p.227 列強
巨大な工業生産力と軍事力を備えるにいたった欧米諸国[コメント]
p.227 オランダ国王の開国勧告への幕府の対応
しかし1844(弘化元)年,オランダ国王が幕府に親書をおくり開国を勧告しても,世界情勢の認識にとぼしい幕府はこれを拒絶し,あくまでも鎖国体制を守ろうとした。[コメント]
p.227 アメリカの開国要求の背景
アメリカは,北太平洋を航海する自国の対清国貿易船や捕鯨船の寄港地として日本の開国を強く望んでいた。[コメント]
p.227 史料「オランダ国王の開国勧告」
[コメント]
史料「オランダ国王の開国勧告」が新しく追加された。
p.227 幕末の琉球と欧米諸国
[コメント]
旧版では脚注で
すでに琉球には1816年のイギリス艦隊の来航以後,フランス・オランダ・アメリカ・ロシアなどの船があいついで来航していた。との説明がついていたが、これがカットされた。これにより、幕末期の琉球をめぐる国際情勢についての説明がなくなった。
p.227 アメリカのカリフォルニア領有
アメリカが,1848年にメキシコからカリフォルニアをうばって太平洋岸に到達すると[コメント]
p.228 黒船
アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーは軍艦(黒船)4隻をひきいて浦賀沖にあらわれ[コメント]
p.228 図版「列強のアジア進出」
[コメント]
旧版では「19世紀半ばころ」の勢力範囲を示しながら、1886年に完全に併合されたミャンマー(ビルマ)全土や19世紀後半に植民地化されるマレー全土がイギリスの勢力範囲に含まれるなど、やや不正確なところがあった。それが新課程版では、「日本開国時(1854)」と「19世紀末」の2パターンに分けられ、ペリー来航頃の欧米諸国のアジアでの版図とそれ以降の版図とが区別できるようになった。
ただし、日本については「19世紀末」の版図が示されていない。日本は<欧米諸国から侵食される側>でなければならないのだろうか。
p.229 開国後の政治改革
開国後は,幕府・諸藩とも,軍事力の強化や海外情報の収集・人材育成などをはかった。[コメント]
p.229 日米修好通商条約の調印
大老井伊直弼は勅許を得られないまま,同年6月に日米修好通商条約の調印を断行した。[コメント]
p.230 日米修好通商条約の内容
この条約には,(1)神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港と江戸・大坂の開市,(2)通商は自由貿易とすること,(3)開港場に居留地を設け,一般外国人の国内旅行を禁じることなどが定めてあった。さらに,(4)居留地内での領事裁判権を認め(治外法権),(5)関税についても日本に税率の決定権がなく,相互で協定して決める協定関税(関税自主権の欠如),という条項をふくむ不平等条約であった。[コメント]
p.230 開港後の輸出品
日本からは,生糸・茶・蚕卵紙・海産物などの農水産物やその加工品が多く輸出され[コメント]
p.231 五品江戸廻送令
幕府は,物価抑制を理由に貿易の統制をはかり,1860(万延元)年,雑穀・水油・ろう・呉服・生糸の5品は,必ず江戸の問屋をへて輸出するように命じた(五品江戸廻送令)。しかし,輸出向け商品をとり扱った在郷商人や商取引の自由を主張する列国の反対で効果はあがらなかった。[コメント]
さらに流通面では輸出に生産が追いつかず,在郷商人が問屋をとおさずに商品を開港地に直送したので,江戸の問屋を中心とするこれまでの特権的な流通機構がくずれ,物価も高騰した。ところが、新課程版ではこれがカットされた。その代わり、五品江戸廻送令の効果についての説明のなかで、在郷商人についての説明、列国が反対した理由が追加記述された。
p.231 水油についての補足説明
(1) おもに灯火用に用いられた菜種油のことで,色がなく透明であったのでこうよばれた。[コメント]
p.231 開港後の銀貨流入
(2) (前略)外国人は外国銀貨(洋銀)を日本に持ち込んで日本の金貨を安く手に入れたため(後略)[コメント]
p.232 井伊直弼と将軍継嗣問題
1858(安政5)年,南紀派の指導者である彦根藩主井伊直弼が大老に就任し,無勅許で通商条約の調印を強行するとともに,一橋派をおし切って徳川慶福を将軍の跡継ぎに決定した(14代将軍徳川家茂)。[コメント]
慶福をおす南紀派は彦根藩主井伊直弼を大老にむかえ,一橋派をおしきって慶福を将軍のあとつぎに決定した(14代家茂)。と記述されていて、井伊直弼が南紀派に含まれないかのような説明となっていた。ところが、新課程版では井伊直弼が「南紀派の指導者」と明記され、将軍継嗣の決定を主導したのも井伊直弼であることが明確化された。
p.232 孝明天皇
条約の違勅調印は孝明天皇の怒りを招き,一橋派の大名や尊王攘夷をとなえる志士たちから強い非難の声があがった。[コメント]
p.232 桜田門外の変
[コメント]
旧版にあった「その結果,幕府の独裁はくずれはじめた」の記述がカットされた。
p.232 安藤信正の公武合体策
老中安藤信正は,朝廷(公)と幕府(武)の融和をはかる公武合体の政策をとり,孝明天皇の妹和宮を将軍徳川家茂の正室(夫人)にむかえた。[コメント]
老中安藤信正は,朝廷との融和をはかり,反幕府勢力をおさえるために,朝廷(公)と幕府(武)が合体して政局を安定させようと公武合体運動を進めとあったが、反幕府勢力の抑制という目的がカットされた。
p.232 島津久光
藩主島津忠義の父である島津久光[コメント]
p.232 尊王攘夷運動と将軍の上洛
京都では,下級藩士の主張する尊王攘夷論を藩論とする長州藩の動きが活発となり,急進派の公家と結んで朝廷を動かし,将軍を上洛させて攘夷の決行を幕府にせまった。[コメント]
p.232 尊王攘夷論
(3) 尊王攘夷論は(中略)通商条約の違勅調印以後は反幕論へと進んで現実的な政治革新運動となり[コメント]
p.233 第一次長州征討
幕府はただちに諸藩兵を動員して長州征討(第1次)に向かった。(中略)これらの動きのなかで長州藩の上層部は藩内の尊攘派を弾圧し,幕府に対し恭順の態度をとった。このため,長州征討の幕府軍は交戦しないまま撤退した。[コメント]
p.234 改税約書
改税約書に調印させ,貿易上の不平等を拡大させた(1)。[コメント]
(1) 改税約書では,通商条約締結の際に定めた関税率(平均20%)を諸外国に有利になるよう(一率5%)に改め,また自由貿易をさまたげる諸制限を撤廃した。
p.234 イギリスとフランス 旧版にあった
イギリス・フランス両国は対日政策で対立する結果となり,朝廷・雄藩と幕府側との対立を激しくさせた。との記述がカットされた。
p.234 第一次長州征討後の長州藩
高杉晋作・桂小五郎(木戸孝允)らの長州藩尊攘派も,下関で四国艦隊に惨敗し,ついに攘夷の不可能をさとった。いったんは幕府に屈伏した長州藩だが,高杉らはさきに組織した奇兵隊をひきいて1864(元治元)年末に下関で兵をあげて藩の主導権を保守派からうばい返し,領内の豪農や村役人と結んで,藩論を恭順から討幕へと転換させ,イギリスに接近して軍事力の強化につとめた。[コメント]
p.234 薩長連合(同盟)
(薩長連合,または薩長同盟)[コメント]
なお、旧版からの記述だが、薩長連合の締結に関して「すでに開国進取に転じていた薩摩藩は、ひそかに長州藩を支持する態度をとった」との説明があるが、「開国進取」に転じていたことと長州藩支持の態度とはどのように関係するのだろうか?
また、「反幕府の態度を固めた。」とも説明されるのだが、セクションのタイトル「討幕運動の展開」の「討幕」と、この「反幕府」とは同じ内容と考えてよいのだろうか?
もちろん、この教科書に即せば、否である。
なにしろ、セクション「幕府の滅亡」のところで、「1867(慶応3)年,前年に同盟を結んだ薩長両藩は,ついに武力討幕を決意した。」と説明されているのだから。
だとすれば、セクションのタイトル「討幕運動の展開」を内容に即した表現へと変更すべきではないだろうか。
p.235 ええじゃないか
熱狂的な「ええじゃないか」の集団乱舞が発生し,この「世直し」を期待した民衆運動は幕府の支配秩序を一時混乱におとし入れた。[コメント]
「ええじゃないか」の乱舞は,宗教的形態をとった民衆運動として,討幕運動にも影響をあたえていった。と説明され、「影響」については何の説明もなかったが、新課程版ではええじゃないかの影響が表現された。
p.235 15代将軍慶喜の幕政改革
徳川慶喜は,フランスの援助のもとに幕政の立て直しにつとめた(2)。しかし1867(慶応3)年,前年に同盟を結んだ薩長両藩は,ついに武力討幕を決意した。[コメント]
(2) フランスから陸軍士官を招いて軍制改革などをおこなった。
ロッシュは,1867(慶応3)年,幕政再建のために,諸大名の力をおさえて中央集権的体制をきずくことを提案し,幕府もこれをいれて職制を改め,との説明があったが、これらがカットされた。そのため、フランスへの依存のみが残ることになり、「しかし」との接続詞があるものの、そのことと薩長両藩が武力討幕を決意したこととの間に何らかの関係があるとの印象を与えることとなった。
次に、幕府と薩摩藩の対立について。旧版では、将軍慶喜下の幕府が「長州征討のあとしまつ問題で薩摩藩と衝突し」たこと、ならびにその衝突の内容(下記の通り)が説明されていた。
幕府がこれまで保留となっていた兵庫の開港問題を先決としたのに対し,薩摩藩はさきにまず長州藩の処分軽減の問題を論議するよう主張した。ところが、これらが全てカットされた。
p.236 王政復古のクーデタ
討幕派は,12月9日,薩摩藩などの武力を背景に朝廷でクーデタを決行し,王政復古の大号令を発して,天皇を中心とする新政府を樹立した。これをもって,江戸幕府の 260年以上にわたる歴史に終止符が打たれた。[コメント]
p.234の脚注で「過激な討幕を好まずに公武合体論の立場をとってきた」孝明天皇が1866年末に急死したこと、この「天皇の急死は幕府にとって大きな痛手となった」ことが説明されている程度で(旧版からそのまま)、1867年段階でも「討幕派」が朝廷で非主流派でしかなかったことがわかりにくい。
p.236 王政復古クーデタ後の新政府の構成
新政府は,将軍はもちろん,朝廷の摂政・関白も廃止して,天皇のもとに新たに総裁・議定・参与の三職をおき,参与には薩摩藩やそのほか有力諸藩の代表的人物を入れて雄藩連合の形をとった。[コメント]
p.236 小御所会議と徳川慶喜
小御所会議では,慶喜に内大臣の辞退と朝廷への領地の一部返上(辞官納地)を命じる処分が決定されたため,反発した徳川慶喜は京都から大坂城に引きあげ,新政府と軍事的に対決することになった。[コメント]
p.236〜237 ロンドン世界産業博覧会とパリ万国博覧会への出品 旧版では
イギリス公使オールコックが,日本の美術工芸品を収集して1862年ロンドンの世界産業博覧会に出品したり,幕府が1867年のパリの万国博覧会に葛飾北斎の浮世絵などを出品したりして,日本文化の国際的評価を高める努力も行われた。と、ロンドン世界産業博覧会、パリ万国博覧会についての脚注があったが、カットされた。