかりでなく,クリ林の管理・増殖,ヤマイモなどの半栽培,さらにマメ類・エゴマ・ヒョウタンなどの栽培もおこなわれたらしい。また一部にコメ・ムギ・アワ・ヒエなどの栽培もはじまっていた可能性が指摘されているが,本格的な農耕の段階には達していなかった。
[コメント]
縄文農耕についての具体的な記述がかなり増えた。


≪弥生文化≫

p.12 弥生文化の成立期

紀元前4世紀初めごろには,西日本に水稲耕作を基礎とする弥生文化が成立し
[コメント]
弥生文化成立期が「紀元前4世紀初め」と修正された。

p.12 弥生時代早期

注(1) ・・・このように一部で稲作が開始されていながら,まだ縄文土器を使用している段階を,弥生時代の早期ととらえようとする意見もある。
[コメント]
「水稲耕作を基礎とする弥生文化」と規定しながらも,弥生時代という時期区分は“弥生土器を使用している段階”という意味で用いている,というズレが,はからずも表現されている。
なお,水稲耕作を基礎とする社会の成立にせよ,弥生土器の使用にせよ,日本列島全体でいえば,いわゆる「弥生時代」を通じて「一部」にすぎない。弥生文化だけを「弥生時代」と表記し,貝塚文化や続縄文文化については「〜時代」との表記をとらないことで,日本列島全体としてみた場合,弥生文化がスタンダードな文化であるかのような印象を与えている。

p.14 弥生文化における雑穀栽培など

地域によっては陸稲やさまざまな雑穀の栽培がおこなわれ,また農耕と併行して狩猟や漁労もさかんで,ブタの飼育がおこなわれたことも知られる。
[コメント]
ブタの飼育は改訂版で注で記されていたが,それに加え,水稲耕作以外に食料調達手段がさまざま存在していたことが明記された。とはいえ,「地域によっては」との但し書きがあることによって,水稲耕作で主たる食料を調達する地域が中心で,例外的に陸稲や雑穀の栽培が行われていたような印象を与えている。


≪ヤマト政権≫

p.19 「大和政権」の表記が「ヤマト政権」へと変化した。

p.27-28 支配制度の整備と倭王武(雄略朝)

ヤマト政権と政治制度 『宋書』倭国伝には,倭の五王が中国の南朝に朝貢して倭王と認められたことや,478年の倭王武の上表文に,倭の王権が勢力を拡大して地方豪族たちを服属させたという記事がみえる。5世紀後半から6世紀にかけて,大王を中心としたヤマト政権は,関東地方から九州中部におよぶ地方豪族をふくみ込んだ支配体制を形成していった。そのことは埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣銘と熊本県の江田船山古墳出土の鉄刀銘に「●加支鹵大王」の名と,統治をたすけた豪族の記載がみられることからもわかる。大王は,倭王武すなわち「雄略天皇」にあたる。
[コメント]
倭の五王が中国皇帝から「倭王と認められたこと」は旧版には記述がなかったが,ここで明記され,その上で,宋書倭国伝や金石文の記述に基づいた支配制度整備の概説が追加された。
なお,“「雄略天皇」”とカッコ付き表記となっているのが注目される。

ところで,ここで「倭の王権」との表記が初めて登場するが,「ヤマト政権」や「朝廷」との関連は説明されず,(1)“豪族(首長)たちの政治連合”総体,(2)大王と有力な王族,中央豪族によって構成される“政府組織”,(3)王族や中央豪族とは区別して存在する“大王とその権力組織”,という,3つの微妙に異なる意味が,それら3つの表記のもとで明確に区別されることなく,曖昧なまま表現されているように思える(注)。
なお,こうした混乱した用法が取り入れられたかわりに,旧版にあった「大王を中心に,儀式や政務が行われる場所のことを朝廷という。また朝廷という言葉は,大王やそれを中心とする政府の意味にも用いられる。」という脚注が消えた。

(注)
ヤマト政権
p.20「大和地方を中心とする政治連合をヤマト政権という」−(1)
p.27「大王を中心としたヤマト政権は,関東地方から九州中部におよぶ地方豪族をふくみ込んだ支配体制を形成していった」−(2)
p.28「氏単位にヤマト政権の職務を分担し」−(3)

王権
p.27「倭の王権が勢力を拡大して地方豪族たちを服属させた」−(4)
p.30「それまでの氏族単位の王権組織を再編成しようとした」−(5)
p.30「王権のもとに中央行政組織・地方組織の編成が進められた」−(6)
p.30「有力な王族や中央豪族は王宮とは別にそれぞれ邸宅をかまえていたが,王宮が集中し,その近辺に王権の諸施設が整えられると,飛鳥の地はしだいに都としての姿を示すようになり」−(7)
p.33「王権や中大兄皇子の権力が急速に拡大するなかで,中央集権化が進められた」−(8)

朝廷
p.29「蘇我氏は渡来人と結んで朝廷の財政権をにぎり」−(9)
p.33「大海人皇子は・・・大友皇子の近江朝廷をたおし」−(10)

(2)と(4),(3)と(5)を対比すると,「ヤマト政権」と「王権」がほぼ同じ内容をもつ言葉として用いられていることがわかる。さらに,(3)(5)(9)を並べてみると,それらと「朝廷」も同様の内容をもつことがわかる。
ところが,(1)と(2)を対比すると「ヤマト政権」は2通りの意味で用いられているのではないかとも考えられる。(1)の「ヤマト政権」は,古墳の出現の背後に想定することができる各地の首長による広域な政治連合(p.19)総体を指す言葉であるが,(2)の「ヤマト政権」は「地方豪族」を支配体制のもとへ編成していく主体であり,いわば政権中枢の勢力を指す表現とも取れる。
また(7)や(8)では,王族や中央豪族とは区別して存在する“大王とその権力組織”を指す表現として,「王権」という言葉が用いられているようにみえる。これは“豪族(首長)たちの政治連合”総体を指す表現ではなく,また,大王と有力な王族,中央豪族によって構成される政府組織(←(2)や(5),(9))とも区別される表現である。


≪古墳文化≫

p.19 古墳の出現時期

3世紀後半になると,より大規模な前方後円墳をはじめとする古墳が西日本を中心に出現する。
[コメント]
古墳の出現期が,旧版での「3世紀後半ないし4世紀初頭」との記述から「3世紀後半」と変更された。

p.19 図版・古墳時代中期の大型前方後円墳

[コメント]
旧版では古墳時代全般を対象とするものであったが,中期に限定した図版に変更となっている。なお,古墳時代後期に古墳文化が変化すること(p.24-25)を考えると,古墳時代後期についての図版(→白石太一郎編『朝日百科 日本の歴史別冊 歴史を読みなおす2 古墳はなぜつくられたのか』朝日新聞社,1995に所収)も欲しかった。

p.27 図版・沖ノ島の祭祀遺跡

[コメント]
沖ノ島の祭祀遺跡(復元模型)が図版として掲載され,
4世紀後半から8〜9世紀にわたる各時期の豪華な奉献品や大量の祭祀遺物が出土している。日本列島と朝鮮半島との海上交通の安全を祈る国家的な祭祀がおこなわれたと考えられる。
との説明が付されている。


≪氏姓制度≫

p.27 氏姓制度との呼称について

ヤマト政権は,5世紀から6世紀にかけて氏姓制度とよばれる支配の仕組みをつくりあげていった。
[コメント]
“氏姓制度が存在した”“氏姓制度が成立した”などと断定的に表現せず,“氏姓制度とよばれる”支配の仕組みが成立したと表現することで,氏姓制度が実態として存在していたのではなく,そこに存在していた「支配の仕組み」に“氏姓制度”との呼称が付せられているにすぎないこと,この時代の支配の仕組みを“氏姓制度”と称するのが妥当かどうか,微妙な問題であることを意識した表現法となっている。

p.27-28 ウジとカバネ

豪族たちは血縁やその他の関係をもとに構成された氏とよばれる組織に編成され,氏単位にヤマト政権の職務を分担し,大王は彼らに姓(カバネ)をあたえた。
[コメント]
旧版では
豪族は氏とよばれる血縁的結びつきをもとにした組織で,それぞれ固有の氏の名を持ち,首長(氏上)にひきいられて大和政権の内部で特定の職務を分担した。
と表現されていた。これと対比すれば,「その他の関係」や「編成され」との表現を用いることで(さらに言えば「それぞれ固有の氏の名を持ち」や「首長(氏上)にひきいられて」との表現をとらないことで),氏が血縁関係により社会的に形成された組織ではなく政治的につくりあげられた組織であることを強調する表現になっている−同じ一族であっても異なった“氏の名”でよばれることがあった−。氏の名と姓(カバネ)は,もともと,ヤマト政権を構成する地位や職に対して与えられた呼称であり,特定個人に付せられた呼称とみるべきだとの議論に配慮した記述だと言える−なお,ヤマト政権での地位・職は父系の一族によって世襲されることが多かったため,“氏姓”は個人ではなく集団を単位とする呼称としての性格をもつようになったとされる−。このあたりについては,篠川賢『日本史リブレット5 大王と地方豪族』(山川出版社,2001)が読みやすい。

p.28 磐井の乱と地方支配の進展

大王権力の拡大に対しては,地方豪族の抵抗もあった。とくに6世紀初めには新羅と結んで筑紫国造磐井が大規模な反乱を2年がかりで制圧し,北部九州に屯倉を設けた。ヤマト政権はこうした地方豪族の抵抗を排しながら彼らを従属させ,直轄領としての屯倉や,直轄民としての子代・名代の部を各地に設けていった。
[コメント]
旧版では第2章で記述されていた「磐井の乱」が支配体制の整備過程との関連において説明されるようになった。より同時代性を意識した構成となったが,このことにより“6世紀=ヤマト政権の動揺”というイメージが希薄になった。

p.28 国造

6世紀には地方豪族は国造に任じられ,その地方の支配権をヤマト政権から保障される一方,大王のもとにその子女を舎人・采女として出仕させ,地方の特産物の貢進,屯倉や子代・名代の部の管理をおこない,軍事行動にも参加するなどして,ヤマト政権に奉仕するようになった。
[コメント]
舎人や采女の出仕が初めて記述された。


≪その他≫

p.10 三内丸山遺跡

青森県三内丸山遺跡のように集合住居と考えられる大型の竪穴住居がともなう場合もある。

p.12 オホーツク文化

注(2) ・・・オホーツク式土器をともなうオホーツク文化が成立する

p.14-15 墳丘墓

盛り土をもった墓が広範囲に出現するのも,弥生時代の特色である。方形の低い墳丘のまわりに溝をめぐらした方形周溝墓が各地にみられるほか,後期になるとかなり大規模な墳丘を持つ墓が出現した。

p.15 加茂岩倉遺跡

注(1) ・・・また同県の加茂岩倉遺跡では39個の銅鐸が発見されている。

p.18 資料・魏志倭人伝の誤植=脚注(16)

三年(二二九年)の誤り。
これは誤植。正しくは「三年(二三九年)」。

p.28 カバネの実例

注(1) ・・・カバネの実例は,6世紀ころの島根県の岡田山1号墳出土大刀銘の「各(額)田部臣」 が古い。

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