山川2003の変更箇所[目次]/
[原始]
[古代]
[中世]
[近世]
[近代]
[現代]
山川『詳説日本史B』(日B001、2003発行)
−『詳説日本史【改訂版】』(1998発行)との内容比較−≪古代≫
大きな変化として,次の点を指摘することができる。
(1)推古朝をクローズアップさせる構成が改められ,推古朝以降の飛鳥が宮都として整っていく過程が重視されたこと,
(2)推古朝や大化改新といった諸改革の背景として対外的要因が重視されるようになったこと,
(3)王権のあり方とその変化に注意をはらった説明が随所に盛り込まれたこと−大化改新=王族中心の集権化→天皇と上皇(太上天皇)・皇后や有力皇族による王権分有→嵯峨朝=天皇への権力集中,という流れ−,
(4)受領の定義づけが変化し,受領の遥任についても説明されるようになったこと,
(5)10世紀段階で免税特権をもつ荘園が存在していたのかことが明記されなくなったこと,
(6)「武装=武士」という安易な定義が消えたこと(とはいえ「武士」そのものの定義はなされていない),
などが注目される。
- 飛鳥の朝廷−推古朝の位置づけ−
- いわゆる聖徳太子
- 推古朝の国内政策
- 飛鳥文化
- 飛鳥の朝廷−その他−
- 律令国家の成立と「日本」
- 大化の改新
- 天智朝
- 天武朝
- 藤原京
- 白鳳文化
- 律令国家の官僚制
- 律令国家の民衆支配
- 奈良時代の対外関係
- 7世紀後半〜8世紀の対蝦夷政策
- 隼人と南島について
- 奈良時代の国家事業
- 奈良朝の政争
- 奈良時代の社会−公地公民制の動揺−
- 奈良時代の民衆生活
- 奈良朝の土地政策
- 奈良後期における民衆の動向
- 天平文化−文芸・教育−
- 天平文化−仏教−
- 天平美術
- 平安朝廷
- 桓武朝の二大政策−平安京造営と蝦夷
- 桓武朝の地方改革
- 平城上皇の変
- 蔵人・検非違使設置の意義
- 平安前期における貴族社会の変化
- 平安前期における地方の変貌
- 平安初期−その他−
- 弘仁貞観文化
- 摂関政治
- 摂関政治期の貴族社会と国政運営
- 国風文化
- 平安中期の地方社会
- 国司制度の変質
- 地方支配方式の変化−その他−
- 荘園の発達
- 武士の成長
≪飛鳥の朝廷−推古朝の位置づけ−≫
[コメント]
セクションの見出しと構成が変更となっている。「1.推古朝と飛鳥文化」が「1.飛鳥の朝廷」、そのなかのセクションは旧版の「中央集権への歩み」「推古朝の政治」「隋との交渉」「飛鳥文化」という構成から、「東アジアの動向とヤマト政権の発展」「飛鳥の朝廷と文化」という構成に変化した。
ここから、4つの点を指摘することができる。
(1)「推古朝」から「飛鳥の朝廷」へと変更することで、推古朝を強調するのではなく、飛鳥という地が本格的な宮都へと発展していく過程全体に注目を向けさせている。
そのことは、第2セクション「飛鳥の朝廷と文化」のなかで、次のように説明していることにも現われている。
6世紀末から、奈良盆地南部の飛鳥の地に大王の王宮がつぎつぎに営まれた。有力な王族や中央豪族は王宮とは別にそれぞれ邸宅をかまえていたが、王宮が集中し、その近辺に王権の諸施設が整えられると、飛鳥の地はしだいに都としての姿を示すようになり、本格的宮都が営まれる段階へと進んだ。(p.30)
これと関連するが、6世紀末以降に焦点があてられたためだろう、「継体天皇」、「欽明天皇」が消えた−欽明天皇は仏教伝来に関連して第1章で登場する−。
(2)“6世紀=ヤマト政権の動揺”というイメージが薄くなっている。
旧版にあった「大和政権をつくっていた中央の豪族たちも、多くの土地・農民を支配して勢いを強めるようになり、豪族同士の対立が激しくなった」などの記述が消え、セクションのタイトルに「ヤマト政権の発展」と入ったことで、6世紀=ヤマト政権の動揺、6世紀末〜の推古朝=ヤマト政権の再構築(中央集権化)という対比的なイメージを消し去っている。
(3)それに関連しているが、“推古朝=中央集権化の第一歩”というイメージが消えている。
“中央集権”との表現が最初に用いられているのは、第1セクション「東アジアの動向とヤマト政権の発展」の最後。
倭は630年の犬上御田鍬をはじめとして引き続き遣唐使を派遣し、東アジアの新動向に応じて中央集権体制の確立をめざした。(p.30)
つまり、推古朝ではなく、舒明朝以降の動向についての説明のなかで用いられている。
(4)旧版では、中央の豪族同士の対立という国内支配体制の矛盾に焦点をあて、それへの対応策としての中央集権化という流れをつけていたが、“中国の統一にともなう東アジア情勢の激動”という対外的要因を強調する構成となっている。
具体的な記述としては、次のようなところに現われている。
589年に中国で隋が南北朝を統一し、高句麗などの周辺地域に進出しはじめると、東アジアは激動の時代をむかえた。(p.29)
推古天皇が新たに即位し、国際的緊張のもとで蘇我馬子や推古天皇の甥の廐戸王(聖徳太子)らが協力して国家組織の形成を進めた。(p.29-30)
また、推古即位について「このような政情の危機にあたって」との説明が消えているが、それも同様の事情だと考えられる。
≪いわゆる聖徳太子≫
p.29 聖徳太子の表記
蘇我馬子や推古天皇の甥の厩戸王(聖徳太子)らが協力して
[コメント]
旧版での、「推古天皇は、翌年、甥の聖徳太子(厩戸皇子)を摂政とし、国政を担当させた。太子は大臣の蘇我馬子と協力し、内外の動きに対応して国政の改革にあたることになった」、との記述と比較すると、次の3点を指摘することができる。
(1)厩戸王がメインになり、さらに聖徳太子はゴシックにもなっていない。
(2)摂政の記述が消えた。
(3)厩戸王(聖徳太子)の国政での主導性を否定した記述になっている。
「聖徳太子」の存在に否定的な研究すら出てきている、昨今の研究状況を反映した記述といえるが、大王のもとで有力な豪族・王族たちが協力しながら国政にあたるのが、当時の一般的な国政のあり方なのだろう。
なお、「厩戸皇子」が「厩戸王」に変更されている点も注目される(p.32の系図では「厩戸王(皇子)」と記されている)。p.32の系図では、大王(天皇)の子どもは「崇峻(泊瀬皇子)」、「穴穂部皇子」、「押坂彦人大兄皇子」などと表記され、また大化改新の前夜において「中大兄皇子」などの表記がなされているのに、なぜ「厩戸王」だけが「王」なのだろうか。もし当時の王族に対する尊称として「王」が妥当であるならば、全て「王」「王女」に統一すべきではなかったろうか。ちなみに、『詳説日本史研究』(山川)では「厩戸皇子(574〜622、のちに聖徳太子と呼ばれる)」、実教『日本史B』では「厩戸皇子(聖徳太子)」と表記されている−新課程版はまだ見ていないので不明だが−。
≪推古朝の国内政策≫
p.30 推古朝の国政改革
冠位十二階は個人に対して冠位をあたえることで、それまでの氏族単位の王権組織を再編成しようとしたもので、憲法十七条も豪族たちに国家の官僚としての自覚を求めるとともに仏教を新しい政治理念として重んじるものであった。こうして王権のもとに中央行政機構・地方組織の編成が進められた。
[コメント]
記述が簡略化された。
「王権のもとに」といった記述はあるものの、「国家の中心としての天皇に服従すること」が憲法十七条で強調されたことの記述が消え、大王個人ではなく王権(大王とその権力組織)に焦点をあてた形になっている。
旧版では「これらの政策は、いずれも豪族を官僚として組織し、国家の形をととのえることをめざしたものであった」とあったが、行政機構の編成にまで踏み込んだ記述となっている。
p.30 推古朝の地方組織
注(1) 中国の歴史書である『隋書』によると、7世紀の倭には中国の牧宰のような「軍尼」(クニ、国か)、里長のような「伊尼翼」(イナギ、稲置か)などの地方組織があり、10伊尼翼が1軍尼に属していたという。」
[コメント]
地方組織についての注記が追加された。
ここの「軍尼」は、国造の支配領域を指すものと考えるのが一般的と私は理解していたのだが、この注記では、国造の支配領域を指すものとも、後の律令の国制につながるものとも説明がない。
≪飛鳥文化≫ p.31
[コメント]
簡略化されため、次のような記述、事項が消えた。
○法隆寺について 7世紀後半の焼失についての注記
○暦法の伝来に関連して 神武天皇即位の年がこのころに定められたと推測されるとの注記
○『三経義疏』
○旧版での「仏教は一般には、呪術の一種として信仰され、人びとは祖先の冥福を祈ったり、病気の回復を願って仏像をつくることが多かった」との記述→仏教の受容のされ方は、豪族の権威を示すもの、という点だけに限られた。
新たに追加された記述は、「舒明天皇創建と伝える百済大寺」、寺院の「伽藍建築は、礎石・瓦を用いた新技法による大陸風建物であった。」の2点。
≪飛鳥の朝廷−その他−≫
p.30 遣隋使
隋への国書は倭の五王時代とは異なり、中国に臣属しない形式をとり、煬帝によって無礼とされた。
p.27・p.30 大王の読み
[コメント]
p.27とp.30とでは「大王」のルビが微妙に異なっている。p.27は「おおきみ(だいおう)」、p.30は「だいおう」となっている。新課程版全体に共通していることだが、表現の統一性が取れていない。
p.29 伽耶(加羅・任那)
6世紀の朝鮮半島では、高句麗の圧迫を受けた百済や新羅が勢力を南下させ伽耶の諸小国をあわせたため、伽耶諸国と結びつきのあったヤマト政権の半島での勢力は後退した。
[コメント]
旧版では「大和政権は、伽耶諸国に持っていた勢力の拠点を失った」とあったのに対し、「拠点」という領土的な支配をイメージさせかねない表現が消え、さらに、「任那四県」という表現も完全に消え去った。
≪律令国家の成立と「日本」≫
[コメント]
大宝律令制定までは「倭」と表記され、p.35の注(1)で「「日本(にほん)」が国号として正式に用いられるようになったのもこのころ(大宝律令制定のころ−引用者注)のことである。」と明記された。
≪大化の改新≫
p.32 大化改新への経緯
唐が高句麗を侵攻するという緊張のなかで、周辺諸国は中央集権の確立と国内統一の必要にせまられた。倭では、蘇我入鹿が厩戸王(聖徳太子)の子の山背大兄王を滅ぼして権力集中をはかったが、中大兄皇子は、蘇我倉山田石川麻呂や中臣鎌足の協力を得て、王族中心の中央集権をめざし、645(大化元)年に蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼした(乙巳の変)。
[コメント]
旧版では、
「馬子のあと蘇我蝦夷が大臣となり、皇極天皇のときには、蝦夷の子入鹿がみずからの手に権力を集中しようとし、有力な皇位継承者の一人であった山背大兄王をおそって自殺させた( 643年)。このようななかで、唐から帰国した留学生や学問僧によって東アジアの動きが伝えられると、皇族や中央の豪族のあいだには、豪族がそれぞれに私地・私民を支配して朝廷の職務を世襲するというこれまでの体制を改め、唐にならった官僚制的な中央集権国家体制をうちたてようとする動きが高まった。」
と記述されていた。
この旧版の記述では、大化改新以降の動きこそが、東アジアの激動に対応する“唯一の正統な”中央集権とされていたが、新課程版では、東アジア激動への対応としての中央集権化の方策として、蘇我入鹿による「権力集中」と中大兄らの「王族中心の中央集権」を等置している。
また、旧版では「645年、中臣鎌足(のち藤原鎌足)は中大兄皇子とはかり、蘇我蝦夷・入鹿父子をほろぼした。」とあり、中臣鎌足の主導性を強調した記述だったのが、中大兄皇子主導の記述に変更され、さらに中臣鎌足よりも蘇我倉山田石川麻呂が先に記述されており、中臣鎌足の位置づけが後退している。
さらに、「皇族」という旧版での表記が「王族」に改められているが、「○○天皇」や中大兄「皇子」という表記との間に矛盾はないのか?
なお、「皇子」には「みこ」とルビがふってある。
p.32 改新政府の構成
王族の軽皇子が即位して孝徳天皇となり、中大兄皇子を皇太子、また阿倍内麻呂・蘇我倉山田石川麻呂を左・右大臣、中臣鎌足を内臣、旻と高向玄理を国博士とする新政権が成立し、政治改革を進めた。
[コメント]
「軽皇子」「阿倍内麻呂・蘇我倉山田石川麻呂」という具体的人名が追加された。
p.32〜33 改新の詔
646(大化2)年正月には、「改新の詔」で豪族の田荘・部曲を廃止して公地公民制への移行をめざす政策が示された。全国的な人民・田地の調査、統一的税制の施行がめざされるなか、地方行政組織の「評」が各地に設置され、中央の官制も整備されて大規模な難波宮が営まれた。
[コメント]
改新の詔に“かぎ括弧”がついた点がもっとも注目される。
改新の詔について、旧版では「のちの令の文によって修飾されたと思われる部分もある」と注記され、後世の粉飾を指摘しつつも、やや控えめだったのが、新課程版では「『日本書紀』が伝える詔の文章には後の大宝令などによる潤色があり」(p.32)と断定的な記述に変更されたことと関係しているのだろう。
さらに、改新の詔の内容についても「○○をめざす政策」と記述されるにとどめ、具体的な政策については、評の設置と中央官制の整備を指摘するだけとなっている(旧版にあった「品部の廃止」が消えている)。そして注記には、「この段階でどのような具体的改革がめざされたかについては意見が分かれる。」と書かれており、大化改新の画期性にやや否定的な記述となっている。
また、公地公民制への移行については、豪族の土地・人民に対する私的支配の廃止だけが言及され、王族(皇族)のそれについては触れられていない。公地公民制のもとでも、王族(皇族)による土地・人民に対する私的支配は否定されずに存続したというのだろうか。
これら以外には、次の2点が注目される。
大化という年号が新しくたてられたことが明記されていない。
難波宮については、「営まれた」と記述されているだけで遷都については明言していないうえ、この順序で記述されていると、難波宮遷都が645年であることがわからず、まるで改新の詔が出されたあとに難波宮へ遷都されたかのように読めてしまう。
p.33 評の設置についての注記
地方豪族たちが中央から派遣された惣領に申請して新しい評を設けたことが、『常陸国風土記』などにみえる。
p.33 王権と中大兄皇子
王権や中大兄皇子の権力が急速に拡大するなかで(2)、中央集権化が進められた。
注(2) 中大兄皇子の主導のもとに、蘇我氏系の大王位継承候補であった古人大兄王や蘇我倉山田石川麻呂がほろぼされ、おくれて孝徳天皇の皇子有間皇子も滅ぼされた。
[コメント]
大化改新が王族中心の中央集権をめざす動きであったものの、「王権」とは別個に「中大兄皇子の権力」も急速に拡大したこと−権力の二極化−を指摘することで、王族内部での権力抗争を(さらに)激化させたことを示している−注で具体的に説明(孝徳天皇と中大兄皇子との対立については説明なし)−。
≪天智朝≫
p.33 朝鮮式山城
白村江の敗戦を契機に国防政策が進められ、百済からの亡命貴族を中心に大宰府では水城や大野城・基肄城などがきずかれ、対馬から大和にかけて朝鮮式山城が営まれた。
[コメント]
防人を配置し烽火を設けたことについての記述が消え、大野城・基肄城が追加された。ただし、この構成からすると、この2つの城は「百済からの亡命貴族を中心に」きずかれたにもかかわらず、「朝鮮式山城」ではないようだ。果たして妥当な記述なのか?
p.33 甲子の宣
664年には氏上を定め、豪族領有民を確認するなど豪族層の編成が進められた。
[コメント]
甲子の宣の内容が新たに追加された。ただし、これが「律令国家への道」においてどのような意味をもつのかについての説明がない。
p.33 近江令
注(3) 天智天皇は、はじめての法典近江令を定めたといわれるが、その完成を疑う説もある。
[コメント]
近江令については旧版では「最初の令である近江令を定めたといわれ」と書かれていたが、新課程版で初めて“完成(制定)に対する疑問”が明記された。
なお、旧版では庚午年籍について、「庚午年籍は氏姓をただす根本台帳としても重視された。律令にもこの戸籍だけは破棄しないで永久に保存することが定められている。」との注記があったが、消えた。
≪天武朝≫
p.33 壬申の乱
天智天皇の子の大友皇子と天智天皇の弟大海人皇子とのあいだで皇位継承をめぐって戦い(壬申の乱)がおきた。大海人皇子は美濃を本拠地とし、東国からの軍事動員に成功して大友皇子の近江朝廷をたおし
[コメント]
皇位継承をめぐる戦いであることが明記されたが、大海人皇子が吉野で挙兵したこと、「大和地方の豪族の協力」を得たことが消えた。
p.33 壬申の乱の影響
乱の結果、近江朝廷側についた有力中央豪族が没落し
[コメント]
「皇族を重く用いて天皇中心の政治を行」(旧版)ったことが消えた代わりに、有力豪族の没落というデータが追加された。壬申の乱についての説明のなかで「大和地方の豪族の協力」(旧版)−具体的には大伴氏の協力−を隠蔽したことと対になっている。
p.33 部曲の廃止
675年に豪族領有民をやめ、官人の位階や昇進の制度を定めて官僚制の形成を進めた。
[コメント]
旧版の「旧来の豪族を政府の官吏として組織し」に比べると、より具体的な記述となった。
p.33 富本銭の鋳造と藤原京の造営開始
銭貨の鋳造、中国の都城にならった藤原京の造営をはじめた。
[コメント]
「銭貨の鋳造」について触れておきながら、ここでは「富本銭」の説明がない。「富本銭」は、p.39の和同開珎の説明のところで初めて登場する。不適切な構成である。
律令とともに藤原京造営がすでに天武朝に始まっていたことが明記され、持統天皇が天武の政策を引き継いだことがより分かりやすくなった。
天武朝の諸政策については、これら以外に次の点が注目される。
八色の姓の具体的な内容についての注記が消えた。
旧版では、「柿本人麻呂が「大君は神にしませば天雲の雷の上にいほらせるかも」とうたったように、天武・持統天皇のころになると天皇の神格化がみられ、その権威が確立した。」と、大王の神格化についての記述(注記)があったが、それが消えた。
≪藤原京≫
p.34 藤原京について
藤原京は、それまでの一代ごとの大王の宮(きゅう)とは違って、三代の天皇の都となり、宮の周囲には条坊制を持つ京が設けられて、有力な王族や中央豪族がそこに集住させられた。そして国家の重要な政務・儀式の場として、中国にならった瓦葺で礎石建ちの大極殿・朝堂院がつくられるなど、新しい中央集権国家を象徴する宮都となった。
[コメント]
コラム「藤原京と木簡」が消えた代わりに、注記として新しく追加され、都城制を採用した本格的な宮都が造営されたことの意味がわかりやすくなった。
≪白鳳文化≫
全体として記述が少なくなった。
p.34 白鳳文化の特徴
天武・持統天皇の時代を中心とする、律令国家確立期の生気ある若々しい文化で、新羅から伝えられた中国の唐初期の文化の影響を受け、仏教文化を基調にしている。
[コメント]
旧版では「唐との交渉によって中国文化が直接に流入する道がひらけたので、美術にも初唐の文化の影響がみられる。」と説明されていたが、もともと天武・持統天皇の時代には遣唐使が途絶しており、やや無理のある説明だったのが、新課程版では(飛鳥文化と同様)朝鮮からの影響という説明に変化した。
p.34 高松塚古墳壁画
高松塚古墳壁画に高句麗の影響が認められる。
[コメント]
人物・日月・星宿・四神が描かれていたとの注記が消え、高句麗の影響というデータが新たに記述された。
p.34 漢詩文や和歌について
豪族たちは中国的教養を受容して漢詩文をつくるようになり、一方で和歌もこの時期に形式を整えた。
[コメント]
旧版では、白村江の戦後に百済から亡命してきた王族・貴族を通じて中国的教養が入ってきたことが説明されていたのが、新課程版ではきれいに消えてしまい、なにを媒介として豪族たちが中国的教養を受容したのかが不明になっている。
また、和歌については、旧版では「日本古来の歌謡から発達した和歌も、漢詩の影響をうけて五音七音を基本とする長歌・短歌などの詩型が定まり」と説明され、柿本人麻呂・額田王といった歌人が紹介されていたが、新課程版ではそれらが全て消え、和歌の形式がなぜ整ったのか、その契機がわからなくなった。
p.35 地方豪族の文化受容
この時代には、中央集権的国家組織の形成に応じて、中央の官吏だけでなく地方豪族のあいだでも漢字文化と儒教思想の受容が進んだ。
[コメント]
地方豪族のもとでの動きについては、旧版では寺院建立に限られていたのが、新たに漢字文化(これは漢詩文とどのように違うのだろうか?)や儒教思想も受容についても説明されるようになった。
このように仏教に限定せず、儒教についても目配りした記述になったのだが、一方では、旧版での「天皇家の祖先神としての伊勢神宮をはじめとする神社の祭りを重んじた」との記述が消えた。
≪律令国家の官僚制≫
官僚制について注目されるのは次の4カ所。
p.35 太政官の公卿
行政の運営は、有力諸氏から任命された太政大臣・左大臣・右大臣・大納言などの太政官の公卿の合議によって進められた。
[コメント]
「有力諸氏から任命された」との記述が追加された。もともと太政官の公卿(議政官)が有力中央豪族の諸氏から1名ずつ任じられていたことを念頭においた記述だが、ここにこのデータを記述することで、p.41の「やがて藤原氏が政界に進出すると、大伴氏や佐伯氏などの旧来の有力諸氏の勢力は後退していった。」との記述との対応関係がつけられている。
p.35 国司
国司には中央の貴族が派遣され、役所である国府を拠点に国内を統治した。
[コメント]
「一定の任期」で派遣されるとのデータが消え、代わりに「国府」が明記された。
ところで、「貴族」が国司として派遣されたと記されているが(旧版と同じ)、五位以上の位階をもつものが貴族であることを考えれば、「貴族・官人」とするのが適当だろう。
p.35 郡司
郡司は、もとの国造など伝統的な地方の豪族が任じられ、郡の役所である郡家を拠点として郡内を支配した。
[コメント]
「郡家」が新たに追記されたが、その代わりに消えた記述がある。それは「国司に協力して地方の政治にあたった。」との記述と「地方の豪族は中央の政府に対して従属的な地位にあったが、班田収授の実施や租税・労役の徴発など律令制の実施には、彼らの農民に対する実質的な支配力に負うところが大きかった。」との注記である。
つまり、国・郡の機構に重点をおいた記述へと変更され、律令制にもとづく地方支配において郡司がどのような役割を果たしたのかについての評価が消えてしまった。
p.36 蔭位の制の意義
とくに五位以上の貴族は手厚く優遇され、五位以上の子(三位以上の孫)は父(祖父)の位階に応じた位階を与えられる蔭位の制により貴族層の維持がはかられた。
[コメント]
旧版では次の通り。
「ことに上級の役人には大きな経済的・身分的特権があり、それらの地位は、改新以前からの中央の大豪族が占めた。彼らは律令制度のもとでいっそう安定した生活をおくるようになり、地位や財力を世襲する貴族となっていった。」
旧版でも、貴族=上級の役人の経済的特権は具体的に説明されていなかったが、新課程版では貴族特有の経済的特権があったことは記述すらされなくなった(官吏に封戸・田地・禄が給与されたことは記されていても、まるで全ての官吏に給与されたかのような印象を与える叙述となっている)。
また、旧版では“中央の有力豪族→貴族”と明記することで、旧来の中央有力豪族が蔭位の制により旧来の地位を確保・維持していったような印象を与えていた。ところが、新課程版では貴族の出身については説明がなく、律令国家のもとで“五位以上の位階をもち貴族となったもの”がその地位を継承していったこと、いいかえれば高位高官の子孫によって高位高官が再生産されていったこと(貴族層の維持)を指摘するにとどめている。蔭位の制が旧来の有力豪族の地位継承には必ずしも有効ではないことを意識した記述変更だといえる。
だとすれば、天智・天武朝での豪族層の(再)編成と関連づけて説明してほしかったところである。
≪律令国家の民衆支配≫
p.36 支配の基本単位としての戸
律令国家では、民衆は戸主を代表とする戸(郷戸)(4)に所属する形で戸籍・計帳に登録され、50戸で1里が構成されるように里が編成された。この戸を単位として口分田が班給され、租税が課された。
注(4) 戸は実際の家族そのままではなく、編成されたもので
[コメント]
旧版では脚注で「戸は人民支配のための単位で、口分田は戸主を通じて一括支給され、租税も戸主がまとめておさめるしくみであった」と書かれていたが、それがやや文章構成を変えた形で本文に組み込まれた。その結果、戸も里もともに民衆支配のために政策的に編成されたものであることが、より分かりやすくなった。
p.37 班田収授法
注(1) 班田収授法は、豪族による土地・人民の支配を排除して国家が直接民衆を掌握しようとしたものであるが、その実施には、官吏となった地方豪族の協力も必要であった。
[コメント]
班田収授法の意図は、旧版では本文で説明されていたが、新課程版では脚注にまわった。さらに、民衆(なぜここだけ「人民」なのだろう?)が班田収授法により最低限の生活を保障されたことの記述が消えた。
p.37 租の用途
租は・・・・・おもに諸国において保存された。
[コメント]
旧版での「その国の経費にあてられた」との記述が消えた。
その他
[コメント]
租税負担については義倉が消え、また出挙については私出挙が消えた。
私出挙については、旧版では「出挙は、ほんらい農民の生活を維持していくために地方の村落で豪族などの有力者によって行われてきたものであったが(私出挙)」と記述されていたが、これが消えたことは、郡司(とそれに任じられた地方豪族)の地方支配における役割についての記述が消えたことと相関関係をもつと思われる。しかし、そうした記述が消えたため、班田収授法の「実施には、官吏となった地方豪族の協力も必要であった」ことの理由がわかりにくくなってしまっている。
身分制度について、旧版では品部・雑戸が存在していたこと、10世紀初めには奴婢が廃止されていたことが、脚注で触れられていたが、それらが消えた。
≪奈良時代の対外関係≫
p.37 唐
618年、隋にかわって中国を統一した唐は、アジアに大帝国をきずき、広大な領域を支配して周辺諸地域に大きな影響を与えた。
[コメント]
唐を中心とする国際秩序について、旧版では「東アジアの広い地域が、唐を中心とする共通の文化圏を形成するようになった」と記述されていたが、東アジアの文化的共通性についての記述が消え、単に「大きな影響」だけが説明されるように変更されている。
p.38 新羅との関係
日本は国力を充実させた新羅を従属国として扱おうとしたため、時には緊張が生じた(3)。
注(3) 唐で安禄山・史思明の乱(755〜763)がおこり混乱が広がると、藤原仲麻呂は新羅攻撃を計画したが、実現しなかった。
[コメント]
新羅が対等の立場に立とうとしたことについての記述が消える。
仲麻呂政権の新羅征討計画が初めて記述されたが、唐の混乱がなぜ新羅攻撃計画につながるのかが不明な記述。
p.38 渤海
713年靺鞨族や旧高句麗人を中心に中国東北部に建国された渤海(698〜926)とは緊密は使節の往来がおこなわれた。渤海は、唐・新羅との対抗関係から727(神亀4)年に日本に使節を派遣して国交を求め、日本も新羅との対抗関係から、渤海と友好的に通交した。
[コメント]
渤海を構成した人々についての記述、日本が渤海と通交した理由説明が追加された。
なお、渤海成立の年代について整合性がとれていない。
新羅・渤海との交流が次第にその性格を変化させたことが旧版では次のように説明されていた。「しかし8世紀の後半以後、新羅・渤海との交渉はしだいに貿易を中心としたものになり、使節のもたらす大陸のめずらしい品物が貴族の関心のまととなった。」この記述が消えた。一方で、遣唐使について、「遣唐使たちは、唐から先進的な政治制度や国際的な文化をもたらし、日本に大きな影響をあたえた。」と新たに記述されるようになった。このため、新羅・渤海との交渉が当時の社会や文化に対して与えた影響はわずかなものであったかのような印象を与える−もちろん、交流の頻度が高いからといって必ずしも影響が大きいとは限らないが−。
その他
p.38 阿倍仲麻呂
注(2) 阿倍仲麻呂は玄宗皇帝に重用されて高官にのぼり、唐の詩人王維・李白らとも交流したが、唐で客死した。
[コメント]
藤原清河が消えた代わりに、阿倍仲麻呂の事績についての記述が詳細になった。
≪7世紀後半〜8世紀の対蝦夷政策≫
p.40~41 渟足・磐舟柵
政府が蝦夷とよんだ東北地方の在地の人びとに対しては、唐の高句麗攻撃により対外的緊張が高まった7世紀半ばに、日本海側に渟足柵・磐舟柵を設けた。
[コメント]
変更点は2つ。
まず、蝦夷の規定が変更されている。旧版では「東北地方に住み、当時の朝廷から異民族とみなされていた蝦夷」と記述されていたが、(1)「異民族とみなされていた」との記述が消え、(2)「蝦夷」が政府からの呼称にすぎないことを意識した記述へと変更された。
2つめは、新潟県域に渟足柵・磐舟柵が設けられた背景(と思われることがら)として、「唐の高句麗攻撃により対外的緊張が高まった」ことを指摘していること。これは、政府の対蝦夷政策が北東アジアの情勢をにらんだものであったことを意識させようとした記述だと考えられる。
p.41 阿倍比羅夫
阿倍比羅夫が遣わされ、秋田地方などさらに北方の蝦夷と関係を結んだ。しかし、政府の支配領域はまだ日本海沿いの拠点にとどまっていた。
[コメント]
これも変更点は2つ。
まず、「蝦夷と関係を結んだ」との記述、そして、7世紀後半段階での支配領域が柵という拠点にとどまっていたことの指摘。
旧版では「蝦夷を服属させた」とあったのが、関係についての具体的な説明が消えた。実際、対蝦夷政策は軍事的な征討という形より、城柵を拠点として勢力を浸透させつつ(関東・北陸からの入植事業を含む)、蝦夷の首長を郡司に任ずることでその首長の支配領域を(形式的に)律令制下に取り込むという形が基本だったとされます(たとえば、佐藤信「古代国家と日本海・北日本」国立歴史民俗博物館編『中世都市十三湊と安藤氏』新人物往来社、1994)。とはいえ、“律令国家=小型の中華帝国”という国家意識のもとで、律令国家は蝦夷を“夷狄”として位置づけていたのだから、そのことを判断できるような表現(あるいは脚注)が欲しい。たとえば三省堂『詳解日本史』では、「中国にはみずからを文化の中心におく中華思想があり、周辺の国々や民族を夷狄として蔑視した。こうした考えかたが日本の貴族層にも影響をあたえ、朝廷に服属しない地域や人々を夷狄とみなして蔑視する考えを生んだ。」と、脚注で説明されている。
p.41 その他
注(1) 蝦夷に対する政策は、帰順する蝦夷は優遇し、反抗する蝦夷は武力で押さえつけるという二面を持ち、さらに「夷を以って夷を征する」政策がとられた。(p.41)
≪隼人と南島について≫
p.41 隼人と南島
南九州の隼人とよばれた人びとの地域には、大隅国がおかれ、種子島・屋久島をはじめ薩南諸島の島々も政府と交易する関係に入った。
[コメント]
旧版では、「隼人の住む九州南部にはあらたに大隅国がおかれ、種子島(多●・屋久島(掖玖)をはじめ、薩南諸島の島々もあいついで朝廷に服属した。」と書かれていた。
変更点としては、蝦夷と同様、隼人が南九州に居住していたのではなく、隼人とはそこに住んでいた人びとを政府が名付けた呼称にすぎないことを意識した記述となった点、南島との関係が“政府への服属”から“政府との交易”に変更された。蝦夷と同様、南島が律令国家=小型の中華帝国のもとで“夷狄”として位置づけられていたことを意識し、「服属」という表現を避けたものと考えられる。
なお、コラム「蝦夷と隼人」が消える。
≪奈良時代の国家事業≫
p.39 平城京
[コメント]
平城京については次の4点が目立つ。
旧版の「それまでの藤原京にかわって奈良により規模の大きな都城がいとなまれることになり」との記述が消えた。藤原京はかつて、大和三山に囲まれた地域に営まれたと考えられていたが、最近は、大和三山をも含み込んだ広大な京域をもっていたと考えられるようになってきており、新しい研究動向を反映した変更だといえる(→新課程版では藤原京跡の地図すら消えた)。
人口について、「約10万人といわれる。」と記述された。
平城京跡の発掘調査に関する脚注は、記述が増え、たとえば「宮城の近くには貴族たちの大邸宅が並び、遠くには下級官人たちの小規模な住宅が分布していたことがわかった。」と説明されている。
平城京図の説明のなかに、「全体を囲む羅城の城壁はなかった。長岡遷都後、大寺院周辺をのぞいて水田化し、遺跡が残っている。」との新しい記述が加わった。その代わりに、右京の「北辺」についての記述が消えた。
p.39 貨幣について
7世紀の天武天皇のころに鋳造した富本銭に続けて、唐にならい和同開珎を鋳造した(2)。銭貨は都の造営にやとわれた人びとへの支給銭など宮都造営費用の支払いに利用され
[コメント]
富本銭がここで記述され、図版も追加されたが、その代わりに唐の開元通宝を模倣したとの記述が図版の説明から消えた。また、和同開珎の用途についても説明が加えられた。
注(2)では、和同開珎以降、乾元大宝にいたる銅銭の総称が「本朝十二銭」だけとなり、「皇朝十二銭」の表記が消えた(旧版では「皇朝十二銭(本朝十二銭)」)。
p.40 交通制度について
中央と地方とを結ぶ交通制度としては、都を中心に七道の諸地域へのびる官道(駅路)が整備され、約16キロごとに駅家を設ける駅制がしかれ、官吏が公用に利用した。地方では、駅路と離れて郡家などを結ぶ道(伝路)が交通体系の網目を構成した(1)。
注(1) 各地で、一定規格の道幅(6〜12メートル)をもって直線的にのびる古代の官道の遺跡が発見されている。
[コメント]
記述が詳しくなり、「官道(駅路)」、「伝路」という歴史用語が追加されている。
p.40 地方の行政機構について
地方の国府には、政務・儀礼をおこなう政庁(国衙)や各種の実務をおこなう役所群・倉庫群などが設けられて、一国内の政治・経済の中心地となった。国府の近くにはのちに国分寺も建立され、文化的な中心ともなった。また、各郡の支配拠点としての郡家も、国府に似た施設を持って郡内における中心となった(2)。
注(2) 郡家の遺跡の発掘調査では、郡司が郡内の里長などに命令を伝える内容の木簡もみつかり、律令の文書主義にもとづく郡内の行政の実情が知られている。
[コメント]
発掘調査の成果が大きく反映した記述となっている。
このなかで注目されるのは、「律令の文書主義にもとづく」という記述である。律令国家のもとでの(公的な)情報伝達手段が“文書”であることが初めて記述された。とはいえ、律令国家の支配機構についての説明のなかで記述されているわけではなく、それも脚注である。“口頭から文書へ”の転換はもっと強調されてしかるべきだと思う。
≪奈良朝の政争≫
皇室と藤原氏の関係系図(1)(p.41)のなかに「蘇我稲目」が!!
誤植ですね。
p.41 8世紀初めの政界
8世紀の初めは、皇族や中央の有力貴族の間で勢力が比較的均衡に保たれて、藤原不比等を中心に律令制度の確立がはかられた。しかし、やがて藤原氏が政界に進出すると、大伴氏や佐伯氏などの旧来の有力諸氏の勢力は後退していった。
[コメント]
前半部の皇族・有力貴族の勢力均衡は旧版と変わらないが、そのなかでの藤原不比等の主導性が新たに追記された。また、後半部は“政界の動揺”(旧版)から“旧来の有力諸氏の勢力後退”へと変更され、「藤原氏の進出」に流れの中心をおく記述となった。実際、セクションの小見出しも「聖武天皇と政界の動揺」(旧版)から「藤原氏の進出と政界の動揺」に変更された。
なお、「やがて藤原氏が政界に進出すると」と書かれているが、これは何を意味しているのだろうか。「進出」ならともかく「政界に進出」である。もし藤原不比等が公卿となって以降を藤原氏の「政界」進出と称するのなら、701年には大納言となっているので、前半部と後半部の記述に整合性がなくなってしまう。
p.41 藤原不比等の外戚政策
藤原不比等は娘の宮子を文武天皇に嫁がせて、その子の皇太子(のち聖武天皇)にも娘の光明子を嫁がせて天皇家と密接な関係をきずいた。
[コメント]
不比等の外戚政策が具体的に記述された。
p.42 長屋王の変と光明子立后
不比等が死去すると、皇族の左大臣長屋王(1)が政権をにぎったが、藤原氏の外戚の地位があやうくなると、不比等の子の武智麻呂・房前・宇合・麻呂の4兄弟は・・・
注(1) 壬申の乱で活躍した高市皇子(天武天皇の子)の子で、文武天皇の妹吉備内親王を妻とした。不比等は長屋王にも娘を嫁がせていた。
[コメント]
長屋王の変・光明子立后の背景が記述された。さらに四子や長屋王についてのデータが詳細になり、また長屋王が有力な皇族として藤原氏にとって警戒すべき存在であった(それゆえに融和の対象でもあった)ことが示された。
p.42 皇后の条件
注(2) 皇后は律令では皇族であることが条件とされ、天皇亡きあと臨時に政務をみたり、女帝として即位することもあり、また皇位継承への発言権を持てる立場であった。
[コメント]
皇后の条件について、旧版では「皇族でなければならないのが古来の慣例であった」とあったが、典拠が「古来の慣例」から律令での規定に変更となっている。また、「皇位継承への発言権を持てる立場」との説明が追加され、本文での「藤原氏の外戚の地位があやうくなると」との記述(先に指摘)とあいまって、光明子立后が聖武以降の外戚関係確保のための施策であったことが強調されることとなった。
p.43 藤原仲麻呂と淳仁天皇
仲麻呂は淳仁天皇を擁立して即位させると恵美押勝の名をたまわり、破格の待遇を得るとともに権力を独占し、太政大臣にまでのぼった。
[コメント]
淳仁が仲麻呂によって擁立されたこと、太政大臣(太師)となったことが追加された。
p.43 恵美押勝の乱
恵美押勝は後ろ盾であった光明皇太后が死去すると孤立を深め、孝謙太上天皇が自分の看病にあたった僧道鏡を寵愛して淳仁天皇と対立すると、危機感をつのらせて764(天平宝字8)年挙兵したが、太上天皇側に先制されて滅ぼされた(恵美押勝の乱)。
[コメント]
藤原仲麻呂の権力後退については、旧版では「孝謙上皇に信任された僧道鏡が進出してくると、仲麻呂はこれと対立し、 764(天平宝字8)年、兵をあげたが敗死した(恵美押勝の乱)。」と、仲麻呂と道鏡の対立から説明されていたが、それが消え、(1)光明皇太后の死去、(2)孝謙上皇と淳仁天皇の対立、という2つの要因から説明されている。
近年の研究では、8世紀段階ではまだ天皇一人に権力が集中しておらず、天皇だけでなく太上天皇(上皇)や皇后・皇太后などが権力を分掌しており、それゆえ、それらの間の関係が悪化したときには王権が分裂する危険性があったとされており*、そうした理解に基づいた記述へと変更されている。これは、大化改新について王権とは別個に中大兄皇子の権力が拡大したことをわざわざ指摘していた点、さらにいわゆる藤原薬子の変を「平城太上天皇の変」と変更した点にも反映されている、と言ってよい−それ以外には光明子立后もこれに関連する−。
これについて言及したものとしては、春名宏昭「太上天皇制の成立」(『史学雑誌』99-2,1990)、筧敏生「古代王権と律令国家機構の再編 −蔵人所成立の意義と前提−」(『日本史研究』344,1991.4)、伊藤喜良『中世王権の成立』(青木書店、1995)、佐々木恵介「薬子の変」(『歴史と地理』514号、1998/6)、大隅清陽「君臣秩序と儀礼」(『日本の歴史 08 古代天皇制を考える』講談社、2001)などがある。
次に大きな変更は、上皇が「太上天皇」と表記されるようになった点である。それが正式名称だからという理由なのだろうが、では、平安時代後期以降については、なぜ「上皇」表記のままなのだろうか。表記の統一性を保ってほしいものだ。
(補)
執筆者のひとりである佐藤信氏によれば
「天皇と並ぶ存在としての奈良時代的な「太上天皇」と、平城太上天皇の変以降の、退位により天皇の制度的立場から離れる性格をもつ院政時代などの「上皇」との別に配慮して」,奈良〜平安初期についてはあえて「上皇」を「太上天皇」と表記した
とのことである(「平城太上天皇の変」『歴史と地理570 日本史の研究203』2003.12,p.28)。
なるほどと了解しえる理由づけなのだが,それならば,他の用語(たとえば天皇や荘園など)についてもそのような区別をつけてほしいものだ。
p.43~44 宇佐八幡宮神託事件
769(神護景雲3)年には、称徳天皇が道鏡に皇位を譲ろうとする事件がおこったが、この動きは和気清麻呂の行動で挫折した(1)。
注(1) 九州の宇佐八幡神が道鏡の即位をうながすお告げをしたが、その神意を聞く使いとなった和気清麻呂は、お告げとは反対の報告をして道鏡の即位を挫折させた。清麻呂の行動の背景には、彼を支えた藤原百川ら道鏡に反対する貴族たちが存在したとみられる。
[コメント]
宇佐八幡宮神託事件が脚注から本文にうつったこと(それにともない説明が詳しくなった)
この前後に皇位継承をめぐる争いが続いていたこと−つまり聖武天皇の退位以降は皇位継承をめぐって政界が不安定化していたこと−の指摘が消えたこと
道鏡即位が称徳天皇の意思に基づくものであったこと
の3点が注目される。
旧版では、「この間、皇位の継承をめぐって皇族や貴族の争いが続き」と記述され、その脚注で「聖武天皇と光明皇后とのあいだには、娘の孝謙天皇(称徳天皇)しか残されておらず、次の皇位継承者をめぐって争いがたえなかった。称徳天皇のとき、宇佐八幡宮の神託と称して道鏡を皇位につけようとする事件がおこったが、和気清麻呂らによってはばまれた。」と説明されていた。
p.42 国分寺造立事業について
注(3) 大事業であるため、なかなか完成せず、のちに地方豪族の協力を求めている。
[コメント]
国分寺建立事業について、朝廷が地方豪族の協力を求めた事実が記述された。大仏造立事業に関しては文化の箇所で行基の協力が記述されているが、それについても同じ箇所で記述する方が全体像がつかみやすいのではないか。
≪奈良時代の社会−公地公民制の動揺−≫
[コメント]
セクション<土地政策と民衆>の構成が変更されている(p.44〜46)。
旧版では
○農業や住居のあり方
○経営基盤と兵役・労役負担による不安定な生活
○浮浪・逃亡と国家への影響
○政府の土地政策と初期荘園
という構成だったが、新課程版では
○農業や住居、家族・婚姻のあり方
○経営の基盤と兵役・労役負担による不安定な生活
○政府の土地政策と初期荘園の形成
○農民の階層分化と国家への影響
という構成に変更されている。
家族・婚姻のあり方が脚注から本文に組み込まれたことや、階層分化という視点が明確になったことといった内容的な変化も見逃せないが(後述)、「生活の不安定さ」と「政府の土地政策」の関連づけがなく、また「政府の土地政策」と「農民の階層分化」も関連づけられておらず、セクション全体としての論旨が不明となっている。現行の記述のままでいくならば、旧版にならって「農民の階層分化と国家への影響」→「政府の土地政策と初期荘園の形成」という構成に戻すのが適切だと思う。
≪奈良時代の民衆生活≫
p.44 賃租経営
農民は・・・・口分田以外の公の田(乗田)や貴族・寺社の土地を借りて耕作した(賃租)。
[コメント]
乗田の賃租に加え、貴族・寺社の土地(→荘園)の賃租も記述された。初期荘園の経営のあり方については、このセクションのなかで具体的な説明がないのだが(p.71の脚注で触れられるのみ)、関連づけが可能になったとは言える。
p.45 民衆の不安定な生活
天候不順や虫害などに影響されて飢饉もおこりやすく、国司・郡司らによる勧農政策があっても不安定な生活が続いた。
[コメント]
国司・郡司が勧農政策を行なっていたことが記述された。
≪奈良朝の土地政策≫
p.45 百万町歩開墾計画と三世一身法
政府は人口の増加による口分田の不足や税の増収をめざして、722(養老6)年には百万町歩開墾計画を立て(2)、723(養老7)年には三世一身法を施行した。
注(2) 農民に食料・道具を支給し、10日間開墾に従事させて良田をひらこうとしたが、成果はあげられなかった。
[コメント]
「税の増収」という目的が追加された。旧版では「人口の増加に対して口分田が不足してきたためもあって」と説明されており、「も」のなかみが説明されていなかったが、それが補われた形になっている。また、百万町歩開墾計画の内容も脚注で新たに説明された。
p.45 墾田永年私財法
注(3) 墾田の面積は身分に応じて制限され、一品の親王や一位の貴族の500町から初位以下庶民の場合の10町まで差が設けられていた。
[コメント]
開墾面積の制限についての具体的な記述が追加された。
p.45 墾田永年私財法の変遷
注(4) のち、765(天平神護元)年に寺社をのぞいて開墾は一時禁止されたが、道鏡がしりぞいた後の772(宝亀3)年には、ふたたび開墾と墾田の永年私有が認められた。
[コメント]
加墾禁止令が追加で記述された。
≪奈良後期における民衆の動向≫
p.46 階層分化
農民には、富裕になるものと貧困化するものとがあらわれた。
[コメント]
階層分化の進展が明記された。
p.46 有力農民の浮浪など
有力農民のなかにも、経営の拡大をめざして浮浪したり、勝手に僧侶となったり(私度僧)、貴族の従者となって、税負担を逃れるものがった。
[コメント]
浮浪が、困窮した農民だけでなく有力農民も含めた現象であることが明記された。
≪天平文化−文芸・教育−≫
p.46 国史編纂の背景
律令国家が形成され、それにともなって国家意識が高まったことを反映して
[コメント]
国史編纂の背景として「国家意識の高まり」が追加で記述された。
p.46〜47 古事記
神話・伝承から推古天皇にいたるまでの物語であり(1)、口頭の日本語を漢字の音・訓を用いて表記している。
注(1) 創世の神々と国生みをはじめとして、天孫降臨、神武天皇の東征、日本武尊の地方征圧などの物語で、そのまま史実ではない記述もある。
[コメント]
『古事記』が神話・伝承を中心とする「物語」であるとの性格づけがなされている。そして、それにともない神話の具体例がはじめて注記された。しかし、これでは何の話だかさっぱりわからないが。
p.47 日本書紀
注(1) 神話・伝承をふくめて、神代から持統天皇にいたるまでの歴史を天皇中心に記している。なかには中国の古典や編纂時点の法令によって文章を作成した部分もあることから十分な検討が必要であるが、古代史の貴重な史料である。
[コメント]
『日本書紀』のなかに後世の粉飾が含まれることが明記された。もちろん旧版でも、大化改新の詔、郡評論争に関する記述のなかで、そのことが触れられていたが、『日本書紀』そのものの説明箇所で明記されたことで、より意識化されることとなった。
p.47 風土記
注(2) ・・(中略)・・の五カ国の『風土記』が伝えられている。このうちほぼ完全に残っているのは、『出雲国風土記』である。
[コメント]
出雲国風土記がほぼ完全に残っていることが追加記述された。
p.47 芸亭
注(3) 石上宅嗣は自分の邸宅を寺とし、仏典以外の書物をも所蔵する今日の図書館のような施設をおいて芸亭と名づけ
[コメント]
まず、芸亭の「芸」が旧字(くさかんむりが++となっている字形)ではなく、一般表記の「芸(げい)」と同じになったことが注目される。そして、芸亭の説明が詳しくなった。
p.47 万葉集
注(4) 天智天皇までの第1期の歌人としては有間皇子・額田王、つづく平城遷都までの第2期の歌人としては柿本人麻呂、天平年間の初めごろまでの第3期の歌人としては山上憶良・山部赤人・大伴旅人、淳仁天皇時代にいたる第4期の歌人としては大伴家持・大伴坂上郎女らが名高い。編者は大伴家持ともいわれるが、未詳である。
[コメント]
宮廷歌人についての説明が、まるで文学史の教材であるかのように詳しくなった。
その代わりかどうかは不明だが、万葉がなについての説明が消えた。
旧版では「漢字の音訓をたくみに組みあわせて日本語をしるす万葉がなが用いられている」とあったが、それに類似した記述は『古事記』の表記についてだけに限られており、『万葉集』の表記については、p.47に掲載されている「貧窮問答歌」のなかに「(『万葉集』、原万葉がな)」とあるだけ。さらに、万葉がなの実例(額田王の和歌など)を示した史料も消えた。これでは、「万葉がな」が何なのか、さっぱりわからない。
もしかすると、生徒に疑問をもたせるための“仕掛け”なのだろうか!?
p.48 大学・国学
教育機関としては、官僚養成のために中央に大学、地方に国学がおかれた。入学者は、大学の場合は貴族の子弟や朝廷に文筆で仕えてきた人びとの子弟、国学の場合は郡司の子弟らを優先とした。学生(がくしょう)は大学を修了し、さらに試験に合格してようやく官人となれた。
[コメント]
それぞれ記述が詳しくなり、官人になる仕組みについての説明も追加された。
ところが、庶民教育の不在については消えた。
p.48 大学での教科内容
注(1) 大学の教科は、『論語』『孝経』などの儒教の経典を学ぶ明経道、律令などの法律を学ぶ明法道、音・書・算などの諸道があり、のち9世紀には漢文・歴史をふくむ紀伝道が生まれ、重視された。これらのほかに、陰陽・暦・天文・医などの諸学が各官司で教授された。
[コメント]
記述がより具体的になった。
≪天平文化−仏教−≫
p.48 南都六宗と僧侶
三論・成実・法相・倶舎・華厳・律の南都六宗とよばれる学系が形成された。法相宗には義淵やその門下に道慈・行基らがおり、華厳宗の良弁は唐・新羅の僧から華厳を学び、東大寺建立に活躍した。
[コメント]
南都六宗が脚注から本文にまわったが、その代わり、「これらは教理を研究する組織で、後世の宗派とは性格がことなり、一つの寺院にいくつかの宗が存在することもあった」との注記が消えてしまった。僧侶の具体例が増加しているが、後世との性格の違いの方が重要なのではないだろうか。
p.48 僧侶の非宗教的な機能
当時の僧侶は宗教者であるばかりでなく、最新の文明を身につけた一流の知識人でもあったから、玄●(ぼう)のように聖武天皇に信任されて政界で活躍した僧もあった。
[コメント]
旧版では「道鏡のように政治に介入する僧侶もあらわれ、仏教の腐敗を招いた」と記述されていたが、それが消え、上記のような記述が追加された。そのため、奈良仏教に対するマイナス・イメージが薄められた。
p.48 僧侶になるまでの仕組みと三戒壇
注(2) 当時、正式な僧侶となるには、得度して修行し、さらに授戒を受けることが必要とされたが、授戒の際に重要な戒律のあり方を鑑真が伝えた。聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇は、鑑真から授戒を受けた。鑑真はのちに唐招提寺をつくり、そこで死去した。東大寺の戒壇に加え、のちに遠方の受戒者のために、九州の筑紫観世音寺、東国の下野薬師寺にも戒壇が設けられて「本朝(天下)三戒壇」と称された。
[コメント]
得度・授戒という僧侶になるための仕組みが新しく説明され、三戒壇についても追加記述された。
p.49 行基
注(1) のち行基は大僧上に任ぜられて大仏の造営に協力した。社会事業は善行をつむことにより福徳を生むという仏教思想にもとづいており
[コメント]
行基が大仏造立事業に協力したことが初めて記述され、また彼を含めて一部で行われた社会事業が仏教とどのように関連するのかについても新しく説明された。
p.49 仏教の浸透にともなう動向
仏教の鎮護国家の思想を受けて、聖武天皇による国分寺建立や大仏造立などの大事業が進められたが、仏教保護政策のもとで大寺院は壮大な伽藍や広大な寺領を持ち国家財政への大きな負担ともなった。仏教が日本の社会に根づく過程で、現世利益を求める手段とされたり、在来の祖先信仰と結びついて、祖先の霊をとむらうための仏像の造立や経典の書写などがおこなわれた。また、仏と神は本来同一であるとする神仏習合思想がおこった(2)。
注(2) すでに中国において、仏教と中国の在来信仰の融合による神仏習合思想がおこっていたことにも影響を受けている。
[コメント]
朝廷による仏教保護政策の影響(国家財政や在来の信仰などへの影響)が具体的に記述された。
○国家財政への影響
奈良後半の財政悪化は、浮浪・逃亡にともなう調庸の滞納・減収が強調されるのが一般的だが、仏教保護政策による影響も大きいことが初めて記述された。
とはいえ、調庸の滞納・減収についてはセクション「土地政策と民衆」のなか(p.46)で、仏教保護政策についてはセクション「国家仏教の展開」のなか(p.48)と、別々に記述されているため、総合的な理解が難しいと思われる。
○仏教が浸透していく過程での動き
現世利益や祖先供養という形での仏教受容は、旧版は飛鳥文化で記述されていたものの、天平文化では記述されていなかった。それが新課程版では、飛鳥文化でその記述が消えた代わりに天平文化に追加記述された。そのことにより“白鳳〜天平文化=国家仏教”以外のイメージが追加されることになった。
ただ、現世利益はもともと法華経などで説かれているし、また、在来の祖先信仰との結びつきについても、中国で仏教と在来信仰の融合がおこっていたことが脚注(注(2))で触れられている以上、ともに「日本の社会に根づく過程で」の特殊事情ではないはず。「日本の社会に根づく過程で」との説明は不必要だろう。
また、神仏習合がようやく奈良時代のところで明記された。旧版では、弘仁貞観文化のところで、「仏教がしだいに人びとのあいだにいきわたるにつれて,古くから行われていた神々の信仰とのあいだに融合の動きがあらわれてきた。すでに8世紀から,神社の境内に神宮寺をたてたり,寺院の境内に守護神を鎮守としてまつったり,神前で読経することが行われており,このような神仏習合の動きは年とともに強まった。」と説明され、確かに「8世紀から」とあったものの、平安初期から始まったかのような誤解を受験生に与えかねない記述だった。今回の変更でその誤解がなくなるだろう。
ところが、神仏習合が始まった原因についての記述が中途半端。脚注(2)での説明は「・・ことにも影響を受けている」とあり、中国の影響以外にも原因があることの含みが残されているが、具体的には説明がない。
≪天平美術 p.49〜50≫
[コメント]
法隆寺伝法堂や唐招提寺講堂についての具体的な説明が追加され、乾漆像・塑像の具体例、過去現在絵因果経や螺鈿紫檀五絃琵琶、百万塔陀羅尼が本文に記述された。
≪平安朝廷 p.51〜57≫
[コメント]
旧版では「5.平安初期の政治と文化」というタイトルのもと、「平安遷都」「令制の改革」「農村と貴族社会の変化」「弘仁・貞観文化」「平安新仏教と密教芸術」「漢文学の隆盛」のセクションで構成されていたが、新課程版では「5.平安朝廷の形成」というタイトルに変更され、そのなかのセクションも「平安京の確立と蝦夷との戦い」「平安初期の政治改革」「地方と貴族社会の変貌」「唐風文化と平安仏教」「密教芸術」に変更された。
なかでも注目されるのは、最初のセクション。旧版では蝦夷との戦いについても説明されていたにもかかわらず「平安遷都」とのタイトルになっていたが、内容に対応したタイトルへと変更された。
≪桓武朝の二大政策−平安京造営と蝦夷≫
p.51 セクションのタイトル
平安京の確立と蝦夷との戦い
[コメント]
「平安京の確立」とはどういうことなのだろうか。“遷都”“形成”などの表現ではなく「確立」と表現したことにどのような意味があるのか。平城京への遷都を試みて失敗におわった平城上皇の変(藤原薬子の変)を説明したセクションに付けられたタイトルなら、すぐに了解できるのだが。
また、“蝦夷の征討”ではなく「蝦夷との戦い」と表現された点も注目に値する。蝦夷が律令国家による制圧・支配の客体としてだけではなく、律令国家に対峙する主体的な存在として評価されたことを意味している。
p.51 遷都事業の目的
桓武天皇は光仁天皇の政策を受け継ぎ、仏教政治の弊害を断ち、天皇権力を強化するために・・(中略)・・遷都した。
[コメント]
桓武天皇の主たる政策のひとつが天皇権力の強化であることが明記された。旧版では「桓武天皇は強い権力をにぎって貴族をおさえ」、「桓武天皇以後,朝廷では天皇の権力が強まり」と説明されていたが、遷都事業のところでは触れられておらず理解しにくい構成になっていたが、それが改善されたと言える。
また、遷都事業の目的のひとつが、「仏教政治の弊害を断」つことにあったと説明されたが、「仏教政治」という表現には“僧侶の政治介入”だけでなく“仏教保護政策”も含まれているようによめる。
p.51〜52 蝦夷地域に対する支配のあり方
東北地方では奈良時代にも北上川や日本海沿いを北上して城柵が設けられていった。城柵は、政庁や実務をおこなう役所群・倉庫群が配置され、行政的な役所としての性格を持ち、そのまわりに関東地方などから農民(柵戸)を移住させて開拓が進められた。こうして城柵を拠点に蝦夷地域への支配の浸透が進められた。
[コメント]
対蝦夷政策のあり方が具体的に記述された−柵戸の植民は旧版でも脚注で触れられていたが−。
p.52 光仁朝以降の東北経営の動揺
光仁天皇の780(宝亀11)年には帰順した蝦夷の豪族伊治呰麻呂が乱をおこし、一時は多賀城をおとしいれる大規模な反乱に発展した。この後、東北地方では三十数年にわたって戦争があいついだ。
桓武天皇の789(延暦8)年には紀古佐美を征東大使として大軍を進め、北上川中流の胆沢地方の蝦夷を制圧しようとしたが、族長阿弖流為の活躍により政府軍が大敗する事件もおこった。
[コメント]
律令政府と蝦夷との戦争についての記述が具体的になった−なお、伊治呰麻呂と阿弖流為は旧版ですでに記述されている−。このことにより、蝦夷との戦いが桓武朝にとって大きな課題であったことがより印象づけられることとなった。
p52 徳政論争(徳政相論)
しかし、東北地方での戦いと平安京の造営という二大政策は、国家財政や民衆にとって大きな負担となり、805(延暦24)年、桓武天皇は徳政論争とよばれる議論を裁定して(2)、ついに二大事業をうちきることにした。
注(2) 藤原緒嗣は「天下の民が苦しむところは軍事と造作である」と批判して、二大政策の継続を主張する菅野真道と論争したが、桓武天皇は緒嗣の議を採用した。
[コメント]
徳政論争(相論)の記述が初めて登場した。なお、平安京造営事業の打切りについては、p.51の「平安京図」についての「右京ははやくからさびれ」との記述との関連づけがあってもいいのではないだろうか。
なお、嵯峨朝の文室綿麻呂の東北遠征が脚注から消えた。
≪桓武朝の地方改革≫
p.52 地方行政への監督強化
地方政治の改革には力を入れ、ふえていた定員外の国司や郡司を廃止し
[コメント]
旧版では「国司や郡司に対するとりしまりを強め」と書かれていたが、それがより具体的な記述となった。
p.52〜53 軍団制廃止と健児制
兵士の質が低下したことを受けて、792(延暦11)年には東北や九州などの地域をのぞいて軍団と兵士とを廃止し、かわりに郡司の子弟や有力農民の志願による少数精鋭の健児を採用した(1)。しかしこれらの改革は、十分な成果をあげるところまではいかなかった。
注(1) 国の大小や軍事的必要に応じて国ごとに20〜200人までの人数を定めて、60日交替で国府の警備や国内の治安維持にあたらせた。
[コメント]
軍団制廃止(一部を除く)について、旧版ではその理由を「唐がおとろえて対外的緊張がゆるみ,また兵士の質が低下してきたため」と説明していたが、新課程版では前者が消えた。
また、健児制については「有力農民の志願」も含むことが記述された。
そして、これらの改革は十分な成果をあげられなかったことが記述されているのだが、「これらの改革」が指示する対象は何だろうか。段落のあり方から言えば、軍団制廃止と健児の採用を指すのだろうが、勘解由使設置など地方行政の改革をも指示対象に含むと考えるのが妥当。段落を分ける必要はなかったのではないか。
≪平城上皇の変≫
p.53 嵯峨天皇と平城上皇の対立
嵯峨天皇は、即位ののち810(弘仁元)年に、平城京に遷都しようとする兄の平城太上天皇と対立し、「二所朝廷」とよばれる政治的混乱におちいった。結局、嵯峨天皇側が迅速に兵を出して勝利し、太上天皇はみずから出家し、その寵愛を受けた藤原薬子は自殺、薬子の兄藤原仲成は射殺された(平城太上天皇の変、薬子の変ともいう)。
[コメント]
旧版でも「奈良の平城上皇と京都の天皇との間に対立がおこり」と記述され、事件の核心が藤原薬子にはなく、上皇(太上天皇)と天皇の関係悪化にあること−究極的には天皇一人に権力が集中せず、上皇や皇后らが権力を分掌するという王権のあり方にあること−が示されていたが、それがより明確化され、そうした内容に即した呼称(平城太上天皇の変)が採用された。いい加減に“藤原式家 vs 藤原北家”という図式での理解はやめられるべきであり、評価できる。
≪蔵人・検非違使設置の意義≫
p.53 蔵人頭
この事件(注:平城上皇の変)の際に、天皇の命令をすみやかに太政官組織に伝えるために、秘書官としての蔵人頭を設け
[コメント]
旧版では「藤原冬嗣らを蔵人頭に任じて機密事項をあつかわせ,太政官をつうじないで天皇の命令をくだせるようにした」と説明されていたが、機密保持という役割についての説明が消えた。しかし、その代わりに「天皇の命令をすみやかに太政官組織に伝える」との説明によって、緊急事態に際し、天皇が実務官人を直接指揮して詔勅の伝達や人事、軍事力の発動などをスムースに行うことが意図されていたことが表現されたとも言える−そこまでの内容を読み取ろうというのは無理があるか!?−。とはいえ、それまで天皇と太政官組織の間の伝達を取り次いでいた尚侍に、当時、藤原薬子が就いていたため、嵯峨天皇方の動きが藤原薬子を通じて平城上皇方に筒抜けになってしまうことを恐れて、嵯峨天皇により蔵人頭が設けられたのだから、機密保持についても触れてある方が、そのあたりの事情がわかりやすかったのではないか。
また、旧版の記述では蔵人の設置により太政官が形骸化したかのような印象を与えていたが、そうした誤解が生じる余地はなくなった。
p.53 蔵人
蔵人はやがて天皇の側近として重要な役割を果たすことになった。
p.53 検非違使
検非違使は、のちには裁判もおこなうようになり、京の統治をになう重要な職となっていった。
[コメント]
いずれも旧版では脚注に含まれていた記述で、新課程版では簡略化された形で本文に移された。
一方、旧版での脚注にあった「蔵人頭や検非違使は,官職についている者のなかから天皇が特別に任命する職であった。」との記述がカットされた。確かに意味の読み取りにくい記述ではあったが、これにより蔵人・検非違使という2つの令外官のもつ新しい性格が表現されていたわけで、この記述がなくなったことにより、天皇が官庁の重要機能を掌握し、直接指揮下におくための手足となったことを読み取る手がかりがなくなった。もう少し天皇権力の強化という側面を強調してもよいのではないだろうか。
ちなみに、検非違使については、「歴史の追究(1) 法制の変化と社会」のなかで、鎌倉初期の建久の新制で「京都の支配制度を検非違使を中心に整えている」(p.58)と説明されている。
≪平安前期における貴族社会の変化≫
p.54 院宮王臣家
天皇と親近の少数の皇族や貴族は院宮王臣家とよばれて、私的に多くの土地を集積し、国家財政を圧迫しつつ勢いをふるうようになった。
[コメント]
やや記述が変更されているが、気になるのは、「桓武天皇以後,朝廷では天皇の権力が強まり」との記述が消えたこと。それにより、院宮王臣家の活動が活発化したことと天皇権力の強化との関連がやや見えにくくなったのではないか。
また、律令国家のしくみのところで「行政の運営は、有力諸氏から任命された太政大臣・左大臣・右大臣・大納言などの太政官の公卿の合議によって進められた」(p.35)と記述されていたこと、桓武朝のところで「桓武天皇は、左大臣をおかないなど貴族をおさえながら」(p.52)と書かれていることを考えると、旧来の有力諸氏が氏の代表として公卿を出すというあり方が後退し、天皇ならびにその親近の皇族・貴族という限られた人びとによって朝廷の中枢が構成されるようになったという、貴族社会の変貌がもっと強調してもよいのではないかと思う。
≪平安前期における地方の変貌≫
p.53 公地公民制の動揺
8世紀後半から9世紀になると、農民間に貧富の格差が拡大したが、有力農民も貧窮農民もさまざまな手段で負担を逃れようとした。そして戸籍に兵役・労役・租税を負担する男子の登録を少なくする偽りの記載(偽籍)がふえ、律令の制度は実態とあわなくなった。こうして、手続きの煩雑さもあって班田収授は実施が困難になっていった。
[コメント]
有力農民の租税忌避の動きが明記されたこと、戸籍が実態を反映しなくなっていたことが明記された。ともに旧版での記述から読み取れたのだが、明記されることでより意識化できるようになった。
p.54 桓武朝の公地公民制再建策
桓武天皇は班田収授を励行させるため、6年1班であった班田の期間を12年(一紀)1班に改めた。また、公出挙の利息を利率5割から3割に減らし、雑徭の期間を年間60日から30日に半減するなど、負担を軽減して公民たちの維持をめざした。しかし効果はなく
[コメント]
班田励行以外の政策が追加記述され、さらにそれらの効果がなかったことが明記された。
ところで、ここでは「公民」との表現が用いられているが、律令国家の形成期以降、被支配者層を表す用語に統一性が欠けている。“律令国家のしくみ”のところでは「民衆」、奈良時代ではセクションの見出しには「土地政策と民衆」と書かれながらも本文では「農民」が用いられ、またp.45では「付近の農民や浮浪人」との表現もある。そして、平安初期のところでは「農民」が一般的でありながらも、上記の箇所では「公民」と表現されている。概念的な区別がなされているとも思えず、今後、改善して欲しいものである。
≪平安初期−その他−≫
p.51 桓武天皇の出自
光仁天皇と渡来系氏族の血を引く高野新笠とのあいだに生まれた桓武天皇
p.51 藤原種継暗殺事件
桓武天皇の腹心で長岡京造営を主導した藤原種継が暗殺される事件がおこり、皇太子の早良親王(桓武天皇の弟)や大伴氏・佐伯氏の旧豪族がしりぞけられた(1)。
注(1) 桓武天皇の母や皇后があいついで死去するなどの不幸が、早良親王の怨霊によるものとされるなか、長岡京はなかなか完成しなかった。
p.53 格式の編纂目的
これは、官庁の実態にあわせて政治実務の便をはかったもので
p.53 交替式(脚注)
国司交替についての規定として延暦・貞観・延喜の三代の交替式もつくられた。
≪弘仁貞観文化≫
p.54 特徴
文芸を中心とした国家の隆盛をめざす文章経国の思想が広まり、宮廷では漢文学が発展し、仏教では新たに伝えられた天台宗・真言宗が広まり密教がさかんになった。
[コメント]
唐文化の強い影響という特徴づけが本文から消えてセクションの見出し(「唐風文化と平安仏教」)に移ったこと、文章経国思想の広まりが追加記述されたことが特徴的。そして、文章経国思想が強調されていることもあり、漢文学についての説明が最初にまわってきた。
p.54 唐風文化・漢文学の隆盛と嵯峨天皇
嵯峨天皇は、中国風を重んじ、平安京の殿舎に唐風の名称をつけたほか、唐風の儀礼を受け入れて宮廷の儀式を整えた。また、文学に長じた貴族を政治に登用するなど、文化人を国家の経営に参加させる方針をとった。
貴族の教養として漢詩文をつくることが重視され、漢文学がさかんになり、漢字文化に習熟して漢文をみずからのものとして使いこなすようになった。このことは、のちの国風文化の前提となった。
[コメント]
“特徴”のあとに“儀式の整備・文人貴族の登用”→“漢文学の隆盛”と続くのだが、嵯峨天皇の施策のみを説明した段落“儀式の整備・文人貴族の登用”が段落“漢文学の隆盛”の前に配置されていることに違和感を覚える。
なぜ「文章経国の思想が広ま」ったのか、なぜ「中国風を重んじ」たのか。それらの背景を嵯峨天皇の個人的な気質に還元してしまっているように見える(それなら段落“漢文学の隆盛”の冒頭に「そのため」などの接続表現がほしいのだが)。
確かにその側面を無視することはできないと思うが、たとえば桓武朝で中国の儀礼が導入されていることがしばしば指摘されているわけで−新たに筆者に加わった坂上康俊氏の『日本の歴史05 律令国家の転換と「日本」』(講談社、2001)でも触れられている!−、“中国風の重視”は何も嵯峨天皇だけに限ったことではなく、桓武天皇以来の天皇権力の強化という動きと関連づけるのが適当ではないのか−たとえば、旧来の氏姓的秩序にとらわれない文人貴族の登用は、桓武〜淳和朝に共通する現象だろう−。
ちなみに、『日本書紀』を継承して行われた国史編纂事業については新課程版ではカットされた(天平文化のところで脚注のなかで触れられているが)。平安初期の“唐風文化”を嵯峨天皇という個人から説明しようとする姿勢がここにも現われているのかもしれない。
なお、『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』の3つの勅撰漢詩文集についての説明が本文から脚注に移った。
p.55 桓武天皇の仏教政策
奈良時代後半には、仏教が政治に深く介入して弊害もあったことから、桓武天皇は、南都の大寺院を長岡京・平安京に移転することを認めず、最澄らの新しい仏教を支持した。
[コメント]
寺院の移転禁止がここで初めて記述された。
p.55 最澄による大乗戒壇設立運動
彼はそれまでの東大寺戒壇における受戒に対して、新しく独自の大乗戒壇の創設をめざした。これは南都の諸宗から激しい反対を受けることとなり、最澄は『顕戒論』を著して反論した。その死後、大乗戒壇の設立が公認され、最澄の開いた草庵にはじまる比叡山の延暦寺は仏教教学の中心となっていった。
[コメント]
旧版では「南都から独立した仏教修行のあたらしい道をとなえた」と説明されていたが、その「独立」の内容が具体的に説明されるとともに、脚注にあった延暦寺の果たした役割が本文へ移った。
p.55〜56 空海
空海は、儒教・仏教・道教のなかで仏教の優位を論じた『三教指帰』を著して仏教に身を投じた。のち804(延暦23)年に入唐し、長安で密教をきわめて2年後に帰国し、高野山に金剛峰寺を建てて真言宗を開いた。
[コメント]
説明が詳しくなった。
p.56〜57 神像彫刻
神仏集合を反映してさかんになった神像彫刻としては、薬師寺の僧形八幡神像・神功皇后像などがある。
[コメント]
神像の具体例が本文に追記された。
p.57 絵画
曼荼羅は、密教で重んじる大日如来の智徳をあらわす金剛界、同じく慈悲をあらわす胎蔵界の仏教世界を整然とした構図で図化したものである。
[コメント]
曼荼羅の具体的な説明が追記された。
p.57 絵師
この時代の絵師としてが百済河成らの名が伝わっている。
≪摂関政治≫
p.60 承和の変
藤原良房は、842(承和9)年の承和の変で北家の優位を確立する一方、伴(大伴)健岑・橘逸勢ら他氏族の勢力をしりぞけた。
[コメント]
旧版では他氏排斥事件とのみ位置付けられていたが、新課程版では、北家の優位確立という意義が新しく前面にだされた。とはいえ、どのようにして優位が確立したのかが説明されておらず、そのため、「一方」との表現があるものの、他氏排斥によって優位が確立したとの理解を導いてしまいそうな印象がある。p.61の系図もそうだが、恒貞親王もしくは道康親王(のちの文徳)についての指摘がほしいところである。
p.60 応天門の変(脚注)
大納言伴善男が・・(中略)・・その罪を左大臣源信に負わせようとして発覚し
[コメント]
源信が新たに追加された。
p.60 光孝天皇
太政大臣藤原基経に支持されて即位した光孝天皇
p.60 基経の関白就任と阿衡事件
888(仁和4)年、基経は宇多天皇が即位にあたって出した勅書に抗議して、これを撤回させ(阿衡の紛議(2))、関白の政治的地位を確立した。
注(2) 宇多天皇が出した勅書には基経を阿衡に任ずるとしていたが、中国の古典にみえる阿衡には実職がともなっていないとして、基経は政務をみなくなった。このため、宇多天皇は勅書を撤回し、あらためて基経を関白にした。
[コメント]
阿衡事件についての記述が脚注から本文に移り、そして阿衡事件の説明が新たに脚注として記述された。
なお、基経が正式に関白に任じられたのがこのときであることは、旧版と同様、明記されていないが、脚注のなかで「阿衡に任ずるとしていた」「あらためて基経を関白にした」と書かれたことで、この阿衡事件を経ることではじめて関白が確立したことが、より明らかに示されたといえる。
p.61 菅原道真左遷事件
注(1) 901(延喜元)年、左大臣藤原時平は道真が女婿斉世親王を即位させようとしていると訴えた。
[コメント]
道真が左遷された事情の説明が追加された。
p.61 摂関家
ほとんどつねに摂政または関白がおかれ、その地位には藤原忠平の子孫がつくのが例となった。
[コメント]
旧版では「その地位には必ず基経の子孫がつくのが例となった。」とあったのが、「基経」→「忠平」へと変更された。これは、”天皇が幼少=摂政、天皇が成人=関白”というパターンが忠平のときにできあがり、それ以降の先例となっていったことを意識したものだろう。
≪摂関政治期の貴族社会と国政運営≫
セクションの構成が変更されている(p.62)。
旧版では、
母方で養育=外戚関係の重要性
→国政運営(天皇が太政官を通じて全国支配)
→摂政・関白=外戚として権力掌握
→摂関家や院宮王臣家が人事権に深く関与
→中下級貴族が上級貴族に隷属
→次第に先例や儀式の重視
という構成だったのが、新課程版では、
婚姻形態
→母方で養育=外戚関係の重要性
→摂政・関白=外戚として権力掌握
→摂関が人事権に深く関与
→中下級貴族が摂関家や上級貴族に隷属
→国政運営(天皇が太政官を通じて全国支配)
→次第に先例や儀式の重視
という構成に変更され、関連がつかみやすい構成となった。
p.62 摂関家と中下級貴族
摂政・関白は官吏の任免権に深くかかわっていたため、中・下級の貴族たちは摂関家やこれと結ぶ上級貴族に隷属するようになり、やがて昇進の順序や限度は、家柄や外戚関係によってほぼ決まってしまうようになった。そのなかで中・下級の貴族は、摂関家などにとり入り、経済的に有利な地位となっていた国司になることを求めた。
[コメント]
微妙に表現が変更されているが、次の5点が注目される。
(1)旧版では「摂政・関白は役人の任免権に深くかかわっており、摂関家と結ぶ院宮王臣家も官人推挙の権を持っていた」と書かれていたが、新課程版では、院宮王臣家(上級の皇族・貴族)が人事に対して影響力を行使できる立場にあったことが記述から消えた。
(2)平安初期のところで(p.54)、「下級官人」が「院宮王臣家」の家人になろうとする動きについて説明されていたが、こことは使われている用語が異なる(下級官人←→中・下級の貴族、院宮王臣家←→上級貴族)。統一性の確保をのぞみたい。
(3)中下級貴族の上級貴族に対する「隷属」について、旧版では「上級貴族は彼らから土地や物品の寄進をうけるなどして,その権勢を強めていった。」と、その内容が具体的に説明されていたが、新課程版では消えた。少し後にでてくる「国免荘」との関連が見えなくなったのではないか。
(4)摂関政治の頃から貴族社会における階層秩序が形成され、徐々に固定化の傾向をみせはじめることが明記された。
(5)旧版では、「貴族たちは個人的に天皇や摂関家にとりいって,政治的・経済的基盤を確立することには熱心でも,国の行政にたずさわる責任感には欠けていた。」と書かれ、国政に対する貴族(特に受領クラスの中下級貴族)の姿勢についても触れられていたが、新課程版ではそれについての指摘がきえた。
p.62 太政官と天皇
注(2) 主たる政務は太政官での公卿の会議によって審議され、審議の結果は天皇(もしくは摂政)の決裁をへて太政官符・宣旨などの文書で命令・伝達された。
[コメント]
天皇(もしくは摂政)の決裁が追加記述された。
≪国風文化≫
p.64 国風文化の特色
日本では7世紀以後、大陸のすぐれた文物や思想を積極的に吸収してきたが、9世紀後半から10世紀にかけて日本と大陸との関係が大きく変化すると、それまでの大陸文化の消化のうえに立って、貴族社会を中心に、日本の風土や日本人の人情・嗜好にかなった、優雅で洗練された文化が生まれてきた。このように10〜11世紀の文化は、国風化という点に特色があるので、国風文化とよばれる。
[コメント]
旧版とほぼ変わらない記述だが、遣唐使廃止との直接的な関連づけが消えている点がひとつの特徴(1998年の改訂版より以前との違い)。ただ、セクション《国際関係の変化》での「907(延喜7)年、東アジアの政治と文化の中心であった唐はついに滅び」(p.63)などの記述との関連がもう少し強調されてもよいのではないかと思うが、文脈から言えば理解できる範囲か。
なお、旧版では「藤原文化」との別称も記されていたが、それが消えた。
p.66 御霊会
注(1) 御霊会は、はじめ早良親王ら政治的敗者をなぐさめる行事として、9世紀半ばにはじまったが、やがて疫病の流行を防ぐ祭礼となった。
[コメント]
怨霊とみなされた政治的敗者と疫病の流行との関連は全く説明されておらず、なぜそうした性格の変化が生じたのか、生徒に疑問を生じさせる記述となっている。教育的配慮か!?
≪平安中期の地方社会≫
[コメント]
「3 荘園と武士」は、<国司の地方支配><荘園との発達><地方の反乱と武士の成長><源氏の成長>という構成になり、セクション<荘園と公領>が「第4章 中世社会の成立」の「1 院政と平氏の台頭」にまわった。荘園公領制の成立=中世社会の成立という判断によるもので、延久の荘園整理令の説明に関連させる形で<荘園と公領>の説明が配置されている(後述)。
≪国司制度の変質≫
p.70〜71 受領や成功、重任、遥任
任国に赴任する国司の最上席者(ふつうは守)は、政府に対する徴税請負人の性格を強めて受領とよばれるようになり、巨利を得ようとして強欲なものが多かったので(中略)。
このころには私財を出して朝廷の儀式や寺社の造営などを請け負い、その代償として官職に任じてもらう成功や、同様にして収入の多い官職に再任してもらう重任がおこなわれるようになった。こうしたなかで、一種の利権とみなされるようになった国司という官職は、成功や重任で任じられることが多くなった。また赴任せずに、国司としての収入のみを受け取る遥任もさかんになった。
やがて11世紀後半になると、受領は任国に常駐しなくなり、かわりに目代を任国の政庁(留守所)に派遣し、その国の有力者が世襲的に任じられる在庁官人を指揮して政治をおこなうようになった。
[コメント]
受領や成功、重任、遥任の説明順序が変更されている。
旧版では、
国司の徴税請負人化
→国司の利権視
→成功・重任
→遥任と受領
という構成だったのが、新課程版では
国司の徴税請負人化=受領
→成功や重任
→遥任
→受領の遥任化
という構成に変化している。
ここで注目できるのは次の3点。
(1)「受領」の定義づけが変化。
「任国に赴任する国司の最上席者(ふつうは守)」という定義そのものに変化はない。しかし、旧版では<遥任との対比>において定義されていたのに対し、新課程版では<徴税請負人の性格を強めた国司(の最上席者)>を表す呼称へと変化し、遥任との対比という視点は消えた。
そして、11世紀後半(院政期)には受領の遥任化が進んだことが、ようやく記述されるようになった。
(2)徴税請負人の性格を強めたのは「国司」なのか、それとも「受領」なのか。
旧版では「徴税請負人の性格を強めた国司」とあったのが、「任国に赴任する国司の最上席者(ふつうは守)は、政府に対する徴税請負人の性格を強めて」と書かれたことで、国司(守介掾目とも含む)全体がまとまって朝廷に対する徴税請負人の性格を強めたかのような印象が消えた。
(3)国司が利権化した理由説明が欠落。
「一種の利権とみなされるようになった国司という官職は、成功や重任で任じられることが多くなった。」と書かれているのだが、なぜ「一種の利権とみなされるようになった」のか、その理由が説明されていない。
≪地方支配方式の変化−その他−≫
p.69 延喜期における律令制の崩壊
(延喜の荘園整理令などで令制の再建をめざしたが:引用者補)もはや戸籍・計帳の制度はくずれており、班田収授も実施不可能となっていたので、租や調・庸をとり立てて、それによって国家財政を維持することはできなくなった。
[コメント]
旧版では「もはや律令制の原則では財政を維持することが不可能になっていることがわかった」とだけ書いてあったのが、<律令制の原則>がより詳しく説明された。
p.70 王朝国家体制
脚注にあった「王朝国家」との表現が消えた。
≪荘園の発達≫
p.71 免田型荘園
[コメント]
記述が消えた。
旧版では、初期荘園についての説明のあとに
10世紀以降になると,しだいに貴族や大寺院の権威を背景として中央政府から租税の免除(不輸)を承認してもらう荘園が増加し,地方の支配が国司にゆだねられるようになってからは,国司によって不輸が認められる荘園もうまれた。
と、10世紀における免田型荘園についての説明があった。
ところが新課程版では、10世紀段階に免税特権をもつ(免田により構成される)荘園が存在していたことが無視され、11世紀半ばに寄進地系荘園が各地に広がったことを説明したあとに、次のように説明されているにすぎない。(p.72〜73)
こうして拡大していった荘園のなかには、貴族や有力寺社の権威を背景にして、政府から租税の免除(不輸)を承認してもらう荘園がしだいに増加し、のちには国司によって不輸が認められた荘園も生まれた。
このような変化が施されたことの弊害は以下の通り。
(1)寄進地系荘園成立の要因として、開発領主が「所領にかかる税の負担を逃れようとし」(p.71)たことが説明されているのだが(後述)、なぜ所領を貴族や有力寺社へ寄進して彼らの荘園とすれば「税の負担を逃れ」ることができるのかが、理解できない構成になってしまった。
もちろん、不輸権をもつ荘園は「しだいに増加し」(p.72)たと書いてある。このような形で、11世紀半ばに寄進地系荘園が各地に広がる以前から不輸権をもつ荘園が存在していたことは、示唆されている。しかし示唆にとどまっており、分かりやすい記述とは言えない。わざわざ分かりにくい記述に変更したのは、生徒に読解を要求しようとする教育的配慮なのだろうか。
(2)国免荘の登場が11世紀半ばよりも「のち」のこととのように読めるようになった。
このことは史料から言って適切なのか。実教や三省堂の教科書では、官省符荘ともに10世紀にすでに存在していたと説明されている。
たとえば、実教『日本史B』(新課程版ではない)では
国司は任期の末期にしばしば自分自身や,縁故のある貴族・寺社の荘園に対して,不輸を認め(国免荘),国司辞任後の生活にそなえたが,国免荘は次期の国司によって収公されることが多かった。
と説明されている−山川の旧版では、脚注のなかで類似の説明がなされていたが新課程版ではカットされた(後述)−。
こうした説明が10世紀段階のところにあれば、国司の任免権に深くかかわる摂関家や有力な皇族・貴族たちに対して中下級貴族が取り入る様子の一端をかいま見ることができる。
山川の新課程版では、そうした関連づけを拒絶しているかに読める。
p.71 開発領主による所領寄進
彼ら(補注:開発領主)の多くは在庁官人となって国衙の行政に進出したが、なかには所領の税の負担を逃れようとして、所領を中央の権力者に寄進し、権力者を領主とあおぐ荘園とするものもあらわれた。
[コメント]
旧版での表現は次の通り。
彼らは在庁官人となって国衙の行政に進出するとともに,他方で国司から圧力が加えられると所領を中央の権力者(権門勢家)に寄進し,権力者を領主とあおぐ荘園とした。
ほとんど変化がないのだが、「他方で」との表現に代わって「多くは」「なかには」との表現が用いられた。そのことにより、在庁官人になること、所領を中央の権力者に寄進することが、二者択一の選択肢になることもあれば、同一人物が両方を同時に選ぶこともあるという、微妙な実態が示されたように思う。
p.72 荘園の私的支配の進展
不輸・不入の権の拡大によって,荘園における土地や人民の私的支配が強まり,寄進地系荘園の拡大はこの傾向をいっそう強めた。こうした情勢に直面した国司は荘園を整理しようとして、荘園領主との対立を深めるようになった。
[コメント]
表現そのものに大きな変化はないが、注目されるのは以下の3点。
(1)旧版での「荘園はようやく国家からはなれ」との記述が消えた。
国家(政府)から完全に独立したわけではないのだから、妥当な処置だと思う。
(2)国司と荘園との関係についての次の脚注が消えた。
「逆に任期終了近くになると,荘園の拡大を許可することで利権を得る国司もいた。」
先にも触れた点だが、この脚注が消えたことで、国司(受領クラスの中下級貴族)が常に荘園を抑制する立場にたっていたかのような印象が生じている。
では、なぜ「のちには国司によって不輸が認められた荘園も生まれた」のだろうか。新課程版は、その点を説明してくれない。
(3)「荘園」と「寄進地系荘園」が使い分けられているが、「寄進地系荘園」以外にどのような類型の荘園が当時、存在していたのかが不明。
このように書くと、墾田地系荘園があるではないかとの反応がかえってきそうだが、p.71では「その多くが10世紀までに衰退していった。」と説明されている。つまり、新課程版の記述を読む限り、10世紀〜11世紀初の段階では荘園はほとんど全く存在していないのである。免田型荘園の記述をカットしたために表現に無理が生じてしまったのではないか。
p.71 かせだ荘絵図
[コメント]
旧版から変更はないのだが、あいかわらず本文の関連が見えない。
「荘園村落の実情をよく知ることができる」とか、「荘の領域の境目」が書き込まれていることが説明されているのだが、それに対応した説明が本文にない。p.79で「荘園と、国司の支配する公領(国衙領)とが明確になっていった。」との表現が新たに追加されているのだが(後述)、そこに配置するか、もしくは本格的な荘園の成立について明確に説明する必要があるだろう。
ちなみに、三省堂『詳解日本史B』では次のように説明されている。
それまでの田地ごとに国衙から租税などを免除された荘園にかわって,村落や耕地だけでなく,山野や河海をもふくめた領域を単位とする荘園が成立し,しだいにこうした荘園が増えていった。
≪武士の成長≫
p.72-73 武士の発生
9世紀末から10世紀にかけて(中略)地方豪族や有力農民は、勢力を維持・拡大するために武装するようになり、各地で紛争が発生した。その鎮圧のために政府から押領使・追捕使に任じられた中・下級貴族のなかには、そのまま在庁官人などになって現地に残り、有力な武士(1)となるものがあらわれた。
注(1) 武士とは、もともとは朝廷に武芸をもって仕える武官をさしていた。
[コメント]
武士を「地方豪族や有力農民の武装」とは定義していない点が新しい。つまり、「武装」をもって武士の要件としていないのである。その点は、旧版(改訂版)で初めて記された注(1)からもうかがわれる。
しかし、ここで定義されているのは「有力な武士」でしかなく、結局、(中世的な)「武士」そのものは定義されていない。
なお、「政府から押領使・追捕使に任じられた中・下級貴族」のなかから「有力な武士」=兵が生まれたと書かれているが、p.74では旧版のまま、「地方武士の実力を知った朝廷や貴族たちは」「地方武士を国の兵として国司のもとに組織するとともに、追捕使や押領使に任命して、治安維持を分担させることもさかんになった」と説明されている。もちろん、p.72の注(3)で、押領使・追捕使は「はじめは臨時に任命されていたが、しだいに諸国に常置されるようになった」と説明されており、前者の「押領使・追捕使」は中央から臨時に派遣されたもの、後者の「追捕使や押領使」は現地に残って有力な武士となったものが任じられた常設の役職だとわかるのだが、注でしか説明がないため、やや関連が理解しにくくなっていないか。後者について“諸国に常置されるようになった”くらいの説明が本文にあってよいと思う。
p.74 武家の形成
中央貴族の血筋を引く清和源氏や桓武平氏は、地方武士団を広く組織して武家を形成し
[コメント]
旧版では「棟梁」と表現されていたのが「武家」に変更された。
なお、ここでいう「地方武士団」とは、その直前に「11世紀になると、開発領主たちは私領の拡大と保護を求めて、土着した貴族に従属したり、在庁官人になったりして勢力をのばし、地方の武士団として成長していった」と書かれていることから,「土着した貴族」以外の人びとを指すはず。そして,先に引用した「有力な武士」の出自からすれば,「有力な武士」は「政府から押領使・追捕使に任じられた中・下級貴族」出身の者であり,つまりすべて「中央貴族の血筋を引」いている。
では,武家を形成した「中央貴族の血筋を引く清和源氏や桓武平氏」と,そうした地方の「有力な武士」との区別はどこにあるのか。あるいは,中央貴族の血筋を引く地方の「有力な武士」たちも清和源氏や桓武平氏のもとに組織されていったはずだが,同じ「中央貴族の血筋を引く」者であるにもかかわらず,なぜそのような差異が生じたのか。
この教科書は,そうした点を説明しきれていない。
p.74 図版・宿直の侍
宿直の侍(『石山寺縁起絵巻』,部分) 主人の安全をまもる宿直の警固は,従者の奉公でもっとも重要なものであった。縁側などに寝ずにつとめていた。(滋賀 石山寺蔵)
[コメント]
有力貴族の侍がどのようなことを行っていたのかが具体的に説明された。そしてこの記述では,<有力貴族=主人>,<武士=従者(主人に奉公する存在)>と説明され,両者のあいだに主従関係が成立していたことが表現されている。
山川2003の変更箇所[目次]/
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