山川2003の変更箇所[目次]/
[原始]
[古代]
[中世]
[近世]
[近代]
[現代]
山川『詳説日本史B』(日B001、2003発行)
−『詳説日本史【改訂版】』(1998発行)との内容比較−≪近世≫
大幅な変更はないのだが、ちょっとした記述の変更が評価の違いにつながっている箇所がいくつか見られる。注目されるのは次の通り。
(1) 太閤検地の定義が変更になったこと(豊臣政権が実施した検地総体を太閤検地と呼ぶように変更されている)
(2) 1592年の身分法令の説明が微妙に変更になったこと
(3) 江戸幕府の直轄領の呼称から「天領」という表現が消えたこと
(4) 門跡についての記述が追加されたこと
(5) 「慶安の触書」が本文・史料から消えたこと
(6) 江戸時代の身分制度について。まず、旧版では「士農工商とよんでいる」とされていたのが、「よぶこともある」に変更された点。次に「えた」が「かわた」との表記に変更された点(「えた」との呼称についても説明されているが)。
(7) 鎖国下の対外関係に関する図版が4つ追加されたこと
(8) 北前船や内海船が追記されたが、具体的な説明がないに等しく、それらの台頭がどのような意味をもつのかが全く説明されていない
(9) 元禄文化の説明のなかから、地域的な広がりに関する説明がカットされていた
(10) 「在郷商人」との表現が江戸時代でも復活した
(11) 江戸初期の一揆が、土豪と百姓の一揆であったこと、土豪が兵農分離のなかで村々にとどまった「旧侍層」であることが説明された
- ヨーロッパとの接触
- 織豊政権による天下統一
- 太閤検地と兵農分離
- 朝鮮出兵
- 桃山文化
- 江戸幕府の成立
- 幕府と藩の機構
- 朝廷・寺社との関係
- 門跡
- 村と百姓
- いわゆる士農工商
- えた
- 鎖国政策
- 寛永文化
- いわゆる文治政治期について
- 5代綱吉
- 新井白石の政治
- 江戸時代の農業発展
- 手工業
- 陸上交通
- 海上交通
- 商業の展開
- 貨幣と金融
- 三都
- 元禄文化
- 享保の改革
- 18世紀後半以降の社会の変容
- 百姓一揆と打ちこわし
- 田沼時代
- 寛政改革
- 列強の接近
- 文化・文政時代
- 天保改革
- 経済の近代化
- 雄藩のおこり
- 化政文化
≪ヨーロッパとの接触≫
p.147 ヨーロッパ人の東アジア進出
ヨーロッパ諸国は、イスラーム世界に対抗するために、キリスト教の布教、海外貿易の拡大などをめざして世界に進出した
[コメント]
ヨーロッパ諸国のアジア・アメリカ進出のきっかけについては、それまでは「その国力を海外へむけ」と書かれていただけで、ヨーロッパ諸国の国力充実がアジア・アメリカ進出の唯一の背景であったかのような印象を与えていた。それが、イスラーム世界との対抗関係を中心として描かれるようになった。
p.148 ポルトガル人の日本来航
1543(天文12)年にポルトガル人を乗せた中国人倭寇の船が、九州南方の種子島に漂着した。
[コメント]
旧版では「中国船」だったものが「中国人倭寇の船」に変更となった。
しかし、ポルトガル人が進出してきた時代の東アジア情勢については、後期倭寇の記述がなく、唐突の感をぬぐえない。倭寇が横行するという状況との関連のなかでポルトガル人の日本来港を描くという視座をとり入れて欲しいものだ。
p.149 キリスト教信者の数
[コメント]
旧版では「信者の数は1582(天正10)年ころには、肥前・肥後・壱岐などで11万5000人、豊後で1万人、畿内などで2万5000人に達したといわれる。」と信者数が明記されていたが、新課程版では消えた。
≪織豊政権による天下統一≫
p.149 織田信長
[コメント]
旧版では
「1567(永禄10)年には、美濃の斎藤氏をほろぼし、肥沃な濃尾平野を支配下においた。信長は、美濃の稲葉山城を岐阜城と改名し」
と濃尾平野に対する支配の確立と稲葉山城の改名について記述されていたが、新課程版ではともに消えた。
p.149~150 織田信長の入京
畿内を追われていた足利義昭を立てて入京し
[コメント]
旧版では「信長の力をたよってきた前将軍足利義輝の弟義昭をたてて入京し」とあったが、13代将軍義輝が消えた。義輝についての記述がまったくなければ、「前将軍足利義輝の弟」と説明したところで無駄な説明でしかないのだから、その意味ではカットされて当然だろう。
新課程版では、その代わりに「畿内を追われていた」と説明されたのだが、それならば、どういう状況で「畿内を追われ」ることになったのかについての説明がほしい。
そういう意味では、山川『新日本史』が
「明応の政変以降,細川氏も両派に分裂し,それぞれ足利将軍を擁立して畿内や細川氏の領国である阿波の国人層をも巻き込んだ抗争が続いていった。そのなかで,16世紀の半ばには,阿波国人三好長慶が細川氏にかわって畿内政権を樹立した。しかし,その死後,家臣の松永久秀が将軍足利義輝を殺害するにおよび,室町幕府は滅亡の危機をむかえた。」
と書いているように、戦国時代のところで畿内の状況をもう少し詳しく説明してもよいのではないか。
p.151 豊臣秀吉
尾張の地侍の家に生まれた秀吉
[コメント]
旧版では「農家」だったのが、「地侍の家」に変更となっている。
p.151 図版・秀吉の統一事業
[コメント]
図版「秀吉の統一事業」が追加
p.152 図版・天正大判
[コメント]
図版「天正大判」が追加
≪太閤検地と兵農分離≫
p.153 太閤検地
秀吉は新しく獲得した領地につぎつぎと検地を施行したが、これら一連の検地を太閤検地という。
[コメント]
旧版では次のように記述されていた。
「秀吉はあたらしく獲得した領地につぎつぎと検地を施行してきたが、天下統一の翌年の1591(天正19)年、全国の大名に対し、その領国の検地帳(御前帳)と国絵図の提出を命じた。
この検地帳は石高で統一することが求められ、この結果、全国の生産力が米の量で換算された石高制が確立した。そして、すべての大名の石高が正式に定まり、大名はその領知する石高にみあった軍役を奉仕する体制ができあがった。
この検地帳を作成するため、各地で統一した基準のもとにいっせいに検地が行われた。これら秀吉が実施した検地を太閤検地という。」
つまり、旧版では1591年の検地だけを指して太閤検地と称していたのが、新課程版では秀吉が実施した検地を総称して太閤検地と呼んでいる。
なお、旧版では
1591年の検地帳(御前帳)・国絵図の提出→石高制の確立→大名知行制の確立→度量衡の統一→村ごとの石高の算定→一地一作人
という順序で説明されていたが、新課程版では
度量衡の統一→村ごとの石高の算定→石高制の確立→一地一作人→1591年の検地帳(御前帳)・国絵図の提出→大名知行制の確立
という構成に変更され、わかりやすくなったのではないか。
p.153 天正の石直し
[コメント]
「天正の石直し」という用語が消えた。
p.154 刀狩令
土一揆や一向一揆などでは、これらの武器が威力を発揮した。そこで秀吉は一揆を防止し、農民を農業に専念させるため
[コメント]
「一向一揆」が新しく追加された。
p.154 1591年の身分法令
1591(天正19)年、秀吉は人掃令を出して、武家奉公人(兵)が町人・百姓になることや、百姓が商人・職人になることなどを禁じ
[コメント]
旧版では、武家奉公人についての説明として「武士に召使われている」との表現があったが、それが消えた。
p.154 1952年の身分法令
翌年には関白豊臣秀次が朝鮮出兵の人員確保のために前年の人掃令を徹底し
[コメント]
旧版では
「翌年、関白豊臣秀次が朝鮮出兵の武家奉公人や人夫確保のためにだした人掃令にもとづいて」
とあったが、「秀次が……だした人掃令にもとづいて」との記述が「前年の人掃令を徹底し」に変更となり、1592年に改めて人掃令が出されていないとも取れるような記述となった。
p.154 兵農分離
こうして、検地・刀狩・人掃令などの政策によって、兵・町人・百姓の職業にもとづく身分が定められ、いわゆる兵農分離が完成した。しかし、中世の惣村で生み出された自治的な村の運営方式は太閤検地後も続き、年貢などを村高にもとづいて村の責任で一括納入する村請も、江戸時代の村へと受け継がれていった。
[コメント]
「しかし」以降の記述が新しく追加され、江戸時代の身分制社会のあり方(諸身分は集団ごとに組織されている)についての記述への連続性が意識された。
なお、兵(武士)・町人・百姓の3つを基本的な身分として説明する視座(商人・職人を分けない)は、旧版から継承されたものだが、江戸時代の身分制度についての説明のあり方にもつながっている。
≪朝鮮出兵≫
p.156 文禄の役をめぐる講和交渉
しだいに戦局は不利になった。そのため現地の日本軍は休戦し、秀吉に明との講和を求めたが、秀吉が強硬な姿勢をとり続けたため交渉は決裂した(1)。
(1) 1593(文禄2)年からはじまった和平交渉では、和平の実現を急ぐ現地の武将たちの判断で、明の降伏や朝鮮南部の割譲などを求めた秀吉の要求は明側に伝えられなかった。
[コメント]
旧版では
「そのため秀吉は、明との講和をはかって休戦したが、秀吉の講和の条件は明の条件と大きく異なっていたため交渉は決裂した。」
「(1) 1593(文禄2)年からはじまった和平交渉では、明の降伏、朝鮮南部の割譲などの秀吉の要求は正確に伝達されなかった。」
とあったのが、随分と評価が変化した。変更点は、(1)休戦の主体が豊臣秀吉から現地の日本軍に変更となったこと、(2)交渉決裂の原因が秀吉の強硬な姿勢とされたこと、の二点である。そして(2)に関連して、秀吉の要求が明側に「正確に」伝達されなかった事情が説明された。
≪桃山文化≫
p.157 城郭
この時代の城郭は平地につくられ
[コメント]
旧版では、「軍事的・政治的な理由から、それまでの山城とちがって交通の便利な平地につくられ」と、平地につくられるようになった事情についても説明されていたが、新課程版では消えた。注(1)に類似の説明があることから、重複を避けたものと考えられる。
p.157 図版・姫路城の説明
1609(慶長14)年に竣工した。
[コメント]
旧版では「1614(慶長19)年に竣工した」と説明されていた。どちらが正しいのだろうか。ちなみに、岩波の日本史辞典では1614年までに完成、平凡社の世界大百科事典では1609年までに完成、と記されている。
p.159 南蛮文化の影響
この文化は江戸幕府の鎖国政策のために短命に終ったが、今日なお衣服や食物の名には、その影響が残っているものがある。
[コメント]
旧版では
「日本ではこれらの文化を積極的にうけいれ、今日なお衣服や食物の名には、その影響が残っているものがある。」
と説明され、織田信長がクラヴォやヴィオラなどの楽器による演奏を聞いたことも脚注で記されていた。
≪江戸幕府の成立≫
p.160 大御所徳川家康
家康は駿府に移ったが、大御所(前将軍)として実権はにぎり続け
[コメント]
「大御所(前将軍)として」が追加された。
p.161 三家(御三家)
注(2) (前略)親藩は三家(尾張・紀伊・水戸の3藩)など徳川氏一門の大名
[コメント]
旧版からなのだが、「御三家」とは表記されていない。
p.161 加藤氏の改易
3代将軍徳川家光も肥後の外様大名加藤氏を処分し、九州も将軍権力が広くおよぶ地とした。
[コメント]
旧版では加藤氏の処分に脚注がつけられ、そのなかで「加藤氏のあとには小倉から細川氏を転封し、小倉には譜代大名小笠原氏を封じて、九州も将軍の意のおよぶ地域とした。」と説明されていた。新課程版ではその脚注が消え、一部がやや表現をかえた形で本文に組み込まれた。詳細なデータを簡略化したと言えるが、「将軍権力が広くおよぶ」ということの内実がわかりにくくなったのではないか。
≪幕府と藩の機構≫
p.162 幕府直轄領の呼称
400万石(17世紀末)にもおよぶ直轄領(幕領)
[コメント]
旧版にあった「俗に天領という」という記述が消えた。
これで『詳説日本史』からは「天領」が消えたわけで、江戸幕府の直轄領を「天領」と教えている場合は注意が必要だ。
p.163 大老
臨時の最高職である大老は将軍代がわりなど、重要事項の決定のみ合議に加わった。
[コメント]
旧版では「最高職の大老は常置ではなく、重要事項のみ合議に加わった」と記されていたが、新課程版では大老がどういう際に設置されるのかが、一例だけだが明記された。
p.163 寺社奉行
注(1) (前略)寺社奉行のみが将軍直属で譜代大名から任命され、町・勘定奉行は老中支配下で旗本から任命されるようになった。
[コメント]
三奉行のなかで寺社奉行がもっとも格が高かったことが明示された。
≪朝廷・寺社との関係≫
p.164~166 構成の変化
[コメント]
旧版では「天皇と朝廷」「禁教と寺社」という二つのセクションが立てられていたが、新課程版では「朝廷と寺社」という一つのセクションに統合された。
そして、寺社統制に関しては、旧版は<禁教→寺社統制>という構成になっていたが、<寺社統制→禁教>という構成に変更となった。
p.165 神社統制と吉田家
神社・神職に対しても諸社袮宜神主法度を制定し、公家の吉田家を本所として統制させた。
[コメント]
吉田家についての記述が追加された。
p.165 日蓮宗不受不施派
注(4) 法華を信じないものの施しを受けず、また施しをせずとする日蓮宗の一派で、幕府権力よりも宗教を優越する信仰を持っていた。
[コメント]
日蓮宗不受不施派についての脚注が追加された。
≪門跡≫
p.165 門跡
幕府は皇子や宮家・摂家の子弟が入寺した門跡寺院が仏教諸宗の本山ともなることから、門跡を朝廷の一員とみなして統制した。
[コメント]
朝廷と寺社の説明の間に、これが追加されたのだが、なぜこの説明が追加されたのだろうか。
門跡(となった人物)がそもそも、皇族や摂家の子弟として禁中並公家諸法度の対象であったことを考えれば、「門跡寺院が仏教諸宗の本山ともなることから」との理由づけは不要である−幕府にとっての門跡とは、極論すれば、皇族や摂家の子弟の処遇問題でしかなかった−。
さらに、なぜ「仏教諸宗の本山ともなること」が「朝廷の一員とみな」すことにつながるのだろうか。<皇族や摂家の子弟が入寺した門跡寺院は仏教諸宗の本山ともなることから、門跡を寺院法度の対象として統制した>という説明ならわかるのだが、そうではない。極めて理解しづらい説明である。
また、江戸時代における門跡の権威は必ずしも仏教諸宗の権威を意味するものではないとされており(あくまでも皇統・天皇と東照宮を護持するものとしての、作為された宗教的権威にすぎない)、本山と関連づける必要はないだろう。
≪村と百姓≫
p.166 在郷町
注(3) 定期市などを中心に都市化した村を、在郷町とよんでいる。
[コメント]
在郷町についての説明が追加された。
なお、旧版ですでに、「村は農業を主とする農村がほとんどであるが、漁村や山村、在郷町のような小都市などもみられた。」との記述があり、「村」が“農村”や“集落”を指す用語ではなく、行政単位を表わす用語であることが示されていた。「村」という言葉を聞くとと、“農村”や“集落”がイメージされているのではないかと思われ、そのイメージを是正していく必要があるだろう。
p.168 17世紀半ばの百姓統制策
また、1642(寛永19)年の寛永の飢饉のあと村々へ出された法令にみられるように、日常の労働や暮らしにまでこまごまと指示を加えている(1)。
注(1) このような法令としては、1649(慶安2)年に幕府が出したとされる「慶安の触書」が有名であるが、最近はその存在に疑問が出されている。
[コメント]
慶安の触書が本文から消え、存在が疑問視されていることが明記された。なお、掲載史料も「1642年の農民法令」に変更となっている。
≪いわゆる士農工商≫
p.170 「士農工商」の呼称
武士は(中略)。被支配身分としては、農業を中心に林業・漁業に従事する百姓、手工業者である職人、商業を営む商人を中心とする都市の家持町人の三つがおもなものとされた。こうした身分制度を士農工商とよぶこともある。
[コメント]
旧版からの変更点は最後の部分。旧版では「士農工商とよんでいる」とされていたのが、「よぶこともある」に変更された。ただし、“どういう場合に”あるいは“どのような人々が”「よぶこともある」のかが説明されておらず、このように説明が変更されたことの意図、意味が読み取りにくい。ちなみに、山川『新日本史』では
「儒者たちは,こうした身分に上下の序列をつけ,「士農工商」とよんでいる。」
と書かれている。こうした類いの説明か脚注があってしかるべきだろう。『詳説日本史』にしばしば見られる不親切な記述の一例といえる。
≪えた≫
p.170 「えた」と「かわた」
下位におかれたのが、かわた(長吏)・非人である。かわたは百姓と同じように村をつくり、農業をおこない、皮革の製造やわら細工などの手工業に従事したが、死牛馬の処理や行刑役などを強いられ、江戸幕府の身分支配のもとで「えた」という蔑称でよばれた。
[コメント]
「えた」が「かわた(長吏)」に置き換えられた。
「えた」も「かわた」も中世以来、使われていた呼称だが、「かわた」は自称としての側面が強く、それに対して「えた」は(斃牛馬の処理者への)蔑称として用いられた側面が強く、江戸幕府により公式の呼称として「えた」が採用・適用された。その経緯に即した変更だといえる。
さらに、p181の生類憐みの令についての脚注で
その結果、死んだ牛馬を片づけるかわた(長吏)などの仕事は、社会的に不可欠な重要な役割となりながら、穢れ感がともなうとの考え方が広まり、差別意識が強化された。
との説明が追加されたこととあわせ、「えた」に対する差別意識がどのように広がっていったのかが表現されることとなった。
≪鎖国政策≫
p.172~174 構成の変化
[コメント]
禁教政策や島原の乱についての具体的な記述が配置替えされ、セクション「鎖国政策」のなかに組み込まれた。
p.173 島原の乱
1637(寛永14)年に島原の乱がおこった。この乱は(中略)土豪や百姓の一揆である。
[コメント]
旧版では「農民の一揆」と説明されていたのが、構成員に「土豪」を含むことが本文に明記された(「有馬・小西氏の牢人」が含まれることは旧版から書かれていたが)。ただし、ここでは「土豪」の説明がなく、p.201で次のように説明されている。
17世紀の初めには,徳川幕府の支配に抵抗する土豪(3)をまじえた武力蜂起や村ぐるみでの逃散など,まだ中世の一揆のなごりがみられた。
(3) 兵農分離の際に,村にとどまった有力な旧侍層を土豪という。
この記述を総合すれば、「土豪」を含むことが本文に明記されたことは、島原の乱(島原・天草の一揆)を中世的な一揆のなごりとする評価が示されたものと言える。ただし、p.201(百姓一揆の説明)との関連づけはなされていない。
p.174 島原の乱関係図
[コメント]
図版「原城を攻める幕府軍」が新規に掲載された。オランダ船が原城攻撃に参加している様子を描いた図版の方が面白いと思うのだが.....
p.174 いわゆる鎖国政策と貿易
幕府が対外関係を統制できたのは、当時の日本の経済が海外との結びつきがなくとも成り立ったためである。
[コメント]
これは旧版から変更されていないのだが、あえて掲載しておく。
「日本の経済が海外との結びつきがなくとも成り立った」のなら、なぜ「長崎貿易」が行われるのだろうか?それとも、鎖国政策が採用されるなかで貿易額は極度に縮小したというのだろうか?
次に紹介する説明と矛盾しているように思えるのは、私だけなのだろうか。
p.175 明清交替と長崎貿易の拡大
中国東北部からおこった満州民族の清が成立したが、明清の動乱がおさまると長崎での貿易額年々増加した。幕府は輸入の増加による銀の流出をおさえるため、1685(貞享2)年オランダ船・清船からの輸入額を制限し
[コメント]
旧版では
「中国東北部からおこった満州民族の清朝が成立した。清船は明船にかわって長崎へ来航し、貿易額は年々増加した」
とあり、明が滅亡し、清が中国支配に乗り出した17世紀半ばに、清船の長崎への来航・貿易が増加したかのような印象を与えていた。
ところが、新課程版では「明清の動乱がおさま」った時期(これがいつかは明記されていない)になって来航・貿易が増加したと明記された。それにより、1685年の輸入額制限策との時期的なズレが生じることがなくなった。
なお、輸入制限が「銀の流出」抑制のためであったことが明記された。
p.176 琉球使節の来日
注(3) (前略)あたかも「異民族」としての琉球人が将軍に入貢するように見せた。
[コメント]
旧版では「あたかも「異民族」としての琉球人が将軍に入貢するかにみえた」と書かれていた。この変更により、幕府による演出という性格がより強調された。
p.175~177 鎖国下の対外関係関連の図版
[コメント]
次の4つの図版が新しく追加された。
「日本中心の外交秩序」「通信使(『朝鮮通信使行列絵巻』)」「琉球使節の江戸上り(『琉球中山王両使者登場行列図』)」「アイヌの参賀の礼(『蝦夷国風図絵』)」
[コメント]
幕府が宗氏・島津氏・松前氏を取り次ぎとする形で朝鮮・琉球・蝦夷(アイヌ)を服属させているかのような外交秩序を演出していたことを意識させようとしているかに見えるが、それならば、そうした説明が具体的に欲しいところ。
≪寛永文化≫
p.178 本阿弥光悦について
[コメント]
旧版にあった「家康から洛北鷹ヶ峰の地をあたえられて移り住み」とのデータが消えた。
p.178 朝鮮人陶工と陶磁器生産
文禄・慶長の役の際に、諸大名が連れ帰った朝鮮人陶工の手で登窯や上絵付けの技術が伝えられ、九州・中国地方の各地で陶磁器生産がはじめられた。
[コメント]
登窯、上絵付けが新しく追記された一方で、「お国焼」との表現が消えた。
≪いわゆる文治政治期の構成について≫
[コメント]
<4代家綱〜7代家継>をまとめて説明するスタイルが以前から採用されているが、4代家綱期に主従関係が安定し、小農経営が確立するといった点に注目するならば、<3代家光>と<4代家綱>をセットにして説明するというスタイルがあってよいと思う。さらに言えば、中国での「明清の動乱」がおさまるのも、また蝦夷地でシャクシャインの戦いが起こるのも4代家綱期である。対外関係からいっても<3代家光>と<4代家綱>をセットにすることは十分可能である。
さらにいえば、<4代家綱>から<5代綱吉><6代家宣・7代家継>にかけての政治を“文治政治”もしくは“文治主義”でまとめて特徴づけるというスタイルは、すでに旧版でも採られておらず(武家諸法度天和令の説明のなかにのみ「いわゆる文治主義」という語句が登場)、<4代家綱>と<5代綱吉>以下をセットにして説明する必然性が必ずしもあるわけではない。
このように<3代家光>と<4代家綱>をセットにするという新しい構成を考えてもよいと思う。
そのうえで、<5代綱吉>の説明へと進む前に<経済>の説明を配置するのが妥当ではないか。なにしろ、貨幣の概説をしていない段階で元禄金銀の改鋳もくそもないだろう。また、経済状況を説明してこそ、この時期の幕府財政の窮乏も理解できるのではないだろうか。
≪5代綱吉≫
p.180 武家諸法度天和令
[コメント]
史料として「武家諸法度天和令」(第1条、末期養子の禁の緩和、殉死の禁止)が新たに掲載された。
p.181 生類憐み令
野犬が横行する殺伐とした状態や、他人の飼犬までも殺生することを辞さない社会に不満をいだくかぶき者などの存在を、戦国遺風ともども断つことにもなった(1)。
注(1) (中略)その結果、死んだ牛馬を片づけるかわた(長吏)などの仕事は、社会的に不可欠な重要な役割となりながら、穢れ感がともなうとの考え方が広まり、差別意識が強化された。
[コメント]
「野犬が横行する殺伐とした状態」が追記されたが、相変わらず、生類憐み令の出された意義がわからない記述である。
もちろん、野犬の取締り、かぶき者の取締り、かわたへの差別意識の強化といった影響は説明してある。しかし、綱吉の政治総体(あるいは文治政治という全体的な特徴)とどのように関連するのかが分からない。
また、旧版からある記述だが、「戦国遺風」とは具体的に何なのだろうか。
≪新井白石の政治≫
p.182 朝鮮からの国書での将軍表記の変更
注(2) 「大君」が「国王」より低い意味を持つことをきらったもので
[コメント]
旧版では、これに続いて「一国を代表する権力者としての将軍の地位を明確にした。」と説明されていたが、新課程版ではカットされた。そのため、「国王」との表記へ変更させることの積極的な意味が分かりにくくなった。
≪江戸時代の農業発展≫
p.182~183 農業発展と鉱山開発
近世の前期に、幕府は鉱山の開発を直接こころみたが、そのなかで採掘・排水・精錬などの技術が進歩し、17世紀初めに、日本は当時の世界でも有数の金銀産出国になった。鉱山で使われた鉄製のたがね・のみ・槌などの道具や掘削・測量・排水などの技術は、治水や溜池用水路の開削技術に転用された。その結果、河川敷や海岸部の大規模な耕地化が可能となり、幕府や諸藩も新田開発を積極的におこなったため、全国の耕地は飛躍的に広がった。
[コメント]
旧版では、
「戦国時代から近世の前期にかけ、治水や溜池用水路の開削技術の著しい発達によって河川敷や海岸部の大規模な耕地化が可能となり、幕府や諸藩もこれを積極的にすすめたため、全国の耕地は飛躍的に広がった。」
とあったが、大規模な耕地化が進展した背景についての説明が詳しくなった。とはいえ、
「幕府は鉱山の開発を直接こころみたが、そのなかで採掘・排水・精錬などの技術が進歩し、17世紀初めに、日本は当時の世界でも有数の金銀産出国になった。」
との文章が、セクション<農業生産の進展>の冒頭に配置されたことは非常に違和感を覚える。
この文章は、旧版ではセクション<諸産業の発達>のところにあったのだが、それがそっくりそのままここに移されたものなのだが、そのまま移動させるのではなく、セクション<農業生産の進展>との関連を考えたうえで表現を変えるべきではなかったか。確かに鉱山開発の技術が耕地開発の技術に転用されたとはいえ、セクション<農業生産の進展>の冒頭に「世界でも有数の金銀産出国」であることを説明せずともよいのではないか。もし「世界でも有数の金銀産出国」であったことを説明したいのであれば、<諸産業の発達>→<農業生産の進展>という構成で説明すればよいだけの話ではないだろうか。
p.183 小農経営
農業は、小規模な直系家族の労働を基礎に、せまい耕地にこまやかに人力を集約的に投下する小経営でおこなわれた。
[コメント]
「直系」との形容句が追加。
p.183 刈敷
肥料はおもに村内外の山野からとる草である刈敷によった
[コメント]
「草である」が追加。また、旧版では「刈敷にたよった」とあったのが、「刈敷によった」と変更になった。
p.183 金肥
干鰯・〆粕・油粕などが金肥として普及した。
[コメント]
旧版では「干鰯・油粕・にしんなど」であったが、「にしん」に代わって「〆粕」が追加された。
p.184 余剰米や商品作物の換金
商品作物として生産して販売し、貨幣を得る機会が増大した。こうした取引は城下町や在郷町の市場でおこなわれ、多くの村々はしだいに商品流通にまき込まれるようになった。
[コメント]
旧版では、
「商品作物として生産・販売し、貨幣にかえて利潤を得る機会が増大した。この結果、多くの村々は都市を中心とする商品流通に徐々にまきこまれるようになった。」
とあったが、百姓たちがどこで余剰米や商品作物を販売・換金したのかが明記された。
≪手工業≫
p.186
村々でも百姓の零細な農村家内工業として多様な手工業生産がみられた。
[コメント]
旧版では「農村」と表記されていたのが、新課程版では「村々」と表記が注意深く変更となっている。とはいえ、「農村家内工業」はそのままであり、表記の統一がとれていない(単に「家内工業」でよいと思う)。
p.187 瀬戸や多治見の陶磁器生産
尾張藩の保護のもとで、尾張の瀬戸や美濃の多治見などでも生産が活発になり
[コメント]
旧版では「尾張藩の専売制のなかで、尾張の瀬戸や美濃の多治見などでも生産が活発となり」とあったが、「専売制」が「保護」に変更となっている。
p.187 問屋制家内工業
[コメント]
旧版にあった
「そして19世紀になると、桐生や尾張の織物業などでは、都市の問屋商人から資金や原料の前貸しを得て生産を行う問屋制家内工業に発展する場合もみられた。」
との記述が消えたが、18世紀後半以降の<社会の変容>p.200のところで説明されている。
p.186 和紙と歴史学
和紙と歴史学
日本の国土は急速に変えられつつあるが、古文書とよばれる歴史資料(史料)が、今も旧家などにぼう大に残存している。その多くは、江戸時代から近代の初めにかけて和紙などに墨でしるされたもので、一つの史料群が数万点におよぶこともめずらしくない。和紙と墨は、現代の紙や印刷物にくらべて劣化しにくい優れた特性を持っている。
江戸時代の古文書についてみると、幕府や大名による政治から、経済の仕組み、文化のようす、また村や町のふつうの庶民の暮らしにいたるまで、古文書の一つひとつは、実にさまざまで詳細な情報を私たちに教えてくれる。
現在、大学・自治体・文書館などを中心に、こうした過去の貴重な文化遺産である史料を少しでも多く未来に残そうと、全国各地で調査や研究がおこなわれ、保存のための努力が続けられている。古文書は、和紙というすぐれた媒体によって、過去を生きた人びとから私たちへおくられた、かけがえのないメッセージといえよう。
[コメント]
上記のコラムが新規に追加された。
≪陸上交通≫
p.187 五街道
五街道は、江戸を起点とする重要な幹線道路で
[コメント]
「江戸を起点とする重要な幹線道路」との説明が追加された。
p.187 宿駅と宿場町
これらの街道には宿駅が数多くおかれ、(中略)宿駅は、街道が通る城下町の中心部の町にもおかれ、それ以外の宿駅は小都市(宿場町)として、地域の流通センターとなった。
[コメント]
旧版では「街道の城下町中心部や小都市には宿駅が数多くおかれ」と表現されていたが、この記述では、「街道の城下町中心部」との表現がやや意味のとりにくい表現であったし、また同じ都市に数多くの宿駅が置かれたとの誤読を招きかねない表現でもあった。それが上記のように変更となったことで、意味をとりやすくなったのではないか。
≪海上交通≫
p.188 構成の変化
海上交通は幕府や藩の年貢米輸送を中心に、大坂と江戸を起点に整備された。内陸部の河川舟運も物資流通の中心をにない、角倉了以による富士川・高瀬川などの開削によって新たな水路がひらかれた。大坂・江戸間には、菱垣廻船・?廻船が定期的に運航され、大坂から木綿・油・酒などを江戸へ運んだ。また17世紀後半になると、江戸の商人河村瑞賢によって東廻り海運・西廻り海運が整備され、全国的な海上交通網が完成した。
[コメント]
文章そのものは変更になっていないのだが、構成が変更となり、「海上交通」→「河川舟運」→「海上交通」と入り組んだ文章構成となった。
次の旧版での文章構成の方が適切だろう。
海上交通は幕府や藩の年貢米輸送を中心に、大坂と江戸を基点に整備された。大坂・江戸間には、菱垣廻船・樽廻船が定期的に運航され、大坂から木綿・油・酒などを江戸に運んだ。また17世紀後半、江戸の商人河村瑞賢によって、東廻り海運・西廻り海運が整備され、全国的な海上交通網が完成した。内陸部の河川舟運も物資の流通の中心をにない、角倉了以による富士川・高瀬川などの開削によってあらたな水路がひらかれていった。
p.188 廻船業
注(4) (前略)樽廻船は荷役がはやく、酒以外の商品も上積み荷物として安く運送したので、両者の間に争いが絶えなかった。その後、菱垣廻船は衰退し、19世紀以降、樽廻船が圧倒的な優位に立った。また18世紀末ごろに、日本海の北前船や尾張の内海船などの廻船業が各地で発達した。
[コメント]
まず、菱垣廻船と樽廻船について。変更点は3つ。
第1に、旧版では「樽廻船は船足がはやく、上積み荷物として酒以外の商品も運送したこと」を菱垣廻船が衰退した理由としていたが、新課程版では、それを両者の間の争いの理由とは説明しつつも、菱垣廻船の衰退との関連については暗示するにとどまっている。
第2に、樽廻船の説明。旧版では「船足がはやく」と説明されていたのが、新課程版では「荷役がはやく」(荷役とは荷物の積み降ろしのこと)と説明されている。
第3に、「18世紀末に両者は積荷の協定を結んだ」ことが旧版では記述されていたが、新課程版ではカットされている。
次に、北前船や内海船が追記された。しかし、これらの廻船がどのような特徴をもつのかが説明されておらず、18世紀末以降にそれらの廻船が登場したことの意義がわからない。
ちなみに、三省堂『日本史B』や実教『日本史B』(ともに新課程版)では、次のように説明されている。
「地域市場が各地に成立すると、各地と江戸や大坂、あるいは地域どうしをむすぶ新興の廻船業者があらわれた。兵庫や大坂むけに蝦夷地や日本海沿岸の産物をあつかう北前船だけでなく、瀬戸内海沿岸と江戸との間をを運航する尾張の内海船は、遠隔地に取り引き先をもたない在方商人から産物を大量に買いあげて価格の高い地域で売却して利益をあげた。
こうした動きは、菱垣廻船や樽廻船の経営をおびやかしたので、これは、株仲間などの特権商人をとおして市場統制を行なってきた幕府にとっても大きな問題となった。」(三省堂『日本史B』)
「西回り航路を利用して蝦夷地や北陸と大坂との間を運航した北前船は、各寄港地で特産物の買い入れと積み荷の販売をおこなう買積方式によって大きな利益をあげた。こうして、大坂の商品集荷力は次第に低下し、従来の大坂中心の市場構造は変化していった。」(実教『日本史B』)
≪商業の展開≫
p.189 初期豪商
堺・京都・博多・長崎・敦賀などを根拠地とした近世初期の有力商人は、朱印船貿易や、まだ交通体系が整備されない時期に地域による大きな価格差があったことを利用して、自分の船や蔵を用いて巨大な富をつくった。彼らを初期豪商とよぶ。
[コメント]
記述としては、旧版の本文や脚注にあったものが継承されながら表現がやや変更されたにすぎないが、旧版で「国内の未整備な交通体系を利用して」と書かれていた部分が「まだ交通体系が整備されない時期に地域による大きな価格差があったことを利用して」と詳説された。「地域による大きな価格差」を初期豪商が富を蓄積した基礎のひとつにあげるとなると、交通体系が整備されるにしたがって価格差が消えていくというイメージをよび起こす。しかし、江戸時代を通じて地域による価格差は無視できないものではなかったのか。そうでなければ、18世紀末以降に北前船や内海船など買積の新興廻船業者が台頭できるはずがないように思うのだが。
p.189 株仲間
幕府は当初この仲間を公式には認めなかったが,18世紀以降になると,商品流通の支配や物価政策のため,運上・冥加という営業税を負担することを条件に商人の仲間を広く公認し,営業の独占を許しはじめた。こうして公認された営業の独占権を株とよび,株を持つ商人たちの仲間を株仲間といった。
[コメント]
「株を持つ商人たちの仲間を」が追記された。
≪貨幣と金融≫
p.189 徳川家康による金銀貨鋳造の意義
全国的に通用する同じ規格の金・銀の貨幣は,徳川家康が1600(慶長5)年から金座・銀座によって大量につくらせた慶長金銀がはじめとされる。
[コメント]
これは、セクション<貨幣と金融>の冒頭に配置された文章だが、旧版では次のような文章であった。
戦国大名は全国各地で金山・銀山を開発し,軍資金にあてるためにきそって独自の金貨・銀貨を鋳造した。しかし,全国的に通用する同じ規格の金・銀の貨幣は,家康が関ヶ原の戦いの翌年に開設させた金座・銀座によってはじめて大量につくられた(慶長金銀)。
全国的に通用する同じ規格の金銀貨幣は慶長金銀が最初である、との記述については、ほぼ旧版を踏襲しているのだが、新課程版では戦国大名が独自の金銀貨幣を鋳造していたことがカットされている。そのため、「全国的に通用する同じ規格の」との表現がもつ意味が把握しにくくなってしまった。
p.190 図版<おもな貨幣>
[コメント]
一分銀と一朱銀の図版が追加された。しかし、本文や脚注、図版の説明文のなかには、こうした計数銀貨についての説明が全くなされておらず(脚注(2)で「銀は,はじめ秤量貨幣で」とあるのみ)、判断不能である。
p.190 金銀貨の換算率
注(2) (前略)換算率はのち金1両が銀60匁と定められたが,実際にはその時の相場に従った。
[コメント]
この文章そのものは旧版と全く変更されていない。しかし、表<貨幣の換算率>がカットされたため、1609年の換算率が金1両=銀50匁であったのが「のち金1両が銀60匁」に変更となった、という事情(銀価格の下落傾向)が分からなくなった。もちろん、そんなことは些細なことと言ってしまってもよいのかもしれないが。
なお、旧版では金銀銭貨の換算率が表にまとめられていて、そのなかに
「金1両=銀50匁=銭4貫文(1609〔慶長14〕年の換算率)」
と表記されていた。
≪三都≫
p.191 全国市場と三都
農業や諸産業の発達は,都市を中心に全国を結ぶ商品流通の市場を形成した。これを全国市場とよぶ。なかでもその要である江戸・大坂・京都の三都は(後略)
[コメント]
旧版では
「農業生産の進展と諸産業の発達は各地で都市を繁栄させた。なかでも全国市場の要である江戸・大坂・京都の三都は(後略)」
と記述されていたが、そのうちの「全国市場」を新しく規定してある。
p.191 江戸の町人地
(江戸の:引用者補)町人地には約1700余りの町が密集し,さまざまな種類の商人・職人や日用(雇)らが集まり
[コメント]
旧版には
町人地には,武家の生活をささえるために,あらゆる種類の商人・手工業者や日用(雇)らがあつまり
とあり、商人らが江戸に集まった背景が書かれていたが、それがカットされ、代わりに町人地の規模の大きさをイメージさせるための数値に置き換えられた。
セクション<町と町人>でも、「城下町へは,それまで在地領主として農村部に居住していた武士が,兵農分離政策で移住を強制され,あわせて商人や手工業者(諸職人)も営業の自由や屋敷地にかけられる年貢である地子免除の特権を得て定着した。」(p.168)としか説明されておらず、なぜ商人や手工業者が城下町に集まってきたのか、武士集住との関係が明示されなくなった。
p.191 納屋物
全国の商人が大坂などにおくる商品(納屋物)も活発に取引されて,江戸をはじめ全国に出荷された。
[コメント]
「江戸をはじめ全国に出荷された」が新規に追加され、大坂が諸国物資の集“散”地であることが文章化された。
p.191 江戸の藩邸
[コメント]
コラム「江戸の藩邸」が消えた。
p.191 京都
京都には古代より天皇家や公家が居住し,寺院や神社の本寺・本山が数多く存在した。幕府は朝廷の権威を利用し,全国の寺社や宗教を支配するために京都を重視した。
[コメント]
「幕府は朝廷の権威を利用し,全国の寺社や宗教を支配するために京都を重視した」の部分が新しく書き加えられた部分で、旧版では
「将軍家をふくめ,武士や宗教者,一部の御用職人らの権威をささえるために重要な役割をはたした」
と書かれていた。
≪元禄文化≫
p.192 元禄文化と「浮き世」
現世を「浮き世」と見て,現実そのものを描こうとする文学は町人のなかから生まれ
[コメント]
旧版では
「現世を「浮き世」とみる町人社会のなかから,現実そのものを描こうとする文学がうまれたり」
とあった。「浮き世」との判断が「文学」のもとで生まれたのか、それとも「町人社会」のなかにすでに(文学で表現される以前に)存在したのか。新課程版は前者の立場をとったわけだ。
p.192 元禄美術についての概説
[コメント]
美術についての概説が消える。
p.192 井原西鶴と談林派
西鶴は大坂の町人で,はじめ西山宗因に学んで談林俳諧で注目を集め
[コメント]
井原西鶴がはじめ俳諧師であったことは旧版から書かれていたが、「西山宗因に学んで談林」が追加され、談林派であったことが明記された。
p.192 松尾芭蕉
(松尾芭蕉は:引用者補)自然と人間を鋭く見つめて,『奥の細道』などの紀行文を著した。
[コメント]
旧版では、「自然と人間をするどくみつめた。」と書かれたあとに、
「連歌の第一句(発句)を独立した文学作品として鑑賞にたえうるものに高めた。芭蕉は各地を旅して地方の武士・商人・地主たちとまじわり」
との説明が続いて『奥の細道』に文章がつながっていたが、この部分がカットされた。
連歌と俳諧の関係は分かりにくいところだが、この部分がカットされたことで、より見えにくくなった。もっとも、その分、違いは分からないが別のものだとの理解が成立しやすくなったのかもしれない。
p.193 図版『曽根崎心中』の口上番付
[コメント]
図版「『曽根崎心中』の口上番付」が新しく掲載された。
p.193 朱子学
朱子学の思想は大義名分論を基礎に,上下の身分秩序を重視し,礼節を尊ぶことから
[コメント]
「大義名分論を基礎」とする点が追記された。
p.193 南学と南村梅軒
戦国時代に土佐でひらかれたとされ,谷時中に受け継がれた南学(海南学派)
[コメント]
旧版では「南村梅軒によってひらかれ,土佐の谷時中にうけつがれた」と書かれていたが、「南村梅軒」が消え、さらに「ひらかれたとされ」と、南学の始まりが伝承扱いされている。
ちなみに、平凡社の世界大百科事典によれば「南学の祖として喧伝される南村梅軒は,大高坂芝山の捏造した架空の人物である」とされ、岩波の日本史辞典でも「近世、大高坂芝山「南学伝」において創作された人物の可能性が高い」と記されている。
p.193 熊沢蕃山
(3) 蕃山は古代中国の道徳秩序をうのみにする儒学を批判し,彼はこのため幕府により下総古河に幽閉され,そこで病死した。主著『大学或問』などで武士土着論を説いて幕政を批判した。
[コメント]
旧版では
「蕃山は政治批判のかどで幕府により下総古河に幽閉され,そこで病死した。主著『大学或問』は幕政に対する強い批判をふくんでいたため長く出版されなかった。また,蕃山は古代中国の道徳秩序をうのみにする儒学を,死学であると批判した。」
と書かれており、熊沢蕃山の「政治批判」「幕政に対する強い批判」がどのような内容をもつものかが分からなかった(儒学を死学と批判したこととの関連も説明なし)。それに対して新課程版では、幕府から警戒され、幕府から処罰された理由が明確化された。
p.194 経世論
統治の具体策を説く経世論
[コメント]
経世論とは何かが説明された。
p.196 元禄文化の地域的広がり
美術では,上方の有力町人を中心に,寛永期の文化を受け継いで,いちだんと洗練された作品が生み出された。
[コメント]
旧版では
「美術の世界では,上方の豪商を中心に,都市や農村の民間の有力者をおもなにない手とする,洗練された美術がうみだされた。」
と書かれていたが、「都市や農村の民間の有力者をおもなにない手とする」との表現が消えた。
このことは、松尾芭蕉のところで「芭蕉は各地を旅して地方の武士・商人・地主たちとまじわり」との文章がカットされたこととあわせ、元禄文化の地域的広がりを希薄化させている。
≪享保の改革≫
p.197 史料『経済録拾遺』
[コメント]
史料「大名の窮乏(『経済録拾遺』)」が新しく追加された。
p.197 経済発展と富の蓄積
三都や城下町,さらに港湾都市の富裕な商人のなかには,大名にも貸付をおこない(大名貸),藩経済の実権をにぎるものすらあらわれた。また村々にも貨幣経済が浸透し,商品作物の生産や農村家内工業も広がって,新たな富が都市ばかりだけではなく農村にもしだいに蓄積されていった。
[コメント]
ほぼ旧版そのままだが、「さらに港湾都市」が追記された。
なお、引用部分の後半では用語が混乱している。旧版では
「農村にも貨幣経済が浸透し,商品作物の生産や家内工業が広がって,あらたな富がしだいに蓄積されていった。」
と書かれていたが、最初のところの「農村」が新課程版では「村々」と変更されておきながら、後のところでは「農村」家内工業や「農村にも」と、「農村」との表記が新しく追記されている。
ところで、この部分は1994年版で追加された部分なのだが、この文章が享保改革の直前に配置されている割に、享保改革の性格づけとして、村々に新たに蓄積されていった富の収奪、という側面がやや弱いのではないか。もちろん、「西日本の幕領でさかんになった綿作などの商品作物の生産による富の形成に目をつけ,畑地からの年貢増収をめざした。」と記述されているが、質地禁止令とその撤回、地主・豪農の存在する現実を認めた農政への転換、といった記述があってよいのではないか。
p.198 図版「幕領の石高と年貢収納高」
[コメント]
図版「幕領の石高と年貢収納高」に、これまで入っていなかった1663〜1715年分の統計が新しく追加された。
p.198 史料「上げ米の令」
[コメント]
史料「上げ米の令」が新しく掲載された。
p.199 殖産興業政策
甘藷・さとうきび・櫨・朝鮮人参の栽培など,新しい産業を奨励し,また漢訳洋書の輸入制限をゆるめるなど実学を重視した。
[コメント]
旧版とはやや構成が変更となり、漢訳洋書の輸入制限の緩和措置と実学の奨励とが関連づけられた。
なお、甘藷の栽培奨励は“凶荒対策”であって「新しい産業」の奨励ではないように思うのだが、違うのだろうか。ちなみに、山川の『新日本史』では
「甘藷や菜種・朝鮮種人参など主穀以外の作物の栽培も奨励し、農民の年貢負担能力の向上と生活の安定をはからせた。」
と説明されている。
p.199 定火消と町火消
定火消を中心としてきた消火制度を強化するために,町方独自の町火消を組織させた。
[コメント]
新設の町火消と、定火消との関係が新しく説明された。
p.199 株仲間の公認
発達した商品経済を把握しようと商人や職人の仲間を広く公認した。
[コメント]
株仲間公認の目的は、旧版では「商品経済を統制しようと」と説明されていたのが、新課程版では「商品経済を把握しようと」との説明に変更となった。諸物価の引下げを図るための施策であったことを考えれば、「統制」よりは「把握」の方が適切と言える。
p.199 三卿
また吉宗は,次男宗武と四男宗尹にそれぞれ田安家・一橋家をおこさせ(3),徳川家の土台を固めた。
(3) 9代将軍徳川家重の次男重好にはじまる清水家とあわせて,三卿とよばれる。
[コメント]
三卿が初めて説明された。
三卿の創設については、三家の血統が将軍家とは疎遠になってきたため将軍継嗣候補の資格に不備が生じたため、その欠陥を補い、さらに三家の制御を図るという意図があったとされており、「徳川家の土台を固めた」との文章は、それを表現したものだろう。
≪18世紀後半以降の社会の変容≫
p.199 小百姓と武士の生活困窮
[コメント]
旧版にあった「年貢の増徴策で小百姓の生活は圧迫され,米価の低迷によって,年貢米で暮らしをたてる武士の窮乏がひどくなった。」との文章がカットされる。
p.199 豪農
彼らは農村地域において商品作物生産や流通・金融の中心となり,地域社会を運営するにない手となった。こうした有力百姓を豪農とよぶ。
[コメント]
「流通・金融」「地域社会を運営するにない手となった」が追記された。「流通」が追記されたのは、p.209で「豪農(在郷商人)」との表記が追加されたことと連動しているのだろう。
p.199 地主手作
(4) 零細農民を年季奉公人として使役しておこなう地主経営をいう。
[コメント]
地主手作についての注記が追加された。
p.200 問屋制家内工業
都市の問屋は豪農と連携して農村部の商品生産や流通を主導し,産地の百姓らに資金や原料を供給することで,個々の農村家内工業を問屋制家内工業に組織する動きがあらわれてきた。
[コメント]
旧版では「豪農をとおして介入し」とあったのが、「豪農と連携して」に変更となった。いずれにせよ、具体的なイメージが思い浮かびにくいが。
p.201 棒手振
町内の裏長屋や城下町の場末の地域には,出稼ぎなどで農村部から流入してきた人びとや,棒手振・日用稼ぎに従事する貧しい民衆が多数居住した。
[コメント]
「棒手振」が追記された。これはすでに経済のところで説明されている。
p.201 棟割長屋
(1) 裏店とよばれ,「九尺二間」(2.7メートル×3.6メートル)といわれるように,せまくて劣悪な住居であった。
[コメント]
棟割長屋についての脚注が追加された。
≪百姓一揆と打ちこわし≫
p.201 百姓一揆の発生件数
(2) 百姓一揆は,明治初期のものをふくめて,これまで3700件ほどが確認されている。
[コメント]
旧版では「江戸時代の百姓一揆は,これまで3000件以上が確認されている」とあったが、明治初期を含めた数値として3700件に修正された。
p.201 土豪と初期の百姓一揆
17世紀の初めには,徳川幕府の支配に抵抗する土豪(3)をまじえた武力蜂起や村ぐるみでの逃散など,まだ中世の一揆のなごりがみられた。
(3) 兵農分離の際に,村にとどまった有力な旧侍層を土豪という。
[コメント]
旧版では「徳川氏の支配に抵抗する武士」とあったのが「徳川幕府の支配に抵抗する土豪」に修正され、さらに土豪についての脚注が追加された。
「徳川氏の支配に抵抗する武士」という表現では、どのような武士が一揆の担い手として参加していたのかが分かりにくかったが、「土豪」と表記され、さらにその説明がなされたことで、兵農分離政策によって特権を失った階層の人びとであることが分かるようになった。
島原の乱(島原・天草の一揆)の性格づけを「農民の一揆」から「土豪や百姓の一揆」へと変更したことと連動していると思われるが、関連づけはなされていない。関連づけがほしいところだ。
また、「有力な旧侍層」と説明されているのだが、「侍層」という表現はここで初めて登場する表現であり、中世の国人や地侍との関係が説明されていない。不親切な記述だと言える。
p.202 百姓一揆の発生状況
百姓一揆は増加し続け,凶作や飢饉の時には,各地で同時に多発した。
[コメント]
旧版では「しばしば発生した凶作や飢饉を機に,百姓一揆は増加の一途をたどった。」とあったが、グラフ<百姓一揆の推移>に即した表現へと変更された。
≪田沼時代≫
p.203 田沼意次
1772(安永元)年に側用人からはじめて老中となった田沼意次が十数年間にわたり実権をにぎった。
[コメント]
田沼が老中に就任した年代、実権を握った期間が追記された。
p.203 南鐐弐朱銀
(2) (前略)南鐐とは上質な銀のことであるが,金2朱として通用した。
[コメント]
計数銀貨のありようが具体的に説明された。
≪寛政改革≫
p.204 史料「寛政の改革への風刺」
[コメント]
史料「寛政の改革への風刺」が文化史のところから配置替え。
≪列強の接近≫
p.206 鎖国についての表現
[コメント]
旧版では、セクションの冒頭に「日本が海外への窓口を閉ざしているあいだ,」との表現があったが、新課程版ではカットされた。
p.206 ラクスマン来航後の対応
1792(寛政4)年,ロシア使節ラクスマンが根室に来航し(中略),幕府は江戸湾・蝦夷地の海防の強化を諸藩に命じた。
[コメント]
旧版では脚注で
「とりわけ蝦夷地の防備と,江戸につながる房総沖・江戸湾の防備は強く意識された。しかし,防備を命じられた大名には重い負担となった。」
とあったが、それが簡略化されて本文に編入された。そして、防備を命じられた諸藩の負担が重かったことがカットされた。
p.206 大黒屋光太夫
(1) 伊勢の船頭であった大黒屋光太夫は,嵐で漂流し,アリューシャン列島に漂着した。その地でロシア人に救われ,ロシアの首都ペテルブルクで女帝エカチェリーナ2世に謁見した後,送還された。光太夫の見聞をもとに桂川甫周は『北槎聞略』を著した。
[コメント]
旧版では「伊勢の船頭大黒屋光太夫は嵐で漂流してロシア人に救われ,女帝エカチェリーナ2世に謁見したのち送還された。」と記述されていたが、説明が詳しくなった。
p.207 松前・蝦夷地の直轄化
1807(文化4)年には,幕府は松前藩と蝦夷地をすべて直轄にして
[コメント]
旧版では「松前・蝦夷地」だったのが、「松前」が「松前藩」に変更された。「松前藩の領地」という意味で用いられていたのだろうが、<藩>との表現は一般には、領地(土地そのもの)を指す地名(行政区画)として以外に、大名による所領支配の機構・組織をも指し、教科書では後者の使い方が一般的である。そのことを考えると、「松前藩(中略)をすべて直轄にして」と表現されると、松前氏とその家臣も含めて幕府直轄になったかのような印象を受けてしまう。
なお、旧版と同様、「幕府は1821(文政4)年に蝦夷地を松前藩に還付した。」との記述があるのだが、「直轄」になった「松前藩」がいつ復活したのかが書かれておらず、わかりにくい説明になってしまっている。これは、1994年版から直轄の対象に「松前」が追記されたにもかかわらずこの表現は変更とされなかったことから生じた不具合だ。ちゃんと1821年に松前藩を復活させたことも記述するべきだろう。
p.207 フェートン号事件
(3) 19世紀初め,イギリスとフランスは戦っていたが,ナポレオン1世がオランダを征服すると,イギリスはオランダが東洋各地に持っていた拠点をうばおうとした。
[コメント]
当時、イギリスとフランスが戦争していたことが追記された。
≪文化・文政時代≫
p.209 在郷商人
豪農(在郷商人)や地主が力をつける
[コメント]
旧版では「在地の商人」とあったのが「豪農(在郷商人)」に変更された。旧版では近世のなかには「在郷商人」との表記はなかったが、こうした形で復活した(しかし「国訴」は登場しない)。しかし、在郷商人が豪農と同義とされているにすぎない。確かに在郷商人は豪農の一側面を表現したものだが、別の箇所では在郷商人との表記が使われており、表現に統一性が欲しい。
≪天保改革≫
p.210 天保改革
大御所徳川家斉の死後,12代将軍徳川家慶のもとで老中水野忠邦を中心に幕府権力の強化をめざして天保の改革をおこなった。
[コメント]
「大御所」「12代将軍徳川家慶のもとで」が追記された。
p.211 19世紀前半の物資流通と物価騰貴
物価騰貴の実際の原因は,生産地から上方市場への商品の流通量が減少して生じたもので,株仲間の解散はかえって江戸への商品輸送量をとぼしくすることになり,逆効果となった(2)。
(2) 生産地から上方市場に商品が届く前に,下関や瀬戸内海の他の場所で商品が売買されてしまうことがあった。商品流通の基本ルートがこわされ,機能しなくなりはじめていたのである。そのため10年後の1851(嘉永4)年に株仲間再興が許された。
[コメント]
旧版で変更となったのは、1851年の株仲間再興が追記された点。
なお、経済のところで北前船や内海船といった新興の廻船業者が追記され、文化・文政時代のところで在郷商人が追記されたにもかかわらず、「生産地から上方市場への商品の流通量が減少」したこと、「下関や瀬戸内海の他の場所で商品が売買されてしまうこと」と関連づけられていない。また、あとで触れられる長州藩の越荷方との関連も想起しにくい。もっと相互の関連を意識した構成にしてほしいものだ。
p.211 天保改革の「棄捐令」
幕府は棄捐令を出し,あわせて札差などに低利の貸出しを命じた。
[コメント]
棄捐令が追記された。しかし、その時の法令は無利子・年賦返済を命じただけで「棄捐」を認めたものではないはず。それを「棄捐令」と表記するのは不適切だと思う。(実教の『日本史B』も「棄捐令」と表記しているのだが。)
≪経済の近代化≫
p.212 工場制手工業(マニュファクチュア)
一部の地主や問屋(商人)は家内工場を設けて,農業から離れた奉公人(賃労働者)を集め,分業と協業による手工業的(資本的)生産をおこなうようになった。
[コメント]
旧版との違いは2点。まず「問屋商人」が「問屋(商人)」に変更となったこと、次に「(資本的)」が追記されたこと。前者は意味不明だが、後者はマニュファクチュアが「資本主義への動き」であることを明示したいのだろう。
≪雄藩のおこり≫
p.213 雄藩の改革
諸藩では中・下級武士の有能な人材を登用して
[コメント]
有能な人材が「中・下級武士」出身であることが追記された。
p.213 越荷方
諸国の廻船を相手に大坂の問屋などに本来運ばれるべき商品(越荷)を購入し,下関などに越荷方をおいて,その委託販売などで収益をあげて財政の再建に成功した。
[コメント]
旧版では
「下関に越荷方をおいて諸国の廻船を相手に,大坂の問屋などに本来運ばれるべき商品を購入し,その委託販売などで収益をあげ,財政の再建に成功した。」
と書かれていたのが、構成が変更になった。旧版の構成だと、越荷方が商品を購入して委託販売を行ったように読めたが、新課程版の構成だと、別の部署が購入した商品を越荷方が委託販売したように読める。いずれにしても長州藩だから問題ないのかもしれない。
それはともかくとして、越荷方の業務は「受託販売」ではなく「委託販売」と説明されているのだが、では、越荷方は誰に販売を委託したのだろうか?
岩波『日本史辞典』では、「入港した船の積荷を一時保管する倉庫業や、積荷の依託販売業、積荷を抵当とした金融業などを行なった」と説明されているが、ここの「積荷の依託販売業」とは、廻船業者から委託をうけて積荷を販売(つまり受託販売)する業務のようにも読めるのだが、そうではないのだろうか。
なお、それ以外では追記が2ヶ所。まず、「越荷」との用語が追記された。次に「下関など」と表記されたことで、越荷方が下関以外にも設けられたことが示された。
なお、ここでも北前船との関連が説明されていない。
p.214 土佐藩のおこぜ組
高知(土佐)藩でも「おこぜ組」とよばれる改革派が支出の緊縮をおこなって財政の再建につとめ
[コメント]
「おこぜ組」が追記された。
≪化政文化≫
p.215 図版<耕書堂>
[コメント]
図版<耕書堂>が新しく追加された。
p.215 江戸後期の文学
江戸時代後期の文学は,身近な政治や社会のできごとが題材とされ
[コメント]
「身近な」が追記された。
p.215 滑稽本
庶民の生活を生き生きと描いた滑稽本
[コメント]
旧版では「庶民の軽妙な生活」と表現されていたのが、「軽妙な」との形容句がカットされた。確かに「軽妙な生活」とはよく分からない表現だった。
p.215 人情本
恋愛ものを扱った人情本も庶民に受け入れられ,代表的作家である為永春水は,天保の改革で処罰された。
[コメント]
旧版では「庶民生活を描いた人情本」「恋愛ものをあつかった為永春水」だったが、人情本そのもののジャンルが「恋愛もの」に限定された。
p.215 読本
読本は,大坂の上田秋成にはじまり,江戸の曲亭馬琴が評判を得た(1)。
(1) 馬琴の『南総里見八犬伝』は豊かな構想を持ち,その底流に勧善懲悪・因果応報の思想が流れている。
[コメント]
旧版からの変更点は、秋成と馬琴が活躍した場所が明記されたこと、馬琴が「滝沢馬琴」から「曲亭馬琴」に変更となったこと、馬琴についての脚注が追記されたことの3点。
p.216 竹田出雲
竹田出雲(二世)
[コメント]
「(二世)」が追加された。
p.218 平賀源内
(1) 平賀源内は高松藩の足軽の家に生まれ,長崎でオランダ人・中国人とまじわり本草学を研究した。のち江戸へ出て摩擦発電器(エレキテル)の実験をし,寒暖計や不燃性の布などをつくって人びとをおどろかせた。戯曲や滑稽本も書き,博学多才の人であった。また蘭学書によって西洋画法を学び,秋田に銅山開発のために招かれた際に,その技法を伝えた。
[コメント]
平賀源内についての脚注が追加された。
p.219 懐徳堂
大坂の懐徳堂は(中略)寛政の改革のころには中井竹山を学頭として朱子学や陽明学を町人に教え
[コメント]
「寛政の改革のころには」が追加された。
p.219 教育と女性
女性の寺子屋師匠もおり,貝原益軒の『女大学』のような女性の心得を説く書物などが出版され,女性の教育も進められた。
[コメント]
「女性の寺子屋師匠」がいること、「貝原益軒の『女大学』のような」が追加された。しかし、『女大学』と称される女子教訓書が貝原益軒の著書であることは確証がなく、不適切ではないか。
p.220 図版「心学道話の聴聞」
[コメント]
図版「心学道話の聴聞(『男子女子前訓』)」が新しく追加された。その代わり、図版「寺子屋(渡辺崋山筆『一掃百態』)」がカットされた。
山川2003の変更箇所[目次]/
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